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能島分限帳「行方覚書」(上) [史料紹介]

「宮窪村上文書」の中にはひとつの「分限帳」[1]が含まれています。 「宮窪村上文書」は基本的に村上一学家、つまり景親の系譜に属する文書が中心ですが、この分限帳は本家元吉の家臣団についてのものと思われます。 また、単なる分限帳ではなく、その後の家臣団の行方を記した「覚書」としての性質ももつものです。

「能島家家頼分限帳」

この「分限帳」の構成はまず大きく二つに分けられます。 最初が東右近に始まる能島村上氏の分限帳、そして末尾に記された関が原合戦以降の経緯を記した部分です。

また、分限帳部分は、人名、禄高の記載に対し、その人物のその後や特筆すべき事項を記すという形が取られています。 さらに、この分限帳部分も、先頭の給人44人、その後に続く「小給人」の項、さらに中間として姓を持たぬ人々が記されます。

以下、慶長初期以降と思われる分限帳の成立時期に関しては「分限帳」、竹原崩れ以降の事跡を記した箇所については「行方覚書」として取り上げます。

数値でみる分限帳

まずはこの分限帳を数値的に見てみます。 掲載されている人名を、分限帳の記載を参考に分類してみます。

まず、途中に「四拾四人之外小給人と申ハ漕手ニも懸り陸ニてハ弓靭腰ニ付飛脚役状持廻り」とあり、名字を持つ下級の侍を小給人と指すようです。 ここに属する101名のうち、2名については「跡」が付されており、分限帳作成時には当該給地は該当する給人が不在だったようです。 また、中間を記載したその後に姓を持つ5名が記されており、単なる追記なのかあるいは彼らの扱いはまた別であったとも考えられます。

この小給人より上位に位置する人たちをここでは給人として扱うことにします。 先の記述の通り、44人という認識に対し、侍のほか、大龍寺15石を含むとこの数値と一致します。 集計ではこの他に便宜上、「武吉隠居分」50石、「景親様船懸」76石余を含めました。

中間については、中間〜と記され、姓を持たない者たちであるようです。 ただし、これらの内から後に「立身被仰付」と書かれ、姓を与えられた者も散見されます。

分類 人数石高計 平均最低最高
給人  461766.6 38.420101
小給人 1011203.5 11.9525
中間  22 191 8.7710
合計  1693161.1 18.7

給人の最低値から大龍寺15石は除外しました。 結果概ね、給人は20石以上、小給人は10〜20石、中間は10石以下という基準がこの時点では存在したようです。

成立まで

ここまで分限帳として紹介してきましたが、実際には現状のこの文書はその先頭にも記されているとおり「行衛(方)覚書」という性質の方が強いものとなっています。 結論としては慶長初期の「分限帳」に対し、寛永年間(までの間に)、家中の誰かが「行衛覚書」として成立させたものと言えるでしょう。

先に見た通り、家臣団へ合計3100石余りの給付がなされており、その他、給銀、給米を受ける者たちの存在が示されています。 防長移封直後、屋代島の能島村上氏1500石取りであり、また、この分限帳末尾に友田次兵衛が25石、江師宇兵衛が20石となったと記されており、これらは分限帳本文での給地82石余、41石のそれぞれ半分以下です。 これらからも、この分限帳の給禄部分は毛利氏の減封以前のものと言えます。

一方、「行衛覚書」部分の記述は基本的には防長移封後のものでしょうか。 即ち、「分限帳」として成立した文書に対し、後年夫々のその後を「行衛覚書」として付記したものとなります。 行方について「覚不申候」と記されている人物の存在から、少なくとも分限帳から覚書へと遷移する際に欠落した可能性は低いと言えそうです。

この史料を掲載する報告書の解題においては、知行高が減らされたため給人が去ったとあり、この分限帳の給禄を屋代島移動後のものとしているようにも取れますが、これは正しくないように思われます。 この文書自体は同様のものが伊保田俊成家にも残り、そもそも景親系の「宮窪村上文書」に残るこれも写であろうとしている点からは、どういった意図でこの文書が広まったのか、興味深いところです。

分限帳部分の成立時点としては慶長4年の竹原移転時のものである可能性が高いのではないでしょうか。 これは亡くなった人物については、伊予で討ち死にし、「御用ニ立被申候」という記載が散見されることが一つの裏付けとなります。 この他の死亡記事は文脈上、関が原合戦以降と考えられ、「〜跡」となる2名を除き、掲載の人物は全員が慶長5年頃まで生存していたと考えられます。 一方、朝鮮への出兵などこれ以前で亡くなったという記載は一人もなく、朝鮮にかかわる記載も山口五郎右衛門が「高麗御陣乃時虎を打留」とする記事のみで、その後も存命であると考えられます。 また、先の伊予での戦死者の家禄について、その家を継いだ人物が示されていない者もあることからも関が原合戦後のものでないことは明らかです。

