「座配書立」に見る小早川隆景家臣 裳懸氏の系譜 [史料紹介]
小早川文書「座配書立」は一部が年欠となっているのですが、これについての考察がなされた論文について木下和司氏よりご教示をいただいておりました。 これを参考に裳懸氏の状況を再確認してみることにします。
小早川文書「座配書立」の並べ替え
小早川氏の家臣団構成を確認する上で、小早川文書に含まれている「座配書立」[1]に現れる人名はおおいに参考になります。
村井良介氏の「安芸国衆小早川氏「家中」の構成とその特質」[2]ではこれに含まれる年欠史料をその内容からその年代順を推定されています。 村井氏はこの史料に含まれる19通の書立について、それぞれに現れる人名の相関関係と、特定できる人物の名乗りの変化から、その正しい年代順での並べ替えを試みています。 また、その内容から内2通については同年のものが別文書に分れたものとして合計18通分の順序を下記のように示されました (ここで、AからSは元史料における提示順となります)。
表1 村井氏による推定(可能性のある年次は筆者追記)
書立 | 年次 | 推定 |
A | 永禄2年 | |
B | 永禄4年 | |
D | 年欠 | 永禄5〜9年? |
E | 年欠 | 永禄6〜10年? |
C | 永禄11年 | |
F | 年欠 | 永禄12〜元亀4年? |
M | 年欠 | 永禄13〜天正2年? |
L | 年欠 | 元亀2〜天正3年? |
H | 天正4年 | |
I | 天正5年 | |
J | 天正6年 | |
N | 天正7年 | |
K | 年欠 | 天正8〜9年? |
O | 天正10年 | |
P(G) | 天正11年 | |
Q | 天正12年 | |
R | 天正13年 | |
S | 天正14年 |
裳懸氏の場合
この再構成された史料の内容を裳懸氏分についてみてみます。
裳懸氏については、合計9つの名前が現れますが、これをおよその推定により分別して示します。 ★つきは比定の材料が不十分であることを示します。
表2 「座配書立」における裳懸氏
ABDECFMLHIJNKOPQRS | |
裳懸与次 | A_________________ |
裳懸河内守 | _B________________ |
裳懸(殿) | ___E______________ |
裳懸新四郎 | _____F____________★ |
裳懸六郎 | ___E______________ |
裳懸新衛門尉 | ____C_____________ |
裳懸刑部丞 | _____F____________★ |
裳懸(殿) | ______MLHI_NK__QR_ |
裳懸次郎四郎 | ______MLH_________ |
裳懸采女允 | _________IJNK_P__S |
裳懸六郎 | _____________OPQRS |
また、これの検討材料として「閥閲録」裳掛道説[3]、「寛永譜」高山氏[4]から構成した裳懸氏の系譜を再掲しておきます。
裳懸河内守―新右衛門―弥左衛門盛聡(高山主水) ―采女允景利
上記の表のみでは押えられない点もありますが、席次と合わせてみることでいくつかの特徴が見えてきます。
最頻は上位に現れる裳懸(殿)で、その席次からも裳懸氏の当主でしょう。 同時に2名の裳懸氏の名前が上がるのが12例となりますが、この内、裳懸(殿)の名がある9例は裳懸殿が常に上位に位置します。
裳懸(殿)が現れない3例は検討材料となりますが、下記のような順で現れます。
- F:新四郎、刑部丞
- P:六郎、采女允
- S:六郎、采女允
また、史料的に検討の難しい人物3名が下記となります。
- A:与次
- F:新四郎
- F:刑部丞
以下これらの検討をまとめていきます。
裳懸六郎
六郎は弥左衛門盛聡が六郎と伝わっており、天正10年以降という年次からみても、P、Sの六郎は永禄10(1567)年生れの裳懸弥左衛門、即ち高山主水と思われます。
六郎と采女允は甥と叔父の関係に当たり、P、Sの2例で裳懸氏の中で年少の六郎が上位にあることから、六郎が家督継承者に近いことが席次からも伺えるといえるのではないでしょうか。 ただし、裳懸六郎は裳懸(殿)の列席がない年でも裳懸(殿)に代わり上位の席次に位置する事は一例もありません。 この六郎は裳懸殿と参加する場合はその下位に、叔父の采女允景利と参加する時はその上位であることは変わりなく、全体の中でもその席次はほぼ一定しています。 初出のO(天正10年)の時点でも16歳と若年で、裳懸殿と列席している年があることを含め、その時点では裳懸氏の代表者ではないものでしょう。
裳懸采女允
