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慶長の役、小早川家の西生浦の在番役に見る小早川氏家臣団(1) [史料紹介]

小早川隆景は四国攻めの後に伊予を与えられ、豊臣政権下の大名となりました。 しかし、隆景は毛利領内にも所領を保持し、隆景に付き従って四国、九州へと移った武将の中にも同様に毛利領内の所領を持っていた者もいたと思われます。

これに加え、隆景の跡を養子として小早川秀秋が継ぐことになったため、秀秋の家臣団と新たに秀吉からつけられた者もいる状況で小早川家の内部は複雑な状況にあったはずですが、秀秋時代の朝鮮での在番役についての史料から家臣団の断片を見てみます。

西生浦在番役

小早川家を継いだ秀秋は慶長の役で西生浦の在番役を命じられており、その家中での軍役の割り当て記録が二番隊を率いる清水景治[1]、四番隊を率いる村上景親[2]のものについて残されています。 1隊約750人の4隊構成で各隊毎に4ヶ月の任期でこれを割り当て、家老の山口宗永が取りまとめていますが、この中には何人かの伊予出身者の名前も見られ、数少ない小早川氏家臣団についての史料でもあると思われます。 隆景時代とはまた異なる背景をもつ者たちであるとは思われますが、これについてわかる範囲でまとめてみました。

この割り当てが記載された文書の日付は慶長3(1598)年4月で、三原に隠居していた小早川隆景は既に前年に亡くなった後にあたります。

4隊の構成

4隊についてその指揮官や人数、在番期間についてはそれぞれの史料の最後に記されているため、史料の確認できない2隊のものも含めて知ることができ、これをまとめたものが表1となります。 ここから指揮官となったはいずれも小早川氏あるいは毛利氏縁の国人勢力の出身者であることがわかり、うち3名は隆景の偏諱を受けている人物です。

表1 4隊の構成

指揮官  諱  人数 鉄砲 期間
一番日野左近 景幸 736人不明 慶長3年5月から9月
二番清水五郎左衛門景治 732人216丁慶長3年10月から2月
三番仁保民部少輔 広慰?750人不明 慶長4年3月から7月
四番村上三郎兵衛 景親 739人208丁慶長4年8月から12月

村上景親、清水景治はいずれも家督を継ぐべき兄が毛利氏の家臣として存在し、日野景幸も子の元重に毛利領内の所領は譲った上で小早川氏へと移っているようです。 実際、景幸の場合、日野氏の毛利領内での所領は1000石[3]ですが、慶長4年には4000石を秀秋から与えられています[4]。

村上景親も秀秋から3100石を与えられています[5]が、慶長4年に毛利氏に戻った際には1000石の給付に止まっていたようです[6]。 このように、小早川氏家臣団への編入は経済的なメリットも大きかったものと思われます。

また、仁保民部少輔の詳細は不明ですが、仁保元豊の子で、仁保家を継いだ元智の兄でもある広慰ではないかと考えていますがこの点については後述します。

この他、各隊に編入されている各人についても下記の4通りのうちのいずれかの出自と考えられ、少なくともこの在番役には古くからの秀秋家臣や秀吉からつけられた者達は関わっていない様子が伺えます。

  • (a) 毛利氏、小早川氏関係者で筑前へと移った者
  • (b) 伊予出身者で小早川氏の伊予時代以降に隆景に仕えた者
  • (c) 筑前、筑後などを中心とした九州出身者で筑前転封時に隆景に仕えた者

(a)は清水氏や日野氏、仁保氏が、(b)は村上氏や曽根氏が、(c)には問註所氏や伯耆氏がそれぞれ該当する代表的な存在と言えそうです。 この他、三原衆との入れ替えの形で筑前で召し抱えられた牢人衆なども含まれている可能性もあります。

軍役負担

村上景親、清水景治については小早川秀秋からの宛行状も残されており、文禄4(1595)年に景親が3100石、景治が2600石[7]を与えられています。 これに対して景親の124人31丁、景治の104人23丁という軍役から個々の武将への割り当ては100石当たり4人のすなわち四人役であることがわかります。 ただ、鉄砲については若干負担が押さえられているようで、その代わりと思われる鉄砲組が一部の武将につけられる予定であったようです。

