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天正16年の高野山上蔵院宛宿坊証文 [史料紹介]

河野氏滅亡後の天正16(1588)年、河野氏が定めた高野山における伊予住人の宿坊、上蔵院に対して再度宿坊証文が書かれています[1]。 この宿坊証文は前年に亡くなった河野通直の慰霊を弔うために高野山へと登山した河野通直母とその一行が残したもので「高野山上蔵院文書」に含まれているものです。

天正16年の登山者たち

同じく「高野山上蔵院文書」に含まれる「河野家過去帳」[2]からは、その際に共に登山した多くの人々が旧主通直の慰霊だけではなく、縁者の供養や自身の逆修供養などを行っていることがわかります。

通直母も通直の供養塔を建てると共に、自身の逆修供養も行っており、今も河野氏の墓塔は奥の院に見ることができます。 ただし、当時は女人禁制の地であり、通直母自身が高野山内に入ることはなかったはずです。 また、時期のずれから同行者ではないと思われますが、直近にも多くの河野氏旧臣関係者の供養依頼がなされています。

定成隆氏は上蔵院文書について収録される各種文書の状況、背景も論じつつ、この証文については正文であろうとされています[3]。

宿坊証文とその解釈

この宿坊証文には通直母のほか河野氏の家臣団からも通直時代の重臣層として知られる平岡氏、垣生氏ら以下の13名が連署しています。

  • 平岡太郎通賢
  • 垣生肥前入道全休
  • 垣生左京亮周由
  • 松浦佐馬進通長
  • 垣生孫三良盛継
  • 向居三良兵衛尉経愛
  • 高田小八通真
  • 浅海源右衛門尉通毛
  • 久保市右衛門尉信存
  • 太内蔵人進信堅
  • 杉原太良左衛門尉春良
  • 戒能備前入道顕意
  • 久津名新右衛門尉通保

河野氏が伊予を喪失した後の「空証文」に過ぎないという評価に対し、西尾氏はこの宿坊証文を天文13(1544)年の河野通直(弾正少弼)宿坊証文[4]との比較において、証文の内容を順守しなかった者への罰則が 記されていないことなど、弾正少弼通直が晴通の死後に湯築城へ復帰して再び伊予支配に当たった時期と、河野氏が領地を失い当主も亡くした時期との、証文が書かれた状況が反映された内容となっている旨を指摘 されています[5]。

同行した河野氏旧臣団

この証文へ連署している河野氏の家臣13名、即ち通直の死後も通直母と共に行動を取っていた者達をみてみます。 まず、13人の半数以上が河野氏および一族の多くが用いる通字「通」を用いていない人々であることは一つの特徴ではないでしょうか。

彼らのうち、通直母と縁の深い備後出身者の杉原春良は通直母の側近と言えます。

また、平岡、戒能、垣生、忽那(久津名)、大内(太内)らは伊予国内の有力国人でありました。

平岡氏については、連署している太郎通賢についてその花押の一致から翌年に宍戸弥太景世として現れることは紹介しました[6]。 その後の事績を見ても通賢が平岡、宍戸いずれの出自であったとしてもまだ若年であったと考えられ、直近まで平岡氏当主であったはずの遠江守通倚の姿は見えません。 3名が連署している垣生氏と比べ、河野氏権力の中心近くにあったはずの平岡氏の立場、役割にも変化があったのかもしれません。 その垣生氏は、事実上この集団の中心にあったものとも取れるかもしれません。

一方、久津名新右衛門尉通保については、花瀬合戦の後に忽那氏を継いだ通著の弟、忽那新右衛門尉通泰ではないでしょうか。

残る諸氏のうち、浅海、高田(こうだ)氏は元来風早郡周辺に本拠を持つと思われ、なおかつ同姓が来島村上氏との関わりを見せています。 浅海氏は周防平群島に移住した一族と来島村上氏との関わりが知られます[7]し、高田氏も来島通総の家臣に上蔵院と音信を持つ高田総安が見え[8]、関が原後に藤堂氏に召し抱えられた来島氏旧臣にも複数の高田氏 を確認できます[9]。

伊勢参詣

もうひとつ、この高野山参詣の後と思われる時期に高野山のほか伊勢へと通直母の一行が向かっている形跡が確認できます[10]。 これを示しているのは伊勢神宮の御師村山家が残した史料のいくつかです[11]。 その内のひとつは小早川氏の奉行人、井上春忠、包久景相、粟屋景雄、桂景綱、鵜飼元辰の5名が連署して村山太夫へと送っている年未詳5月晦日の文書内で以下のように記されています。

