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河野氏旧臣の高野山登山と平岡通賢、宍戸景世 [人物]

西尾和美氏の「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」[1]の内容を紹介しましたが、その論点のひとつである、宍戸景好、景世、平岡通賢を同一人物とする点を取り上げてみたいと思います。

天正16年の高野山登山

西尾氏の前稿にあたる「高野参詣と上洛-天正十六年の河野通直母等連署宿坊証文をめぐって-」[2]を合わせて参照しますが、こちらは天正16年の河野氏を巡る動きに焦点を当てたものとなっています。 その前稿では天正16(1588)年に書かれた上蔵院に宛てられた宿坊証文[3]が大きく取り上げられていますが、その内容や連署者についても興味深いものですので改めて別項で取り上げたいと思います。 伊予に勢力を誇った河野氏も、前年の天正15(1587)年の通直の死去が実質的な滅亡と言えるのでしょうが、天正16年、最後の当主通直の慰霊を弔うためにその母やそれに従う河野氏の旧臣の一部が高野山に登山しています。

平岡通賢についての西尾氏の指摘

この上蔵院に残した宿坊証文に関して、通直母以外の河野氏旧臣13名の連署者の中で西尾氏は通直母に次いで2番目に署名している平岡通賢に注目されています。

「上蔵院文書」には他にも平岡通賢の書状[4]が残されていますが、それらの書状の通賢は平岡大和守を名乗っており、その花押が河野氏の奉行人としても著名な房実のものと酷似していること、同じく房実も大和守を名乗ることから書状の残る通賢を房実と同一人物であろうと推定されています。 一方、「河野家御過去帳」から元亀3年以前に房実は亡くなっている[5]ことから天正16年に高野山に登山している通賢とは別人であるとのことでもあります。

また、この太郎通賢については、逆に翌天正17年の上蔵院宛宍戸景世書状[ 史料3 ]に残る花押が先の宿坊証文に残る通賢のものと特徴が一致しており[6]、書状にも「天正十七年平岡殿御養子也」と異筆で書き残されていることを指摘された上で、平岡通賢が宍戸氏に養子に入った存在であると主張されています。

宍戸景好と景世

個人的には前稿を目にした当時は、景世と系図に残る景好の関係をどう捉えるか、西尾氏の言及がないことが気になっていましたが、この点については既に新たに見解が示されているため通賢=景世=景好というつながりを追うことになります。

西尾氏の論に戻ると宍戸景世が関が原の戦いの際に伊予に侵攻し、同人、あるいは近い位置にあると見られる宍戸善左衛門が通直母の慰霊を上蔵院で行っている[ 史料5 ]ことを紹介した上で、通賢について「憶測を逞しくするならば」と前置きして河野氏の後継者ともたる位置にあったのではないかとされています。

しかし、河野氏当主との関係については過去の西尾氏の研究[7]でも平岡氏との姻戚関係は見えず、平岡氏自身は越智姓を名乗っているものの、あくまで伊予の有力国人のひとりでしかない平岡氏出自の人間が河野氏当主として広く認められ得るのかという疑問があるように思います。

宍戸家の事情

西尾氏の主張に立った場合、景好にとって義父ということになる宍戸元秀が廃嫡されたと伝わることは問題とならないのでしょうか。 元秀の廃嫡について具体的に言及した史料や研究を目にしたことは無いのですが、以前簡単にその時期については検討してみました。 天正10年以降には秀吉との関係からも元秀を名乗ることは考え難いことを考えても、天正8年以降に見える元孝については後の元続と考えたいところですので、この時点で宍戸氏の後継者が元続であることははっきりしていたように思えます。

また、元秀の隠居領を継いだ可能性が強いのも元可ではないか私は考えていますが、そのような状況で直接関係のない平岡氏の子と元秀との養子関係の意味づけが見えてきません。 逆に、当時の毛利氏有力家臣の中で相続権のない子が隆景の偏諱を受けてその家臣となる例として、益田元祥の次子景祥が当初宗像氏に入嗣、その後隆景の偏諱を受けその家臣となっていますが、養子関係なども含めて景好と類似のケースとも言えそうです[8]。

