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宍戸弥太郎考 [人物]

慶長年間に見られる宍戸善左衛門の活動から、この人物が景好であると私は考えていますが、ここでは、慶長5年に伊予を攻めた宍戸景世が宍戸景好と同一人物であることを、景好が弥太郎を名乗ったと考えられることを基底に考察してみることにします。

宍戸弥太郎

宍戸氏の系図には景好を弥三郎とするものがありますが、これは代々嫡子の名乗りで同じ名乗りが元家、隆家、元秀、元続、広匡、就尚と続くことから疑問が残ります。 一方で、景好について弥太郎とする系図も存在しており、こちらが正しい名ではないかとと西尾和美氏は主張されています[1]が、これについては私も同様に考えていることを以前に書きました

弥太郎の名乗りからは「高野山上蔵院文書」に残る宍戸弥太景世[ 史料3 ]を想起でき、この点からもこの当時の景世を後の景好と同一人物であると考えるのに無理はないかと思います。

秀就宮仕衆

ここで、別途注目されるのが、慶長16年12月に秀就の防長入国時の記録に「宮仕衆」としてと現れる22名です[2]。 彼らは有力家臣の若年の子弟であると考えられますが、その最後に宍戸弥太郎の名前が見えています。

表1に22名について確認できた範囲での当時の年齢や名乗りを、表2に加冠状や官途書出を受け取っている記録を示しますが、これらからも彼らのおおよその年齢を推定できます(以下の史料から確認しました[3][4][5][6])。 22名のうち没年とその年齢が確認できた9名は当時14~17歳の範囲ですが、恐らくはほとんどがこの範囲それより広くとも前後2、3歳の範囲にあるのではないでしょうか。 その場合、上限を文禄年間、下限を関が原の戦いが起こった慶長5年頃までに生まれた者たちであると言えそうです。

実家を継ぐ立場にあったと思われる者も多く、例えば和智勝五郎は慶長11年に既に元盛の跡を継いでいます[7]し、香川忠五郎は慶長10年の家臣団連署状にも名前が見える[8]ことからやはり実家を既に継いでいたようです。 また、輝元の側近佐世元嘉の子や、4名の児玉氏のうち少なくとも3名は秀就母の実家に近い存在であることもわかります。

こうした条件と、父の名乗りからここに見える宍戸弥太郎は同じく弥太郎を名乗った景好の嫡子で後の元真ではないかと考えられるのではないでしょうか。

表1 「宮仕衆」の詳細

名前他の名乗り年齢出典その他
毛利左門元貞15防10 一門吉敷毛利家系図慶長18年2月6日没、17歳
久佐九一郎元知、将監14閥29 佐々木舎人元和8年5月13日没、25歳
粟屋与十郎元重、右近大夫14閥9 粟屋帯刀正保2年9月15日没、48歳
繁沢忠三郎元貞17閥30 繁澤采女寛永4年7月8日没、33歳、繁沢元氏次男
杉岡佐平次元真、主善正、十兵衛尉閥121 周布吉兵衛万治元年10月18日没
嶋村孫九郎
児玉助三郎左京亮閥61 児玉十兵衛元良末子元次の系譜、就信(元禄元年10月11日没、72歳)は子か弟か
佐世石見守元量、丹波守17閥24 佐世大学寛永8年9月8日没、34歳
和智勝五郎元通、弾正忠閥30 和智二郎兵衛寛永14年5(3)月12日没
口羽勝十郎
八幡原孫八郎閥41 志賀茂右衛門慶長17年に加冠状を得ている弥八は近親者かあるいは「孫八」であれば本人か
渡辺小三郎16閥28 渡辺太郎左衛門慶安元年11月29日没、53歳
内藤七右衛門
児玉小三郎就定、与左衛門尉15閥101 児玉与左衛門寛文6年12月2日没、70歳、元兼4男、秀就従兄弟、兄就光を継ぐ
井上弥吉元宣16閥53 井上六右衛門寛文3年4月27日没、68歳
児玉清ハ元重、彦右衛門閥56 児玉勘兵衛万治3年2月29日没、60余歳、児玉元良弟内藤元輔次男
野山清三郎
香川忠五郎元景、刑部丞譜い23 井上孫六
長清吉
児玉佐々右衛門
飯尾半三郎元勝、肥後16閥36 飯尾九右衛門万治2年3月10日没、64歳、実は市川元好3男助兵衛景(隆)好子
宍戸弥太郎元真?