「屋代島村上文書」に残る付立では、慶長4年の竹原移転前後、村上家の給地は4700石ほどであったようです[2]ので、家臣へ3000石あまりを給付することは可能です。 その他、慶長4年と伝わる能島衆の黒田家への士官者の中に見られる庄林七兵衛、石川勝吉、村上長介らの名前[3]もありません。 ちなみに、面白いこととして分限帳内で庄林氏は12名を数え最も多人数を占めていますが、その殆どが少禄であることも特徴として見えています。

検討事項

ただし、上記の慶長4年、竹原移転後との想定に反する可能性のある記述として以下の項目が存在します。

まずは大龍寺に与えられている所領です。 この大龍寺は屋代島内の入村に元亀年中に創建されたと伝えますが[4]、能島村上氏の所領の位置づけからもこの時期に屋代島に創建されるかは疑問が残ります。 寺自体は、村上武吉の菩提寺となり、後に屋代村へ移転、元の寺地は元正寺として今も武吉の墓が残ります。 大龍寺の名前自体は武吉祖父隆勝の法号から取ったものであるとしていますし、元亀年中に能島村上氏が屋代島に縁の寺を開き、竹原時代においてもその寺領のみ給付するものかという疑問は残りますが、確実におかしいとは言えないものでしょうか。

さらに東右近助、友田次兵衛については、「隆景様より〜」という記載がみられますが、隆景自身が慶長2年に亡くなり、その知行も遅くとも能島の竹原移転(と背後にあるであろう毛利秀元への給地確定)以前には整理されてしかるべきとは思われます。 これは記載自体を覚書部分と見るべきものかもしれません。

最後に、中間平兵衛の項目では、この人物が奥州検地の際に安国寺惠瓊に士分として取り立てられ、太田平兵衛と名乗ったとする記事が存在します。 奥州検地の時期は全国統一のなった天正18年からほど遠くない時期と考えられ、太田平兵衛となった人物が、慶長年間に中間平兵衛として記載されるのは不自然です。 惠瓊のこれへの関与の有無も不明であり、この箇所については別人の「平兵衛」との勘違いか、あるいは関が原合戦の際に士分取り立てとなったものを記憶違いしていたのではないでしょうか。

補足

本項、記述中に藤田達生氏による『秀吉と海賊大名 - 海から見た戦国終焉 』(中公新書)が発売になっています。 同書においてもこの分限帳が紹介され、その内容の一部が掲載されています。

注釈

  1. 「宮窪村上文書」43 能島家家頼分限帳(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』愛媛県今治市教育委員会)
  2. 「屋代島村上文書」 103 慶長4年9月17日 村上掃部領付立(『宮窪町史』)
  3. 『黒田家譜』「黒田家譜 巻之十三」(歴史図書社、1980年)、「松本家文書」高麗陣覚書写(『新修 福岡市史』資料編 中世1、2010年)
  4. 大島宰判 屋代村 大竜寺(山口県文書館『防長寺社由来』第1巻)

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呑舟

大龍寺について

「この大龍寺は屋代島内の入村に元亀年中に創建されたと伝えますが、能島村上氏の所領の位置づけからもこの時期に屋代島に創建されるかは疑問が残ります。」と疑問を呈していらっしゃいますが尤もです。

これは「寺社由来」を藩に提出した時の錯誤とされます。
「大龍寺由緒書」によると慶長7年祖父隆勝の戒名大龍寺殿をとり
海員山大龍寺とします。開基は長穂龍文寺十世海翁玄巨和尚とされます。
慶長年中を間違って元亀年中と書いてしまったようです。
報告した和尚のミスです。

参考までに大龍寺の現在までの流れは

●慶長六年 観応2年創建の内の入村の良禅院(今の岩正寺屋敷)に
      海員寺(庵)を能島より引寺する。この時寺領二十石武吉寄      付。

●慶長七年 父隆勝の戒名大龍寺殿をとり海員山大龍寺とする。
      開基は長穂龍文寺十世海翁玄巨和尚

●慶長十年 西家(一学家)と東家(図書家)の菩提寺を廻りゴタゴタ
      があり良禅院を元正寺と改める。

●元和八年 大龍寺楊雲和尚により屋代村片山極楽寺屋敷に引移る。
      (これは元和四年説も有り)

●寛永十四年 極楽寺跡の大龍寺焼失する。寺宝旧記も悉皆焼失。

●寛永二十年 屋代村石井二尊院跡に大龍寺を再建する。本尊は無し。
       本尊は元禄の初め耕雲和尚、釈迦如来の尊像を求む。

●元文元年 毛利吉元の命により大島宰判も「寺社由来」録上始まる。
      大龍寺創建を元亀と錯誤して録上する。

●寛保二年 村上図書元敬は家譜を萩藩に提出する【現萩藩閥閲録収録】

●明治三年 廃仏毀釈のうねりにより一学家菩提寺芳心院と図書家
      菩提寺の大龍寺を合併し、それぞれ一字づつ採り
      現在の海印山龍心寺とする。

尚、慶長十年に前年逝去の武吉の菩提寺をどこにするかのゴタゴタは
「大野是水(直房)文書」が詳しく伝える。


by 呑舟 (2012-02-16 19:16) 

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