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村上海賊様々な行方 [史料紹介]

三島村上水軍各家は近世に入り、豊後森藩主、萩藩船手組頭、萩藩船手組としてそれぞれ続いていきました。

その他庶流の各家もその例として福岡藩黒田家中の「野島(能島)衆」を取り上げましたが、この他にも各地に村上水軍の末裔を名乗り近世を過ごした人々が確認できます。 これら村上氏と系譜的に関係のありそうな諸氏を備忘録的に紹介してみます(萩藩内の各家は除外しました)。

来島系

紀州藩村上氏(彦右衛門吉清系)

村上通康の子で通総の弟、彦右衛門吉清の系統です。 元は黒田氏に仕え、通総戦死後に来島家へ戻るも関が原合戦後の改易で福島正則家臣となり、更に正則の改易後は、大崎長行、真鍋貞成と共に紀州藩に召し出されています。

寛永15年に吉清は亡くなった後、家臣山野井五右衛門および鎌足八兵衛により「村上彦右衛門義清働私共覚候分書付上申事」が残されています[1]。

紀州藩村上氏(助右衛門景房系)

景房の祖父吉継は来島村上氏の重臣で、村上通総と袂を分かって以降は小早川家中にありましたが、隆景死後に景房は毛利家に移ります。 関が原合戦後は細川氏に仕え豊前国京都郡で1000石を与えられていたようです[2]。 その後、元和年間毛利氏に戻って船手組の一つを率いますが、旧主筋にあたる村上彦右衛門との関係からか紀州藩士となっています。

岡山藩村上氏

一度取り上げていますが、和気郡葛籠葛城主で通康弟筑前守の家系と伝えます。 筑前守吉賢、内蔵太夫吉高と続いて村上通総に与したため葛籠葛城を離れることとなり、来島村上氏、ついで関が原合戦後に加藤嘉明、明成父子、その改易後は岡山藩池田氏の下へと移っています。 来島氏の縁戚であることを意識していたらしく後年、久留島氏へと改めています[3]。

福岡藩下嶋氏

福岡藩下嶋氏も来島関係者でしょうか。 下嶋氏として次郎太夫[4]、十右衛門[5]の名前が見えますが、遡って永禄11(1567)年に道後で村上通康が亡くなった際、直前に来島親類衆の下嶋次郎左衛門が小早川隆景にその容態を伝え、また伊予国内に不案内な 毛利勢の案内を務めています[6]。 次郎太夫はこの次郎左衛門の縁者ではないでしょうか。

また、余談ですが分限帳の記載位置からは船手関係者らしき垣生太郎左衛門幸親[7]も伊予で河野氏の奉行人であった垣生氏であるかもしれません。

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天正16年の高野山上蔵院宛宿坊証文 [史料紹介]

河野氏滅亡後の天正16(1588)年、河野氏が定めた高野山における伊予住人の宿坊、上蔵院に対して再度宿坊証文が書かれています[1]。 この宿坊証文は前年に亡くなった河野通直の慰霊を弔うために高野山へと登山した河野通直母とその一行が残したもので「高野山上蔵院文書」に含まれているものです。

天正16年の登山者たち

同じく「高野山上蔵院文書」に含まれる「河野家過去帳」[2]からは、その際に共に登山した多くの人々が旧主通直の慰霊だけではなく、縁者の供養や自身の逆修供養などを行っていることがわかります。

通直母も通直の供養塔を建てると共に、自身の逆修供養も行っており、今も河野氏の墓塔は奥の院に見ることができます。 ただし、当時は女人禁制の地であり、通直母自身が高野山内に入ることはなかったはずです。 また、時期のずれから同行者ではないと思われますが、直近にも多くの河野氏旧臣関係者の供養依頼がなされています。