景世の周辺

通賢=景世=景好説に立った場合、(a)景好は元秀の実子ではなく伊予出身である、あるいは(b)景好は宍戸氏から平岡氏に養子に入った時期がある、といういずれかの事実が系図からも抜け落ちているのは確かです。

西尾氏は「客観的には河野氏は滅亡した状態である。~(略)~宍戸本家から、そのような平岡氏に養子を出すだろうか。」と書かれています[9]が、その逆であればなぜ成立するのかという点がはっきりしません。 仮に宍戸氏から平岡氏に養子に入ったとした場合でも、その時期が河野氏の伊予喪失以後であることを示唆するものは『家譜』の記述に過ぎませんし、それらも「宍戸氏の人間が」河野氏を継いだとしています。

河野氏は天正10年前後から来島村上氏、長宗我部氏与同勢力などの対応に追われています。 毛利氏は軍事支援も行っていますが、同時に通直へ輝元の姪でもある吉見広頼の娘矢野を嫁がせてもいます。 この時期に毛利氏側の戦略として、通直の母方の繋がりからさらに宍戸氏の子が伊予の平岡氏に入嗣する可能性はあったとは言えないでしょうか。

隆景あるいは毛利氏が伊予の拝領を強く主張したと言われますが、それにより河野氏の立場が変わることは予定の範疇にあったとしても、筑前移封により伊予を失うことになることはその時点では想定外の事態であると考えられます。 あくまで平岡氏との養子関係は伊予への影響力の強化にあったと見るべきで、芸予の一体化が進んだ時期の話と考えられるのではないのでしょうか。

景好の妻

景好の妻は村上景親娘と伝わりますが、この女性の母親は平岡通倚の妹、直房の姉と言いますから房実の娘です。 祖父はそれぞれ平岡房実と村上武吉であり、河野弾正少弼通直の血もひいていたこの女性が、平岡氏が養子を迎えるに当たって平岡氏側、伊予側の人間として宍戸氏出身者と婚姻するには非常に相応しい血縁であるとも言えそうです。

西尾氏の言われる景好を通倚の実子とすると、単なる従兄弟同士の婚姻となってしまい、芸備の側との繋がりが薄いままとなってしまいます。 ただし、村上景親が永禄元(1558)年の生まれであり、その娘がいつ生まれたかは不明です。 平岡氏娘との間の子は系図上、八助、村上元武室、宍戸景好室、内藤元忠室、日野元重室、同後室の順に見られます[10]。

他の婿を見ると内藤元忠は兄元家の生年から天正9年以降、日野元重は天正5年の生まれです。 景好が元秀の子であればおよそ元亀年間、遅くとも天正初頭の生まれと思われますし、西尾氏の主張を容れても景好の生年はむしろ上ることはあっても下ることはあり得ません。 また、元忠室については先の系図に姉の重縁とありますので、これが元忠姉婿の内藤元盛を介した景好との関係を指していることは明らかと言えるでしょう。

一方、八助は慶長8(1603)年生まれ、元武も関が原の際は未だ幼少と伝わりますので、景親の4人の婿の中でも最年少と考えられます。 また、元重室は慶長11年に、元忠室は慶長17年に子を生んでいることと合わせて、嫡子八助と本家筋となる元吉の遺児元武に嫁いだ娘が年齢を無視し、系図上で特別扱いされていると考えられそうです。 実際の婚姻の時期はもう少し遅いかもしれませんが、天正10年前後に、宍戸弥太郎の平岡氏入嗣と時を合わせて婚姻の約が成ったということはあり得るのではないでしょうか。

まとめ

西尾和美氏が主張されている宍戸景好が平岡氏から養子に入った存在であるとする点について、「高野山上蔵院文書」に残る宿坊証文から紹介しました。 西尾氏はその宿坊証文に名前の現れる平岡通賢を河野氏の後継者的な位置付けにあったとし、翌年までには宍戸氏の養子となって景世を名乗ったとしています。

