慶長の役、小早川家の西生浦の在番役に見る小早川氏家臣団(3) [史料紹介]
引き続き小早川家の西生浦在番役を割り当てられた各武将の出自について九州関係者と不明な人物について、そして彼らのその後についてです。
九州出身者
名和氏
伯耆左兵衛は肥後の名和顕孝が先祖である名和長年に縁のある伯耆を姓として用いたもののようです。 顕孝の頃には名和氏は宇土城を本拠とし、宇土氏とも名乗っていたようです。
秀吉に降り、天正16(1588)年の肥後での国人一揆には上洛中であったこともあり参加していないものの、後に同じ肥後国人の城氏と共に、筑前の国人原田氏らとの間で替地を命ぜられています[1]。 このような経緯で隆景の指揮下に入った顕孝ですが北条攻めや文禄の役にも従っていることがわかります[2]。
また、長良とも名乗ったようで「乃美文書」に小早川景俊宛の彼の起請文が残されています[3]。 兵法の伝授を伝える起請文のようですので、左兵衛は軍学にも長けていたものでしょうか。 ただ、宛所の景俊は一般に伝わる小早川氏には見られない名です。 秀俊が小早川氏入嗣時に一時景俊を名乗ったのかもしれませんが、これが乃美氏の下に伝わることと合わせて不明なところです。
天正3年の島津家久の上洛を記した『中書家久公御上京日記』には、京での様々な場面に度々「宇土殿」の名前が見えるようですが、これも名和顕孝と考えられているようです[4]。
問註所氏
問註所(翻刻では門住所)氏は大友氏に従った筑後の有力国人として知られる存在です。
問註所統景は九州国分の後は隆景の下に置かれ、文禄元年に朝鮮の地で討ち死にしています。 小兵衛の名は統景の孫で立花家に仕えた康辰として見えますが、年代的に符合しませんので、統景の子で康辰の父でもあり、後に立花宗茂に仕えた三郎兵衛政連を指すのではないでしょうか[5]。
黒木氏
黒木氏もまた筑後の有力国人です。 大友氏を背き、竜造寺氏についた家永は大友氏の攻撃を受けて敗死していますが、その子延実が隆景に仕えたということです。 このことから与兵衛尉は延実かその近親者でしょう。
杉氏
各隊の指揮官のさらに倍近い給地を得ていることが推測される杉太郎兵衛尉については、はっきりしたものが見えません。 その所領の大きさから、所領安堵を受けた在地の国人であることは確かでしょうが、各隊の指揮官に選ばれているのがいずれも毛利氏、小早川氏と関係の深い家臣であるところを考慮すると、毛利氏の家臣筋ではなく、九州在地の国人が所領安堵されたものと考えるのがよいのかもしれません。
遠賀川流域には杉太郎兵衛重緒という武将が鎌倉初期にいたと伝わっており[6]、この杉氏は大内一族とは別の杉氏のようですが、この系統が代々杉太郎兵衛を名乗って続いていた可能性はあるのではないでしょうか。
一方、後に小早川家から村上景房や曽根景房らと共に毛利家臣となったと思われる「杉帯」なる人物の存在が確認できる[7]ことから、毛利氏につながる杉氏が小早川家中に居たとも思われます。
その他
土肥氏
このほか、今回取り上げた2組の在番に当たる武将の中で千石を越える大身の家臣の中では土肥半右衛門のみその素性が全く確認できませんでした。 その禄高からかつては有力国人の一人であったと思われます。
記述は土肥となっていますがあるいは土井、土居の可能性もあるのでしょうか。 その場合には伊予出身の土居氏(河野氏庶流あるいは宇和郡の土居清良の関係者)の可能性がその一つとして考えられそうです。
出身についてのまとめ
二番隊、四番隊に見える各氏を出自別にまとめたのが下記の表です。
出身 | 不確実 | 確実 | 備考 |
伊予 | 4人 7400石 | 4人 7400石 | 村上x2、曽祢x2 |
筑前 | 1人 5100石 | 0人 0石 | 杉? |
筑後 | 2人 3000石 | 2人 3000石 | 問注所、黒木 |
備中 | 2人 2950石 | 2人 2950石 | 清水、林 |
肥後 | 1人 2400石 | 1人 2400石 | 名和 |
備後 | 3人 2250石 | 2人 1800石 | 木梨、江口、楢崎? |