定成隆氏は上蔵院文書について収録される各種文書の状況、背景も論じつつ、この証文については正文であろうとされています[3]。

宿坊証文とその解釈

この宿坊証文には通直母のほか河野氏の家臣団からも通直時代の重臣層として知られる平岡氏、垣生氏ら以下の13名が連署しています。

  • 平岡太郎通賢
  • 垣生肥前入道全休
  • 垣生左京亮周由
  • 松浦佐馬進通長
  • 垣生孫三良盛継
  • 向居三良兵衛尉経愛
  • 高田小八通真
  • 浅海源右衛門尉通毛
  • 久保市右衛門尉信存
  • 太内蔵人進信堅
  • 杉原太良左衛門尉春良
  • 戒能備前入道顕意
  • 久津名新右衛門尉通保

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能島分限帳「行方覚書」(下) [史料紹介]

引き続き能島村上氏の「能島家家頼分限帳」[1]から読み取れるものを見ていきます。

注目できる記事

来島村上氏との婚姻

系図上では武吉の妻として、前妻、後妻いずれも村上通康娘とされています[2]。 これに関連する記載が中間弥吉について「来嶋様より妙輪様御供仕候」、中間惣兵衛についても「来嶋様より後也、妙三様ニ御供仕候」と2ヶ所見られます。 これらから、武吉の前妻「妙輪様」、後妻「妙三様」が来島村上氏から来たと認識されていたことになります。

なお、来島村上氏との関係では高橋五藤右衛門が「右廣嶋引取、後来嶋左門様ニ居申候事」とあります。 後に久留島藩へと出仕したとも読めますが、左門を名乗る人物はむしろ久留島藩初代藩主長親の庶兄左門通則が知られますが、慶長5年に亡くなったと伝わります[3]。 同じく福島家中の村上彦右衛門吉清と勘違いしたのか、あるいは左門通則の後継者が福島家中に存在したのでしょうか。

田坂茂右衛門

中間弥五助は「伊与ニて首尾能、又 大方様へ御奉公仕候故、立身被仰付、田坂茂右衛門と申」とあります。 この「大方様」を西尾和美氏は河野通宣に嫁し、河野通直の生母である宍戸隆家娘と解釈され、弥五助を「大方」によって独自に取り立てられた河野氏家臣の存在例としてあげられています[4]。

しかし、この分限帳に現れる「大方様」に注目すると、この解釈についての疑問が生じます。 藤原弥助には「小田殿より大方様御供仕候、立身被仰付」とあり、弥助は小田氏から元吉へと嫁いだ「大方様」と共に能島へ来た後、「立身」したことがわかります。 また、既に述べたとおり分限帳の記載がほぼ天正末期以降、基本的には関が原合戦頃以降のものに限られる事を考えれば、弥五助の仕えた「大方」も元吉妻であると考えられます。 「伊与(予)ニて首尾能」とは、慶長5年の伊予での戦いにおける活躍を指しているものでしょう。

能島衆からの脱落

この「行衛覚書」からは、人々が様々な理由で能島村上氏を離れていく様が見て取れます。 暇を与えられ引っ越すものも多くいたようですが、「走り」すなわち逃げ去っていく者達の存在も少なくありません。

東右近助

分限帳の先頭に置かれ、家中でも高禄を食む東右近助ですが、血縁的に村上景広と近い関係にあった事もあってか屋代島を離れたようです。 右近助の項には関ヶ原合戦前後の状況だけではなく、長々とそして如何に不忠な人物であったかが書かれています。

「右近事六歳ニ被為成、御主ヲ捨て御家之大事有之、不忠不儀御家中無隠、他国迄も沙汰仕たるとのよしニ候」 とその行動を激しく非難し、その逃亡前後の状況についても 「右近丑ノ歳七月末走り申候前ニ村上八郎左衛門(景広)殿御立退、無程右近走り申候」 とあることから、右近助逃亡の直前に毛利家中を離れた村上景広をも暗に非難していると取れるかもしれません。

景広が慶長6年4月には毛利氏を離れていたことは、乃美景継の起請文[5]から確認ができますので、その後、景広からの勧誘が起こったものでしょうか。 その後の東右近についてはなぜか景広の子景則と誤認されている節があるのですが、熊本藩士として東右近大夫から続いたとする村上孫四郎家がこの家系でしょうか[7]。

