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能島衆の関が原 [合戦]

戦国末期、瀬戸内の海に大きな存在感を示した能島村上氏ですが、秀吉の四国攻め、海賊禁止令などにより、毛利、小早川氏傘下にあってその家臣化が進みます。 このような中で、徐々に離散していったと思われる能島村上氏の中で、村上武吉傘下を離れた海賊衆が戦った最後の海戦を取り上げます。

関が原合戦と能島衆

能島村上氏一党は関が原合戦のさなかも毛利家中の一員としての活動が各地でみられます。 分家の村上景広は乃美兵部(景継)らとともに、伊勢湾に進出した記録が残ります[1]。 一方、武吉の子、景親は当初、兄元吉と共に蜂須賀領の受け取りへと阿波へ進出し、後に近江大津城攻めへ転じたようです[2]。 能島の当主、元吉は阿波へ向かった後は、輝元の命を受け、伊予進攻の準備にかかり、父武吉、宍戸善左衛門らと伊予へ向かった元吉は加藤嘉明の残留部隊の夜襲を受け、三津の地で討ち死にします。 この前後、武吉の姿は伊予に残る河野旧臣へと宛てた連署状[3]で確認できるのみで、地上の戦闘には関わらず、海上にあったのかもしれません。

最後の船戦

恐らくは能島衆が関わった最後の船戦は、意外なことに豊後沖で関が原本戦からしばらく後に行われていました。 組織としての能島衆は関が原以前に既に離散が始まっていたようで、慶長4年には黒田家に入った「野島衆」が居たようです。 彼らが、薩摩へと戻る島津家の軍船との間で戦った海上戦闘が慶長5年9月26日に発生していることを島津、黒田双方の史料から桐野作人氏が紹介されていました[4]。

当時、九州では東軍についた黒田如水が西軍についた豊後諸将や大友再興軍と対峙していました。 大友軍を下した後、黒田如水は豊後国富来城攻略中であり、この時、松本吉右衛門の指揮下に黒田水軍も豊後沖で活動を行っていたようです。

このような状況下、西軍についていた島津家の軍船4隻が国元へと戻る途中、豊後沖で遅れた3隻が黒田水軍と遭遇します。 島津船は逃走を試みたようですが、3隻のうち2隻が黒田水軍との戦闘に陥ります。 これについては逃れおおせた船が義弘夫人の御座船であったことから残り2隻がこの船を逃すよう振る舞った可能性もあるのではないかとも桐野氏は書かれています。

この海戦を「黒田家譜」[5]と「松本家文書」[6]から確認してみます。 まず「家譜」のこの場面では野島衆と思われる人物の行動が多く描かれます。 黒田水軍の軍船は島津家側よりも小さく、島津側の必死の抵抗を受けて苦戦しますが、庄林七兵衛、石川勝吉、村上長介、あるいは讃州直島、すなわち塩飽の高原次郎兵衛らの活躍で炎上し、ついにはその制圧に成功します。 卯の刻に姫島沖で始まった船戦は申の中刻に佐賀関で終わったと記していますから、9時間前後に渡っての激戦であったようです。 「家譜」では島津側の被害を200名ほどの乗員のうち、助かったのは僅かに水夫人夫13人、女8人のみとしていますが、対する黒田側も死者が計44名、手負い54名という大きな被害を残しています。

黒田家中の野島衆は誰なのか

「家譜」はこの野島衆を一月ばかりほど前に雇い入れたと表現していますが、松本家の記録では慶長4年に黒田家へ仕えたとしています[7]。 後の分限帳[8]ではこの庄林七兵衛が古御譜代(豊前時代からの黒田家臣)となっています。

以下に野島衆である可能性のある人物を検討してみます。 まず「家譜」に上がる人名と、それに対応させる史料として、松本家が伝える「高麗陣覚書」[9]を取り上げます。

慶長四年野嶋者御抱、同五年薩摩船二艘乗捕
石川十右衛門 磯野五郎兵衛 野間源市 庄林七兵
衛 村上長助 久田弥左衛門 宮田与兵衛 浦上新兵
衛 三宅藤五郎 野間又一 高瀬又左衛門 野間五兵
衛 前田四郎左衛門 高原次郎兵衛 嶋田正兵衛 前
田作右衛門 合拾六人

「家譜」がこの場面に取り上げている面々と対応させると以下のようになり、両史料で対比できるのは11名、「家譜」のみ2名、「松本家文書」のみ5名となりました。

家譜松本家文書
庄林七兵衛左同
石川勝吉石川十右衛門
村上長介村上長助
安田輿次兵衛不明
浦上新兵衛左同
磯村市兵衛磯野五郎兵衛
加藤源三郎不明※1
三宅藤五郎左同
野間又六野間源市または又一
野間五兵衛左同
高瀬又左衛門左同
高原次郎兵衛左同
久田弥左衛門左同
不明野間又一または源市
不明宮田与兵衛
不明前田四郎左衛門
不明嶋田正兵衛
不明前田作右衛門
  • ※1:ただし、加藤源三郎については同じ松本家文書の高麗陣船頭注文写[10]から加藤源三郎は慶長以前より黒田家と関わりが見え、その出自からも野島衆とは思われません。磯村市兵衛についても同史料から同様に判断されます。

まず、能島家中の分限帳[11]、「家譜」の記載から庄林、それに呼応して中心的に活躍する石川、さらには村上を名乗る長介の3名は野島衆と言ってよいかと思われます。 また、野間を名乗る者達も伊予国野間郡との関わりが考えられることから能島関係者でしょうか。