周防 | 3人 1100石 | 2人 700石 | 仁保x2、原? |
出雲 | 1人 300石 | 1人 300石 | 神西 |
小計 | 17人23900石 | 14人18550石 | |
不明 | 18人 8900石 | 21人14850石 | |
合計 | 35人33400石 |
彼らのその後
隆景死に加え、秀秋の越前転封を契機としてか、毛利系の家臣もほとんどが小早川氏を離れ毛利氏の下に戻ることを選択しています。 清水景治、仁保民部少輔、木梨平左衛門あるいは伊予出身者である村上景親、村上景房、曾根景房らも皆、毛利家へと移ったようで、村上景親は毛利輝元から1000石を与えれたことは以前述べました。
その直後の関ヶ原の合戦では清水景治、村上景親は大津城攻略に関与していたことが伺えます。 村上景親は兄元吉、佐波広忠とともに当初阿波渭山城の接収へ派遣されていますが、後日、元吉、景親兄弟を輝元は呼び戻しており、その代わりに阿波へと送られてた武将の中に仁保民部少輔の名前がありました。 その後、村上景房、曾根景房、木梨平左衛門らは伊予攻略に関与し、曾根景房は伊予での刈屋口の戦いで討ち死にします。
一方で日野景幸は小早川家中に残り、慶長4(1599)年に秀秋から4000石を与えられています[8]。 日野家自体は関が原合戦後に小早川家を立ち退いたと伝えてはいます[9]が、関が原合戦後、岡山での宛行状[10]も残っていますから戦後、小早川秀秋の生前は小早川家臣のままであったのかもしれません。 結局、小早川秀秋の死後にあたる慶長10(1605)年には再度毛利氏に仕えていることが確認できます[11]。 それ以前に慶長3年と思われる村助右(景房)、曽孫左(景房)、杉帯(不明、杉氏あるいは杉原氏か)宛の安国寺恵瓊書状[12]で「日野左近殿親子身上之儀」が話題となっていることから、既にこの頃から毛利氏への復帰を模索していたようではあります。
注釈
- 天正16年8月12日 豊臣秀吉朱印状(『大日本古文書 小早川文書』)
- (天正18年カ)6月24日 名和顕孝書状『大日本古文書 浅野家文書』は小田原の役の際に尾張星崎城の城番をしていることが読み取れます。また、「443 小早川隆景書状写(「名和文書」)」(『新宇土市史 資料編 第3巻 古代・中世・近世』)は文禄の役の際の感状です。
- 「乃美文書」99 8月4日 小早川景俊宛 源長良起請文(伯耆左兵衛佐)(『新熊本市史』史料編第2巻 古代 中世、1993年)
- 『新宇土市史 通史編 第2巻 中世・近世』「中世編 第8章 中世の情報 2 上京日記にみえる「宇土殿」」(『新宇土市史 資料編 第3巻 古代・中世・近世』)
- 「問註所文書」56 問註所家譜(芥川龍男、福川一徳編校訂『西国武士団関係史料集』32 問註所文書(1))では三郎兵衛政連と系図にあります。また、58 過去鑑(同33 問註所文書(2))、では寛永14年3月14日病死、問註所三エ門政連とあります。
- 竜徳史考
- 『藩中古文書』所収「村上小四郎蔵文書」58 村助右、曽孫左、杉帯宛 9月1日 安国寺惠瓊書状写(愛媛県教育委員会『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編、2002年)
- 『閥閲録』「巻29 日野要人」(以下「閥閲録 日野」)16 慶長4年3月3日 日野左近宛 小早川秀秋宛行状(『萩藩閥閲録』第1巻)
- 「閥閲録 日野」では稻葉内匠、斎藤権之助、天野民部、松野主馬、佐々路兵庫、日野左近が一同で小早川家を立退いたとしていますが明確な時期は示していません。
- 「閥閲録 日野」18 慶長5年霜月11日 日野左近宛 小早川秀秋宛行状では4000石を与えられています。
- 「閥閲録 日野」10 元和10年正月11日 日野三右衛門尉(元重)宛 毛利秀就安堵状で左近跡職として大津郡日置460石、美祢郡伊佐郷540石の1000石が安堵されています。
- (7)に同じ。
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