村上四兵衛

80石取りと分限帳の中では東右近助、村上左馬助、友田次兵衛に次ぐ給地を持つ人物です。 四兵衛は能島衆が屋代島へと移ったのち、安下庄から「あたけと申大船」へ武具や馬具などを詰み、その他数艘の船で縁者30人程と逃げ、近年戦ったばかりの伊予の加藤嘉明を頼ったとしています。 四兵衛は1000石で、残りの者は100石で召し抱えられるも3年後、正月の祝いの帰りに酒盛中に船が転覆し、誰も助からなかったと伝え、それを「行衛覚書」では「天命至極」と糾弾しています。

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能島分限帳「行方覚書」(上) [史料紹介]

「宮窪村上文書」の中にはひとつの「分限帳」[1]が含まれています。 「宮窪村上文書」は基本的に村上一学家、つまり景親の系譜に属する文書が中心ですが、この分限帳は本家元吉の家臣団についてのものと思われます。 また、単なる分限帳ではなく、その後の家臣団の行方を記した「覚書」としての性質ももつものです。

「能島家家頼分限帳」

この「分限帳」の構成はまず大きく二つに分けられます。 最初が東右近に始まる能島村上氏の分限帳、そして末尾に記された関が原合戦以降の経緯を記した部分です。

また、分限帳部分は、人名、禄高の記載に対し、その人物のその後や特筆すべき事項を記すという形が取られています。 さらに、この分限帳部分も、先頭の給人44人、その後に続く「小給人」の項、さらに中間として姓を持たぬ人々が記されます。

以下、慶長初期以降と思われる分限帳の成立時期に関しては「分限帳」、竹原崩れ以降の事跡を記した箇所については「行方覚書」として取り上げます。

数値でみる分限帳

まずはこの分限帳を数値的に見てみます。 掲載されている人名を、分限帳の記載を参考に分類してみます。

まず、途中に「四拾四人之外小給人と申ハ漕手ニも懸り陸ニてハ弓靭腰ニ付飛脚役状持廻り」とあり、名字を持つ下級の侍を小給人と指すようです。 ここに属する101名のうち、2名については「跡」が付されており、分限帳作成時には当該給地は該当する給人が不在だったようです。 また、中間を記載したその後に姓を持つ5名が記されており、単なる追記なのかあるいは彼らの扱いはまた別であったとも考えられます。

この小給人より上位に位置する人たちをここでは給人として扱うことにします。 先の記述の通り、44人という認識に対し、侍のほか、大龍寺15石を含むとこの数値と一致します。 集計ではこの他に便宜上、「武吉隠居分」50石、「景親様船懸」76石余を含めました。

中間については、中間〜と記され、姓を持たない者たちであるようです。 ただし、これらの内から後に「立身被仰付」と書かれ、姓を与えられた者も散見されます。

分類 人数石高計 平均最低最高
給人  461766.6 38.420101
小給人 1011203.5 11.9525
中間  22 191 8.7710
合計  1693161.1 18.7

給人の最低値から大龍寺15石は除外しました。 結果概ね、給人は20石以上、小給人は10〜20石、中間は10石以下という基準がこの時点では存在したようです。

成立まで

ここまで分限帳として紹介してきましたが、実際には現状のこの文書はその先頭にも記されているとおり「行衛(方)覚書」という性質の方が強いものとなっています。 結論としては慶長初期の「分限帳」に対し、寛永年間(までの間に)、家中の誰かが「行衛覚書」として成立させたものと言えるでしょう。

先に見た通り、家臣団へ合計3100石余りの給付がなされており、その他、給銀、給米を受ける者たちの存在が示されています。 防長移封直後、屋代島の能島村上氏1500石取りであり、また、この分限帳末尾に友田次兵衛が25石、江師宇兵衛が20石となったと記されており、これらは分限帳本文での給地82石余、41石のそれぞれ半分以下です。

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「座配書立」に見る小早川隆景家臣 裳懸氏の系譜 [史料紹介]

小早川文書「座配書立」は一部が年欠となっているのですが、これについての考察がなされた論文について木下和司氏よりご教示をいただいておりました。 これを参考に裳懸氏の状況を再確認してみることにします。