貴礼令拝見候、今度与州之大方様御参宮付而、御宿職之儀、於京都吉様被遂御讃談、彼御立願成就尤珍重ニ存候、猶重而可得御意候、恐惶謹言

さらにこれに先立つと思われる5月22日づけの隆景書状[12]でも宿職の儀と大方参宮に触れていますのでこれも同じく「与州之大方」すなわち通直母に関するものかもしれません。 この中で隆景は「当時九州罷居候間」と触れていますので、これは筑前での行政に当たるだけではなく肥後の一揆鎮圧の必要もあった天正16年の状況にも符合します。

一方、伊勢御師の側からも鵜飼元辰、桂景総に宛てた村山武慶の申状[13]が存在し、こちらでは「隆景様之御かミさま御参宮可有之由」とあります。 この文言を取ればここで触れている参宮は隆景の妻、小早川氏が伊勢へ向かったものと言えますが、天正16年7月という時期からはこれもあるいは通直母に関するものについて誤解から記された可能性はないのでし ょうか。

検討

これらの史料からは天正16年4月に上洛し、通直追悼のため高野山に参詣した通直母の一行はさらに小早川氏の支援を受け、伊勢へも向かったと考えられそうです。 ただし、宿坊証文に連署している一行の一人、松浦通長が5月3日に(堺?)津から上蔵院へ宛てた書状[14]では船の手配に関する文言が見えています。

また、先の小早川氏奉行人連署状にも若干疑問も残ります。 この中では「桂三郎兵衛景綱」が名を連ねていますが、これが後の桂元綱であれば他には小早川氏奉行人としての活動は見えず、その立場も一貫して毛利輝元の直臣と見える点が不審です[15]。 ただし、『陰徳記』では隆景の死に際して、同じく連署している包久次郎兵衛と最期の場面に姿を見せていますので、隆景と何らかのつながりが存在したものでしょうか。 元綱は天正13年時点では桂平次郎として見え、神辺城へ在番しているようですが、天正16年に三郎兵衛であったかは確認できません。

もう一人包久景相の奉行人として連署しているものも時期が限られると思われるため、これも時期の特定に有効ではないかと思われますが、今残るものは主に文禄年間以降のものであり他に天正年間までさかの ぼるものは知られていないと思われます。

このあたりについては更に確認してみたいところです。

注釈

  1. 「高野山上蔵院文書」天正16年4月27日 河野通直母等宿坊証文写(土居聡朋、山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(中)」(愛媛県歴史文化博物館『研 究紀要』12号、2007年)
  2. 「高野山上蔵院文書」河野家御過去帳(土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(下)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』13号、2008年)
  3. 定成隆「上蔵院文書の古文書的考察」(川岡勉編『高野山上蔵院文書の研究 : 中世伊予における高野山参詣と弘法大師信仰に関する基礎的研究』、2009年)
  4. 「高野山上蔵院文書」天文13年4月14日 河野通直(弾正少弼)宿坊証文写((1)に同じ)
  5. 西尾和美「高野参詣と上洛ー天正十六年の河野通直母等連署宿坊証文をめぐってー」((3)に同じ)
  6. ((5)に同じ)
  7. 西尾和美『戦国期の権力と婚姻』「第5章 戦国末期における芸予関係と河野氏大方の権力」
  8. 「高野山上蔵院文書」(天正18年)11月26日 高田総安書状(愛媛県教育委員会『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編、2002年)
  9. 『藤堂藩・藩士軍功録』(三重県郷土資料叢書 第83集、1985年)。来島組、慶長6年召し抱えとして高田六右衛門外11名が記されます。高田氏は後に高虎=高山公を憚り神田に改めるとのことです。
  10. ((7)に同じ)
  11. 山口県文書館所蔵「贈村山家返章」10 5月晦日 小早川氏奉行人連署状(『広島県史 古代中世資料編 5』、1980年)
  12. 山口県文書館所蔵「村山家蔵證書」8 5月22日 小早川隆景書状((11)に同じ)
  13. 山口県文書館所蔵「村山家蔵證書」5 (天正16年)7月26日 伊勢御師村山武慶申状((11)に同じ)
  14. 「高野山上蔵院文書」39 5月3日 上蔵院宛 松浦通長書状(土居聡朋、山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(上)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要 』11号、2006年)。「自□(堺カ)津」の文言が見えます。
  15. 『閥閲録』「巻20 桂勘右衛門」2 9月21日 桂平次宛 毛利輝元書状、5 (天正13年)7月23日 桂平二郎、兼重左衛門尉宛 毛利輝元書状、10 (文禄元年)8月14日 桂三郎兵衛尉宛 毛利輝元書状(『萩藩閥閲録 』第1巻)からは天正13年まで神辺在番が続き、文禄の役でも毛利氏配下での活動が見えます。この他、遡って山口県文書館所蔵「村山檀那帳」天正9年12月12日 村山檀那帳((10)に同じ)においても「郡山之分 桂 左衛門太夫殿、同平次郎殿」と見えるのが就宣、元綱親子と思われます。

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