私個人の見解としては、平岡通賢と宍戸景世が同一人物であるならばそれは宍戸元秀の子である後の景好が一時平岡氏を名乗った時期があったものと考えています。 その養子関係が隆景の筑前転封やその前後に起こった河野通直の死で意義を大きく失い、天正16年の高野山参詣、あるいは西尾氏が推測するような”「上洛」に隠された企図”が頓挫することにより終止符が打たれ、翌年までには平岡通賢は宍戸氏に復して景世と名乗った、そう解釈することもできるのではないでしょうか。

平岡氏の事情、隆景の意志、通直母の願い、どういった経緯かはわかりませんが、宍戸氏に復した後も、高野山に通直母の慰霊を依頼し、景好所領の小鯖村に通直母の牌所と伝わる春松院が存在したことなど、高野山へと共に登った通直母と”平岡通賢”のつながりは終生消えなかったものと思われます。

注釈

  1. 西尾和美「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(『四国中世史研究』第10号、2009年)
  2. 西尾和美「高野参詣と上洛ー天正十六年の河野通直母等連署宿坊証文をめぐってー」(川岡勉編『高野山上蔵院文書の研究 : 中世伊予における高野山参詣と弘法大師信仰に関する基礎的研究』、2009年)
  3. 「高野山上蔵院文書」天正16年4月27日 河野通直母等宿坊証文写(土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(中)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』12号、2007年)
  4. 「高野山上蔵院文書」年未詳10月6日 平岡通賢書状、年未詳3月22日 平岡通賢書状((3)に同じ)
  5. 「河野家御過去帳」の元亀元年12月21日「前和州太守日山甫月居士」「橘出雲守殿為房実公御建立」を指しているものと思われます。
  6. 定成隆「上蔵院文書の古文書学的考察」(川岡勉編『高野山上蔵院文書の研究 : 中世伊予における高野山参詣と弘法大師信仰に関する基礎的研究』、2009年)においても花押の一致については西尾氏の見解を支持されています。
  7. 西尾和美『戦国期の権力と婚姻』(清文堂出版、2005年)「補論 中世伊予河野氏の婚姻関係と権力の変遷」
  8. 偏諱に限れば杉原景盛、村上景親などが、嫡子以外で隆景の偏諱を受けた例として挙られます。いずれも嫡子は元就、輝元の偏諱を受けている点も共通します。
  9. (1)に同じ
  10. 「能嶋家系図」(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』45、愛媛県今治市教育委員会)

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呑舟

通直母の名は?

通直母の名は春松院か春禅院か?
高野山過去帳に残る「天遊永壽」か?
手紙に残る「したし」か?

大半は同一人物でしょうが、いつからどのように使い分けしたのか
分かりませんか?

通直、竹原に於いて秀吉の為、生害さる。
のが事実で「河野家譜」が伝える病死と没日は間違いでしょう。
by 呑舟 (2010-06-05 10:20) 

takubo某

呑舟様

コメントありがとうございます。以前よりお名前は存じ上げておりました。

ご質問の件ですが「宍戸善左衛門による上蔵院への供養依頼(過去帳)」と「宍戸景好が領主時代の小鯖村に通直母を開基と称する寺院があったこと」から、少なくとも宍戸景好(と杉原春良)にとって遅くとも文禄年間以降、通直母は「春松院」だったのではないかと愚考しておりますが、それ以上の材料が私の手元にある訳ではありません。

「宍戸系図」に通直母の菩提寺として上がる「柊村福厳院」がかつては「春松院」であり、『小鯖村史』の記述を見る限り昭和30年代まで福厳院の墓地に春松院の墓があったことは確実のようです。
これまで、この墓を取り上げた調査、論考等を目にはしておりませんので、これが現存していれば新たな知見を得られる可能性はあるのではないでしょうか。
現地は近隣に山口ICができているため大きく変貌している可能性もございますが。

なお、ここで書いているものにつきましては全て誰でも目にすることのできる資料から書いておりますものですので、特別な新事実が出てくることはないかと思います。
それを前提にお目通しいただければ。

by takubo某 (2010-06-07 01:39) 

呑舟

私、そんなに有名ではないのですが?