小早川文書「座配書立」の並べ替え

小早川氏の家臣団構成を確認する上で、小早川文書に含まれている「座配書立」[1]に現れる人名はおおいに参考になります。

村井良介氏の「安芸国衆小早川氏「家中」の構成とその特質」[2]ではこれに含まれる年欠史料をその内容からその年代順を推定されています。 村井氏はこの史料に含まれる19通の書立について、それぞれに現れる人名の相関関係と、特定できる人物の名乗りの変化から、その正しい年代順での並べ替えを試みています。 また、その内容から内2通については同年のものが別文書に分れたものとして合計18通分の順序を下記のように示されました (ここで、AからSは元史料における提示順となります)。

表1 村井氏による推定(可能性のある年次は筆者追記)

書立年次推定
A永禄2年
B永禄4年
D年欠永禄5〜9年?
E年欠永禄6〜10年?
C永禄11年
F年欠永禄12〜元亀4年?
M年欠永禄13〜天正2年?
L年欠元亀2〜天正3年?
H天正4年
I天正5年
J天正6年
N天正7年
K年欠天正8〜9年?
O天正10年
P(G)天正11年
Q天正12年
R天正13年
S天正14年

裳懸氏の場合

この再構成された史料の内容を裳懸氏分についてみてみます。

裳懸氏については、合計9つの名前が現れますが、これをおよその推定により分別して示します。 ★つきは比定の材料が不十分であることを示します。

表2 「座配書立」における裳懸氏

      ABDECFMLHIJNKOPQRS
      
裳懸与次  A_________________
      
裳懸河内守 _B________________
裳懸(殿) ___E______________
      
裳懸新四郎 _____F____________★
      
裳懸六郎  ___E______________
裳懸新衛門尉____C_____________
裳懸刑部丞 _____F____________★
裳懸(殿) ______MLHI_NK__QR_
      
裳懸次郎四郎______MLH_________
裳懸采女允 _________IJNK_P__S
      
裳懸六郎  _____________OPQRS
      

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能島衆の関が原 [合戦]

戦国末期、瀬戸内の海に大きな存在感を示した能島村上氏ですが、秀吉の四国攻め、海賊禁止令などにより、毛利、小早川氏傘下にあってその家臣化が進みます。 このような中で、徐々に離散していったと思われる能島村上氏の中で、村上武吉傘下を離れた海賊衆が戦った最後の海戦を取り上げます。

関が原合戦と能島衆

能島村上氏一党は関が原合戦のさなかも毛利家中の一員としての活動が各地でみられます。 分家の村上景広は乃美兵部(景継)らとともに、伊勢湾に進出した記録が残ります[1]。 一方、武吉の子、景親は当初、兄元吉と共に蜂須賀領の受け取りへと阿波へ進出し、後に近江大津城攻めへ転じたようです[2]。 能島の当主、元吉は阿波へ向かった後は、輝元の命を受け、伊予進攻の準備にかかり、父武吉、宍戸善左衛門らと伊予へ向かった元吉は加藤嘉明の残留部隊の夜襲を受け、三津の地で討ち死にします。 この前後、武吉の姿は伊予に残る河野旧臣へと宛てた連署状[3]で確認できるのみで、地上の戦闘には関わらず、海上にあったのかもしれません。

最後の船戦

恐らくは能島衆が関わった最後の船戦は、意外なことに豊後沖で関が原本戦からしばらく後に行われていました。 組織としての能島衆は関が原以前に既に離散が始まっていたようで、慶長4年には黒田家に入った「野島衆」が居たようです。 彼らが、薩摩へと戻る島津家の軍船との間で戦った海上戦闘が慶長5年9月26日に発生していることを島津、黒田双方の史料から桐野作人氏が紹介されていました[4]。

当時、九州では東軍についた黒田如水が西軍についた豊後諸将や大友再興軍と対峙していました。 大友軍を下した後、黒田如水は豊後国富来城攻略中であり、この時、松本吉右衛門の指揮下に黒田水軍も豊後沖で活動を行っていたようです。