采女允については、閥閲録にある永禄4年の元就饗応の記述と、当時の記録[5]が一致することから出現年次が入れ替わる次郎四郎と同一人物であると考えられます。 采女允景利の席次は天正10年に六郎が現れると、采女允の位置に六郎が入り、采女允の席次は粟屋、手嶋、有田らよりもさらに下座へと移動しています。 裳懸氏としての席次の割り当てがあり、そこに各家の序列が反映されるものでしょうか。
裳懸新右衛門尉
より早い年代と推定されるEにも裳懸六郎の名前が見えますが、先に見た通り後の六郎が弥左衛門盛聡であれば、その年代から、こちらはその父であり、永禄4年の元就父子沼田訪問の記録にも見える六郎であると言えるでしょう。
盛聡の父は新右衛門尉と伝わりますので、Cにみえる新衛門もこの人物であり、この間に六郎から改めたことになります。 この裳懸新右衛門尉は永禄11年に井上春忠らと共に伊予へ派遣されていることがわかります[6]。
裳懸河内守と新四郎
河内守として現れるのは一度のみですが、他の記録などからも当時の裳懸氏当主、河内守盛聡であることは確かでしょう。 裳懸殿として現れる人物がいつまで河内守であったかは不明ですが、Fにおける裳懸新四郎は前後の並びを含め、裳懸(殿)とほぼ同じ席次上位に位置しており、ひとつのポイントです。
裳懸新四郎もまたFの時点では裳懸氏を代表する存在であり、この時点では新四郎、刑部丞という序列が存在します。 河内守が新四郎と改めたと考えるのは不自然であるため、この二人を新右衛門、采女允兄弟とみる事にもなるのですが、この場合、次郎四郎→刑部丞→次郎四郎となる采女允は不自然です。 あるいは新右衛門が刑部丞と改めており、河内守の代役として参加した新四郎が居たものでしょうか。
村井氏もこのFについてのみ「編年を行う有力な手掛かりを欠く」とされており、L、M、Hとの一致率の高さなどからM以前のものであろうとされていますが、あるいは年次が大きく異なるものがあるのかもしれません。
裳懸与次
Aは永禄2年と年号が記されていますが、他の書立と比較して人数も少なく、その並びも上位の席次にいるべき他の小早川庶流の名も見えないなど若干雰囲気のことなるものです。 ここに見える裳懸与次もまたその正体が不明で、該当しうる人名を見出せません。
まとめ
これらを整理すると以下のように考えられるのではないでしょうか。
- 裳懸氏の代表者は椋梨、梨小羽、小梨、小泉、草井などに次いで末長、南氏らに近い席次が通例であった
- 裳懸氏からは2名の参加が認められていた
- 2名参加時の組み合わせとしては以下のように推移している可能性がある
- 裳懸殿(河内守盛聡)、嫡子新右衛門親子
- 裳懸殿(新右衛門)、弟采女允景利
- 裳懸殿(新右衛門)、嫡子六郎盛聡
- 六郎盛聡、叔父采女允景利
- 六郎と采女允が参加した年は裳懸殿が都合(病によるもの、あるいは不在)で参加不可能であったのではないか
余談ですが、裳懸氏の由来である、備前国裳懸庄付近は虫明とも呼ばれる土地であり、これについて興味深い記録として、天正8年の伊勢御師村山家の檀那帳には多くの毛利、小早川家臣に混じり以下の記載が見えます[7]。
高山之分 (中略) (略) むしあけ宋(采)女殿 (略) 同 六郎殿 (後略)
この采女、六郎は正しく、六郎盛聡とその叔父采女允景利でしょう。 備前を離れた以後においても、「裳懸」=「虫明」が通じたということになります。
注釈
- 「小早川家文書」473、475「小早川家座配書立」(『大日本古文書 家わけ 小早川家文書』)
- 村井良介「安芸国衆小早川氏「家中」の構成とその特質」(『古文書研究』52、2000年)
- 『閥閲録』「巻160ノ2 萩町人 裳掛道説」(『萩藩閥閲録』第4巻、1995年)
- 『寛永諸家系図伝』平氏良文流 高山氏(『寛永諸家系図伝』第6巻、続群書類従完成会、1983年)
- 「毛利家文書」403 毛利元就父子雄高山行向滞留日記(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』)
- 『愛媛県史 資料編 古代・中世』2007 「乃美文書正写」「(永禄11年)1月8日 乃美宗勝宛 小早川隆景書状」には「兎角因島方差急渡海干要迄候、裳懸新右衛門尉今朝自是茂遣候、誰そ一人被差渡畠之市迄之着陣是非被急候様御催促候而可給候」と見え、永禄11年年明け早々に裳懸新右衛門尉が渡海し、因島村上の渡海も必要であると隆景が考えている様子が伺えます。
- 山口県文書館所蔵「村山檀那帳」天正9年村山檀那帳(『広島県史 古代中世資料編 5』、1980年)
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