通直母は手紙では仕出(しだし)と書いているのですが?
他称でも自称でも記録されますので本人もそう認識していたのではないかと。天正10年代がそうなのですが。

春松院と春禅院と二つ呼び名があることは
①どちらかを間違って後世伝えられたか・・・。
②院号ゆえ二つの法号を得ていたのか・・・・。
と思われるのですが、
もう一つ高野山上蔵院過去帳に「天遊永寿」の法名を刻み、
子息通直の供養塔を天正16年に建立してあることは貴HPの
記す通りななのですが・・・・。

長年気になっていましたので昨日、高野山に登り現物を確認してまいりました。

二基の慰霊塔の内、右の慰霊塔は通直母の自身の慰霊塔を通直母自身が天正16年4月26日に
建立したものと思われます。刻印は見づらいので合ってるかどうか分かりませんが、
「天正十六年
 予河野通直■儀、(■母カ)
 天遊永寿逆修
 四月二十六日」と読めます。
これは高野山上蔵院河野家過去帳に残る記述と一致します。

「上蔵院過去帳」
長生寺殿前予州太守月渓宗圓大居士儀
 予奉為河野通直公母儀御建立 天正十五年丁亥七月十四日卒 天正十六年四月廿六日
 建立

天遊永壽  逆修 同施主同人為御自身 同日御建立

左の一基が通直慰霊塔と思われます。

刻印
「天正十三年
 伊予国河野通直之墓
 同■ 宗圓大居士
 七月十四日」と読めます

通直母は史料により、
「春松院」
「春禅院」
「したし」
「天遊永寿」
と様々あり、高野山河野通直供養塔は「天遊永寿」と確認されました。
(逆修)とありますので、本人が生前の法名「天遊永寿」と認識した上で、生害に終り、
河野家断絶を意識した最後の生き残り家臣を連れての高野山登山の天正十六年の4月26日の
模様が見えるようです。

「予陽河野家譜」はこれを意図的か過失か天正十五年の通直の竹原行きの前に差し込んで
 河野家有終の美の文書として筆を置いています。

 没日も天正十五年七月十四日で母親が刻印させています。

この没日も異論が沢山ありまだ調べています。

春禅院は河野家筆頭家老の大野直昌家に伝わる系図に出てきまして
信長が秀吉を通じて河野家調略の節、通直母の「春禅院」が使者に
断り、あまつさえ過言ありと記録され、秀吉を罵倒したかの旨の
記述があり、このことが後に、四国征伐の後、「河野氏は四国の名家ゆえ、所領は削られても家の存続をと」懇願した毛利、小早川家の要請を無視したとされています。
by 呑舟 (2010-06-07 18:28) 

takubo某

喫茶室ゆづきを初め各所でお名前は拝見しております。

ざっと見ると「春禅院」が出るのは伊予側のもの、「春松院」とするのは中国側(宍戸氏)が関わったものとも言えそうですが……。

通直母の呼び名としては「宮原大方」というものもあるようです。
この名が出てくる同じ文書内には「栄寿(永寿)」とあるのみで、「春松院」あるいは「春禅院」のいずれも出てきません。

なお、ここのコメント欄は手狭ですので、大きな話題については今城様の掲示板をお借りして展開していただいた方がよろしいかと思います。
あちらの方が多くの方が目にされていると思われますので。
by takubo某 (2010-06-09 22:30) 

呑舟

「宮原大方」は竹原の宮方部落の大奥様と言う意味らしく天正15年以降の通直母の呼び名と記憶します。
通直母は後に実家に戻り再婚し大野毛利家に嫁いだと思いますが。
この大野毛利家の重臣であった松岡氏の後裔が国際連盟を堂々と脱退し結果として日本を戦争に導いた松岡洋佑であります。
by 呑舟 (2010-06-10 01:31) 

呑舟

訂正
宮方部落→宮原部落

尚、同テーマは「ゆづき」にも投稿しましたが反応はさほど有りません。又、「談話室ゆづき」はサイバー攻撃により落城し「喫茶室」に一時避難をしてますので、手狭で論点がごちゃごちゃとなってしまいました。
by 呑舟 (2010-06-10 01:38) 

takubo某

時間が空いてしまいすみません…。

通直母の再嫁という話は目にしたことがないのですが、通直妻の話とは別でしょうか?
通直妻で吉見氏娘の矢野は、毛利元康(後の厚狭毛利家)に再嫁しているはずです。
いずれにしても大野毛利では吉川広家の子に始まりまる家系ですので年代が合わないかと。

by takubo某 (2010-06-21 01:29) 

呑舟

失礼!
通直妻です。
by 呑舟 (2011-01-11 03:02) 

呑舟

古い話で申し訳ないですが、通直母の春松院か春禅院かは
伊予の話とのお話でしたが、広島竹原の郷土史家春禅院と認識
していました。高野山記録は春松院となってますからそちらが
正しいようですが、禅と松とを崩し字にすると間違うのですかね?