このような状況下、西軍についていた島津家の軍船4隻が国元へと戻る途中、豊後沖で遅れた3隻が黒田水軍と遭遇します。 島津船は逃走を試みたようですが、3隻のうち2隻が黒田水軍との戦闘に陥ります。 これについては逃れおおせた船が義弘夫人の御座船であったことから残り2隻がこの船を逃すよう振る舞った可能性もあるのではないかとも桐野氏は書かれています。

この海戦を「黒田家譜」[5]と「松本家文書」[6]から確認してみます。 まず「家譜」のこの場面では野島衆と思われる人物の行動が多く描かれます。 黒田水軍の軍船は島津家側よりも小さく、島津側の必死の抵抗を受けて苦戦しますが、庄林七兵衛、石川勝吉、村上長介、あるいは讃州直島、すなわち塩飽の高原次郎兵衛らの活躍で炎上し、ついにはその制圧に成功します。 卯の刻に姫島沖で始まった船戦は申の中刻に佐賀関で終わったと記していますから、9時間前後に渡っての激戦であったようです。 「家譜」では島津側の被害を200名ほどの乗員のうち、助かったのは僅かに水夫人夫13人、女8人のみとしていますが、対する黒田側も死者が計44名、手負い54名という大きな被害を残しています。

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慶長の役、小早川家の西生浦の在番役に見る小早川氏家臣団(3) [史料紹介]

引き続き小早川家の西生浦在番役を割り当てられた各武将の出自について九州関係者と不明な人物について、そして彼らのその後についてです。

九州出身者

名和氏

伯耆左兵衛は肥後の名和顕孝が先祖である名和長年に縁のある伯耆を姓として用いたもののようです。 顕孝の頃には名和氏は宇土城を本拠とし、宇土氏とも名乗っていたようです。

秀吉に降り、天正16(1588)年の肥後での国人一揆には上洛中であったこともあり参加していないものの、後に同じ肥後国人の城氏と共に、筑前の国人原田氏らとの間で替地を命ぜられています[1]。 このような経緯で隆景の指揮下に入った顕孝ですが北条攻めや文禄の役にも従っていることがわかります[2]。

また、長良とも名乗ったようで「乃美文書」に小早川景俊宛の彼の起請文が残されています[3]。 兵法の伝授を伝える起請文のようですので、左兵衛は軍学にも長けていたものでしょうか。 ただ、宛所の景俊は一般に伝わる小早川氏には見られない名です。 秀俊が小早川氏入嗣時に一時景俊を名乗ったのかもしれませんが、これが乃美氏の下に伝わることと合わせて不明なところです。

天正3年の島津家久の上洛を記した『中書家久公御上京日記』には、京での様々な場面に度々「宇土殿」の名前が見えるようですが、これも名和顕孝と考えられているようです[4]。

問註所氏

問註所(翻刻では門住所)氏は大友氏に従った筑後の有力国人として知られる存在です。

問註所統景は九州国分の後は隆景の下に置かれ、文禄元年に朝鮮の地で討ち死にしています。 小兵衛の名は統景の孫で立花家に仕えた康辰として見えますが、年代的に符合しませんので、統景の子で康辰の父でもあり、後に立花宗茂に仕えた三郎兵衛政連を指すのではないでしょうか[5]。

黒木氏

黒木氏もまた筑後の有力国人です。 大友氏を背き、竜造寺氏についた家永は大友氏の攻撃を受けて敗死していますが、その子延実が隆景に仕えたということです。 このことから与兵衛尉は延実かその近親者でしょう。

杉氏

各隊の指揮官のさらに倍近い給地を得ていることが推測される杉太郎兵衛尉については、はっきりしたものが見えません。 その所領の大きさから、所領安堵を受けた在地の国人であることは確かでしょうが、各隊の指揮官に選ばれているのがいずれも毛利氏、小早川氏と関係の深い家臣であるところを考慮すると、毛利氏の家臣筋ではなく、九州在地の国人が所領安堵されたものと考えるのがよいのかもしれません。