この四人役を前提に禄高を逆算すると、2隊で最も負担の少ないものでも10人の軍役を割り当てられていることから、逆に言えば最低でも250石の所領を宛がわれていたと考えることができそうです。

下記の表2、3に在番帳の内容と四人役で逆算した禄高から各隊の構成を示します。

表2 二番隊 清水五郎左衛門 (禄高は推定値)

名前 禄高 人数 鉄砲 備考
清水五郎左衛門2600石104人 23丁景治、備中国人清水宗治子
土肥半右衛門 1600石 64人 15丁
楢崎孫作 450石 18人 3丁備後国人か
神西又三郎 300石 12人 2丁元は出雲国人か
松田久蔵 250石 10人 1丁
小田村治右衛門 450石 18人 3丁
黒岩六郎兵衛 400石 16人 3丁
原四郎左衛門 400石 16人 3丁周防の屋代島衆原氏か
同人預かり鉄砲 20人 20丁
荒木十右衛門 350石 14人 2丁
同人預かり鉄砲 20人 20丁
富永理右衛門 250石 10人 1丁
同人預かり鉄砲 20人 20丁
伯耆左兵衛 2400石 96人 22丁名和顕孝、長良、肥後国人
曾根孫左衛門 1000石 40人 10丁景房、伊予国人喜多郡曾根城主
曾根十郎右衛門 700石 28人 7丁高光、孫左衛門弟
深川久右衛門 300石 12人 2丁
上野半左衛門 400石 16人 3丁
同人預かり鉄砲 20人 20丁
櫛橋藤一郎 800石 32人 7丁
弘山又右衛門 800石 32人 7丁
高橋加兵衛 650石 26人 5丁
木梨平左衛門尉1500石 60人 13丁景吉、備後国人
仁保平蔵 350石 14人 2丁三番隊仁保民部少輔縁者か
同 平六 350石 14人 2丁平蔵縁者か
合計 16300石732人216丁

表3 四番隊 村上三郎兵衛 (禄高は推定値)

名前 禄高 人数 鉄砲 備考
村上三郎兵衛尉 3100石124人 31丁景親、伊予国人村上武吉子
杉太郎兵衛尉 5100石204人 51丁筑前国人か
門住所小兵衛尉 1600石 64人 16丁政連か、筑後国人問註所氏
黒木与兵衛尉 1400石 56人 13丁延実か、筑後国人
進藤太郎左衛門尉 300石 12人 1丁
中嶋治右衛門尉 450石 18人 2丁
菅新九郎 300石 12人 1丁
江口九郎右衛門尉 350石 14人 1丁備後国人
同人預かり鉄砲 20人 20丁
林三郎右衛門尉 350石 14人 1丁宗重、備中国人
同人預かり鉄砲 20人 20丁
豊田与右衛門尉 300石 12人 1丁
同人預かり鉄砲 15人 15丁
明石彦三郎 250石 10人 1丁
村上孫右衛門尉 2600石104人 26丁景房、伊予国人村上吉継孫
内海市兵衛尉 250石 10人 1丁
鵜飼又兵衛尉 750石 30人 7丁
合計 17100石739人208丁

注釈

  1. 『閥閲録』「巻25 清水宮内」13 西生浦在番人数帳(『萩藩閥閲録』第1巻)
  2. 「宮窪村上文書」22 西生浦在番人数帳(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』)
  3. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)
  4. 『閥閲録』「巻29 日野要人」16 慶長4年3月3日 日野左近宛 小早川秀秋宛行状((1)に同じ)
  5. 「宮窪村上文書」20 文禄4年12月1日 村上景親宛 小早川秀俊 知行方目録
  6. 「宮窪村上文書」23 (慶長4年)4月17日 村上景親宛 毛利輝元宛行状
  7. 『閥閲録』「巻25 清水宮内」5 文禄4年12月1日 清水景治宛 小早川秀俊 知行方目録((1)に同じ)

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