さて、
「この時期に毛利氏側の戦略として、通直の母方の繋がりからさらに宍戸氏の子が伊予の平岡氏に入嗣する可能性はあったとは言えないでしょうか」
とと書かれてますが、入嗣とは跡取と解釈しましたがこれはどのような背景でしょうか?

平岡房実には直系の跡取はいますので、宍戸家から養子を貰う
必要は無かったと思われますが?

この平岡通賢の位置関係もよくわかりませんので御教授願いたい
のですが。

虚実は分かりませんが平岡房実の長男は通資(ミチスケ)二男通軌(ミチヨリ)三男直房(ナオフサ)と伝わり、他に房衛(峯)も伝わります。

所謂天正13年の「河野崩れ」天正15年の「竹原崩れ」の後も平岡通軌は周防屋代島にあって河野家再興を画策します。
伊予関係文書では「竹原崩れ」以降平岡氏は忽然として消えたと
されるのは活躍の場が伊予から芸州、周防に移ったからと思われます。彼の子孫は周防屋代島で明治まで領主として存続しています。

なかなか事実探求は難しいものですね。
by 呑舟 (2011-01-18 11:31) 

takubo某

お尋ねの件をここで簡潔に説明するのも手狭ですのでもう一度別項にてまとめてみたいと思います。
あくまで私が平岡通賢=宍戸景世という論旨を納得した上でのお話ですので、この2人は別人であるという主張もありでしょうか。

ところで、春松院(あるいは春禅院)に関わる寺院は伊予にはないものでしょうか。
江戸時代以降わずかこの10年ほど前までは通直の養母でしかないと思われてきた女性ですから、そうしたものがなくてもおかしくはないのでしょうが。

by takubo某 (2011-01-23 00:57) 

呑舟

どちらも現在の所、よく分からないのです。
平岡家の閨閥関係からも検討しましたがこれもよく分からないのです。この宍戸は後萩藩士ですかね?
もしそうなら、領地は何処で、後裔の当主の名前は分かりませんか?
時代を逆に遡る手もあるのですが?
by 呑舟 (2011-01-23 19:42) 

takubo某

そういえば大事なことをお伺いしていなかったのですが、

> 虚実は分かりませんが平岡房実の長男は通資(ミチスケ)二男通軌(ミチヨリ)三男直房(ナオフサ)と伝わり、他に房衛(峯)も伝わります。

これはどちらに伝わるものでしょうか?
萩藩の屋代島平岡氏の書き出しでは房実の子としては通倚(遠江守)、孫右衛門(津々喜谷、越前藩士)、直房としていたはずですが。

もう一点、

> 平岡房実には直系の跡取がいます

とはどなたをさすのでしょうか。
世代的には景世(景好)は通倚の一世代先、房実からは2代先にあたります。
直房が平岡氏を継ぐまでの間も平岡氏自体の動きが見えないのではっきりしないようにも思えます。

by takubo某 (2011-01-24 09:56) 

呑舟

失礼!通倚を通軌と変換間違えしてました。よって、屋代島平岡氏です。房衛は大野系文書に登場しますが、系図線は分りません。
平岡家は通倚が継いだと思われますが。
by 呑舟 (2011-01-26 01:17) 

呑舟

通直妻

以前間違って通直妻を通直母と書き大野毛利家に嫁いだとしましたが、吉見家譜によると、吉見廣頼の長女です。よって毛利隠岐家の娘となります。
家譜によると「河野通直妻、後毛利元康妻」でした。
by 呑舟 (2011-01-29 20:23) 

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