遠賀川流域には杉太郎兵衛重緒という武将が鎌倉初期にいたと伝わっており[6]、この杉氏は大内一族とは別の杉氏のようですが、この系統が代々杉太郎兵衛を名乗って続いていた可能性はあるのではないでしょうか。

一方、後に小早川家から村上景房や曽根景房らと共に毛利家臣となったと思われる「杉帯」なる人物の存在が確認できる[7]ことから、毛利氏につながる杉氏が小早川家中に居たとも思われます。

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慶長の役、小早川家の西生浦の在番役に見る小早川氏家臣団(2) [史料紹介]

引き続き、小早川家の西生浦在番役割当の史料を取り上げます。 ここでは各武将の出自について分かる範囲でまとめてみたいと思います。

伊予出身者

2隊の所属者から明確に伊予関係者とわかるのは村上氏、曽根氏各2名の計4名となります。 この時期、本貫地を失った伊予出身者がこの他にも小早川氏へ仕えていた可能性はありますし、彼らが他の2隊に含まれていた可能性もあります。

村上氏(能島系)

武吉の次男景親は四番隊の隊長を務めています。 景親については、父と兄である武吉、元吉が筑前を離れるのと入れ替わるように名島に入っている様子が確認できます[1]。 なお、村上景親の娘のうち二人が日野景幸の子である元重の妻、後妻となっています[2]が、景幸とのこの時期の小早川家臣時代の縁でしょうか。

村上氏(来島系)

村上景房の祖父は来島村上氏とその主家河野氏を軍政両面から支えた村上河内守吉継です。 来島通総の河野氏からの離反にも従わず、来島氏の伊予復帰と小早川隆景の伊予領有以降も来島氏の下には戻らずそのまま隆景の家臣となったようです。 吉継の子、景房の父である又四郎は早くに討ち死にしていた[3]ようですので、直接吉継の遺領を継いだものと思われます。

曽根氏

二番隊に曽根孫左衛門(景房、あるいは高房)と十郎右衛門尉が見えますが、曽根景房は元は曽根城主(旧内子町)の曽根氏となります。 景房と共に姿の見える十郎右衛門尉は景房の弟高光であるようです。

高光は後に石田三成に仕え、関が原の戦いに際して討ち死にしたと伝わっています[4]。 景房も刈屋口の戦いで討ち死にしており、奇しくも関が原の本戦、そしてそれに伴う伊予での攻防戦とほぼ同時期に別々の場所でこの兄弟は命を落とすこととなったようです。

光成準司氏は曽根氏に伝わる書状から、景房が石田家中に移った可能性を示されています[5]が、曽根景房自身は村上景房らと毛利氏に復帰している様子が伺えますので、三成が引き取った家臣の一人が十郎右衛門尉高光であったということでしょう。

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慶長の役、小早川家の西生浦の在番役に見る小早川氏家臣団(1) [史料紹介]

小早川隆景は四国攻めの後に伊予を与えられ、豊臣政権下の大名となりました。 しかし、隆景は毛利領内にも所領を保持し、隆景に付き従って四国、九州へと移った武将の中にも同様に毛利領内の所領を持っていた者もいたと思われます。

これに加え、隆景の跡を養子として小早川秀秋が継ぐことになったため、秀秋の家臣団と新たに秀吉からつけられた者もいる状況で小早川家の内部は複雑な状況にあったはずですが、秀秋時代の朝鮮での在番役についての史料から家臣団の断片を見てみます。

西生浦在番役

小早川家を継いだ秀秋は慶長の役で西生浦の在番役を命じられており、その家中での軍役の割り当て記録が二番隊を率いる清水景治[1]、四番隊を率いる村上景親[2]のものについて残されています。 1隊約750人の4隊構成で各隊毎に4ヶ月の任期でこれを割り当て、家老の山口宗永が取りまとめていますが、この中には何人かの伊予出身者の名前も見られ、数少ない小早川氏家臣団についての史料でもあると思われます。 隆景時代とはまた異なる背景をもつ者たちであるとは思われますが、これについてわかる範囲でまとめてみました。