高原次郎兵衛は讃州直島の高原氏とあることから塩飽衆であることは確実です。 能島が塩飽支配にあたっていた時期の存在や、後の分限帳で「伊予人」と記載がある[12]ことなど、野島衆と一体、あるいは近い存在と見られていたのかもしれません。

また、三宅氏、浦上氏なども備前の住人でしょうか。 高瀬氏も讃岐に高瀬の地名が存在します。 ただし、彼らが備讃の水軍であった場合にやはり以前より野島衆と行動を共にしていた可能性は十分にあると思われます。

このほか、各年代の分限帳には野島衆との注記がなされている人物も確認できます。 ただし、賀藤孫四郎と宮田輿次兵衛についても分限帳の「能嶋衆」記載は確認できますが、加藤源三郎が播磨と関わりがあることから賀藤孫四郎についても同族と見れば野島衆ではありえません[13]。 そうなると能島家中で同名が見られない宮田氏についてもはっきりとは言えないと思われます。

残る、久田、前田、嶋田などの各氏についてはあまり検討材料をみつけられませんでした。 一応、久田氏については家譜で船頭と記されていることから野島衆ではないようにも思われます。

能島の事情

慶長4年というタイミングで、彼らが牢人となっていた事情としては以下の3つが考えられるのではないでしょうか。

一つは能島村上氏が長門の日本海側から竹原へと移動していることです。 この移動は瀬戸内へ毛利水軍の中核を移動させる意味もあったのでしょうが、同時期の毛利秀元領確定も影響していると考えられます。 これに関して竹原への替地の付立[14]が残されています。

もう一つは村上景親が小早川家中から毛利家中へと復帰していることです。 小早川家中ではその宛行状などから3100石の所領の他、約2800石の蔵入地代官を努めていた景親[15]ですが、毛利家中では当座1000石[16]の給付となっています。 最低でも1/3の所領となったことで、経済的な問題から召放ちとなった、あるいは自ら景親の元を離れた者たちがいたのではないでしょうか。

最後の一つは朝鮮の役が終わり、慶長年間以前から能島傘下を外れ、どこかの大名家に属していたあるいは金銭で輸送を請け負っていた者たちがその職にあぶれた可能性です。

恐らくはこのような要因が合わさって牢人する能島衆が生まれていたものでしょう。

まとめ

能島村上水軍の一部が毛利領国が縮小する関が原合戦以前に、黒田家中へと移っていることが確認できます。 能島村上水軍解体の端緒とも言える事象ですが、彼らが勇ましく戦った海戦について、能島衆が関わった最後の船戦ではないかと書きましたが、時期的には全国的にも中世の海賊衆、警固衆が関わる最後の船戦であったのかもしれません。

注釈

  1. 「毛利家文書」381 慶長5年9月12日 尾張国野間内海合戦首注文(『大日本古文書家わけ 毛利家文書』)
  2. 「宮窪村上文書」25 9月13日 堅田元慶書状(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』愛媛県今治市教育委員会)。なお、解説では右衛門尉殿から高田小左衛門が遣わされた点を来島氏の可能性と指摘していますが、これは増田長盛とその重臣高田小左衛門を指すものでしょうか。
  3. (慶長5年)9月15日 村上武吉・村上元吉・宍戸景世連署書状((2)に同じ)
  4. 桐野作人『真説 関ヶ原合戦』(学習研究社、2000年)
  5. 『黒田家譜』「黒田家譜 巻之十三」(歴史図書社、1980年)
  6. 「松本家文書」(『新修 福岡市史』資料編 中世1、2010年)。解題によれば、紀伊国紀伊湊の出自であるとのことです。また、後年井上春忠の系統から養子を迎えたため小早川氏関連文書が伝来している点も注目されます。
  7. 「松本家文書」「高麗陣覚書写」
  8. 「慶長年中士中寺社知行書附」(福岡地方史談話会『黒田三藩分限帳』、1980年)
  9. (7)に同じ。
  10. 「松本家文書」「高麗陣船頭注文写」。また、(7)の史料でも磯村市兵衛について播州出身、加藤源三郎について豆州出身で播州加藤家を継ぎ、後に宇佐見左馬介を名乗ったことを示しています。
  11. 「宮窪村上文書」43 能島家家頼分限帳
  12. 「元和初年人数付(二)」((8)に同じ)
  13. 「慶長七年諸役人知行割 同九年知行書附」((8)に同じ)では加藤源三郎についても「賀藤」と記載されています。
  14. 「屋代島村上文書」 103 慶長4年9月17日 村上掃部領付立(『宮窪町史』)
  15. 「宮窪村上文書」20 文禄4年12月1日 村上景親宛 小早川秀俊 知行方目録、21 文禄4年12月1日 村上景親宛 小早川秀俊 蔵入目録
  16. 「宮窪村上文書」23 慶長4年4月17日 村上景親宛 毛利輝元宛行状

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リンゼ

初めまして、ブログ拝見させて頂き、私の先祖と関係あるのではないかと思う方のお名前をみて心躍りました。
私の先祖は嶋田源之亟で、能島一党で豊前国小倉に行き、細川藩に仕えたそうです。
こちらのブログで、能島衆「嶋田正兵衛様のお名前を拝見して、親族の方ではなかったとおもいめぐらしました。
by リンゼ (2013-09-26 18:07) 

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