この割り当てが記載された文書の日付は慶長3(1598)年4月で、三原に隠居していた小早川隆景は既に前年に亡くなった後にあたります。

4隊の構成

4隊についてその指揮官や人数、在番期間についてはそれぞれの史料の最後に記されているため、史料の確認できない2隊のものも含めて知ることができ、これをまとめたものが表1となります。 ここから指揮官となったはいずれも小早川氏あるいは毛利氏縁の国人勢力の出身者であることがわかり、うち3名は隆景の偏諱を受けている人物です。

表1 4隊の構成

指揮官  諱  人数 鉄砲 期間
一番日野左近 景幸 736人不明 慶長3年5月から9月
二番清水五郎左衛門景治 732人216丁慶長3年10月から2月
三番仁保民部少輔 広慰?750人不明 慶長4年3月から7月
四番村上三郎兵衛 景親 739人208丁慶長4年8月から12月

村上景親、清水景治はいずれも家督を継ぐべき兄が毛利氏の家臣として存在し、日野景幸も子の元重に毛利領内の所領は譲った上で小早川氏へと移っているようです。 実際、景幸の場合、日野氏の毛利領内での所領は1000石[3]ですが、慶長4年には4000石を秀秋から与えられています[4]。

村上景親も秀秋から3100石を与えられています[5]が、慶長4年に毛利氏に戻った際には1000石の給付に止まっていたようです[6]。 このように、小早川氏家臣団への編入は経済的なメリットも大きかったものと思われます。

また、仁保民部少輔の詳細は不明ですが、仁保元豊の子で、仁保家を継いだ元智の兄でもある広慰ではないかと考えていますがこの点については後述します。

この他、各隊に編入されている各人についても下記の4通りのうちのいずれかの出自と考えられ、少なくともこの在番役には古くからの秀秋家臣や秀吉からつけられた者達は関わっていない様子が伺えます。

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村上隆重の死 [史料紹介]

笠岡村上氏の初代とも言える村上隆重について、津々堂氏によって 「分かりました・・村上隆重の没年 - 津々堂のたわごと日録」 という記事が掲載されています[1]。 この内容には個人的には異議があるため、取り上げてみたいと思います。

景広の死

隆重の子、景広は細川家で1万石を与えられその家臣として寛永4(1627)年、73歳で亡くなります。 ところで、これに関連し、津々堂氏は以下の記事から翌年景広の父隆重が亡くなったものとされています。

細川小倉藩「日帳」寛永五年九月二十八日項に次のような記載がある。

■村上隆重葬儀 村上景則母危篤

「椋梨半兵衛被申候ハ、八郎左衛門吊(弔カ)、今井(中津郡)にて仕候、ニ三日之御暇被下候ハヽ、参度存候、それより、河内殿(村上景則)御母儀煩きわまり申由、申来候間、今井より直二中津へ参度被申候、さ候ハヽ、可被参由、申渡候事」

詳しくは冒頭に示した元サイトをご覧いただくとして、この「日帳」の記事[2]から津々堂氏は以下のようにまとめられています。

  • 景広とともに父隆重も豊前に
  • 景広は寛永4年没
  • 隆重はその翌寛永5年没

この隆重の死について検討を行ってみたいと思います。

村上隆重についての検討

まず、隆重の生年ですが、一つはその名前から大内義隆の偏諱を受けていること、また天文10(1541)年前後の能島村上氏の内紛で武吉擁立に尽力したとあることから、少なくとも永正年間(1504〜1521)には生まれていたものと考えられます。 その死没が景広の死の翌年であった場合、その没年は100歳を大幅に上回るもので、現実感はありません。

また、「村上家文書調査報告書」解題では隆重が永禄末年頃までには亡くなっていたと解釈しています[3]。 毛利氏からの笠岡給付に関する村上少輔太郎宛の書状の年代比定の問題でもあるのですが、山内譲氏との間での時期を巡る見解の相違が起きています。 この書状の年代が隆重生存の傍証とはなりますが、山内説を採った場合でも天正年間以降、隆重の生存を示す一次史料はないと言ってもよいでしょう。

それでは先の記事が意味するものはなんでしょうか。 このヒントは豊前中津ではなく、肥後八代の街に残されていました。

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