表2 「宮仕衆」関連の加冠状、官途書出

名前年月日記事出典
佐世孫吉慶長8年12月29日石見守、輝元受領書出閥24 佐世大学 6
香川忠五郎慶長9年3月28日宗瑞加冠状譜い23 井上孫六
井上弥吉慶長9年5月15日加冠 元閥53 井上六右衛門 4
杉岡左兵次慶長10年1月2日加冠閥121 周布吉兵衛 228
児玉助三郎慶長10年2月18日加冠 元閥61 児玉十兵衛 5
粟屋与十郎慶長10年12月22日輝元加冠状閥9 粟屋帯刀 14
和智勝五郎慶長11年11月1日勝兵衛尉(元盛)跡職のこと譜わ1 和智帯刀譜
児玉小三郎慶長15年8月24日輝元安堵状閥101 児玉与三右衛門 3
佐世石見守慶長17年8月16日丹波守、秀就官途書出閥24 佐世大学
児玉助三郎慶長17年8月16日左京亮、秀就官途書出閥61 児玉十兵衛 7
粟屋与十郎慶長17年11月8日右近大夫、秀就官途書出閥9 粟屋帯刀 15
和智勝五郎慶長17年11月8日弾正忠、秀就官途書出閥30 和智次郎兵衛 1
香川忠五郎慶長17年12月3日刑部丞譜い23 井上孫六
杉岡佐平次慶長18年3月3日主膳正閥121 周布吉兵衛 229
飯尾半三郎元和2年5月5日久右衛門尉 輝元官途書出閥36 飯尾九右衛門 2
杉岡佐平次元和2年7月27日十兵衛尉閥121 周布吉兵衛 230
井上弥吉元和3年5月5日六兵衛慰閥53 井上六右衛門 5
児玉小三郎元和3年12月28日与左衛門慰閥101 児玉与左衛門 5
繁沢忠三郎元和7年9月7日監物 秀就官途書出閥30 繁澤采女 4
  • 「閥」は『萩藩閥閲録』より
  • 「譜」は『萩藩譜録』(『毛利三代実録考証』の引用)より
  • 「防」は『近世防長諸家系図綜覧』より

宍戸一族の子供たち

次にこの時期に、この他に宍戸弥太郎を名乗る可能性がある各宍戸氏の子供たちについて検討してみます。

まず、有力庶家である2家では、慶長13年に亡くなった元重を国司氏からの子、喜三郎が継いでおり[9]、もう一つの十郎兵衛元真は羽根三郎左衛門の子、内膳正就通を嗣とするのが元和2年[10]ですのでいずれも当時弥太郎を名乗るような子供は存在しないと言えるでしょう。

一方、景好の兄弟に繋がる子供達では、元続、民部元真、元可の子孫が候補者となります。 元可の子は詳細が不明ですが、元続、元真の子らでは、慶長18年に重太郎が佐介[11]に、元和6年に小平太[12]、元和7年に喜平次[13]、元和8年に忠三郎[14]が加冠や官途を得ており、これがそれぞれ元続の三男元高、次男就俊、元真の三男元忠、広匡の次男元実に当たりますので候補者たり得ません。

民部元真次男で猪之助を名乗った就姓も貞享(1688)年に85歳で没しています[15]のでこちらも年齢的に符合しません。

その他、系図[16]から確認できる範囲では、元続の嫡男広匡、その嫡男就尚は当然その名乗りは弥三郎ですのでこちらも外れますが、実際、慶長18年に弥三郎(後の就尚)に雅楽頭が与えられています[17]。 民部元真の嫡子である元具については寛文11(1671)年に71歳で没するということですので年齢的には微妙でしょうか。

元可の子については、元可と思われる左衛門尉の活動時期から年齢の合う子がいた可能性はありますが、あとは元可がいつ切腹を命じられたのかというところになりそうです。

これらの結果から元真の他、可能性が残るのは就俊、元具と元可の子辺りとなりますが、この中では同じ弥太郎を名乗ったと思われる景好の子、元真が最も該当し得る位置にいると言えそうです。

表3 慶長年間後半の宍戸氏の子弟

諱 父親名乗り生年
元真景好?  
就俊元続小平太慶長6年
元高元続重太郎慶長12年
元具元真?  慶長6年
就姓元真猪之助慶長9年
元忠元真喜平次
頼尚元可?  
就尚広匡弥三郎慶長12年
元実広匡忠三郎慶長17年

景好の子供たち再考

その他に弥太郎を名乗り得るの存在としては景好の実子が考えられます。 下記に景好の子として系図に現れる人物をまとめました。 はっきりと生没年が伝わるのは元頼(後の了超)と良春のみですが、彼らはいずれもそ関が原後の生まれとなります。 逆に元真は関が原前の生まれの可能性が高そうです。

やはり元頼以下の子供たちのいずれかを弥太郎とするには年齢的に無理があることになります。 また、元頼には就隆に仕えていたとする所伝があることから、秀就に近侍していたとは考え難いものがあります。

また、西尾氏は関が原で伊予に攻め入った景世を後の元真とされていますので、この説を採るのであれば慶長16年の宍戸弥太郎は元真の子と考えることはできそうです。 ただし、その場合は年齢的に元真の子で彦根藩士となった知真とは別人と言えるでしょう。

表4 景好の子供たち

名前 他の名乗り生没年婚姻相手その生没年
元真 善左衛門益田元祥娘種子慶長9-寛永3年
元頼 了超慶長7-貞享2年
良春 慶長8-延宝4年
元勝 伊織、次郎右衛門
七郎左衛門
女子 乃美三郎兵衛就貞慶長13-寛文2年
女子 古(吉)川七郎左衛門
粂之助?-寛永14?年
女子 松平采女正忠節慶長8?10?-貞享3?元禄元?年

まとめ

慶長16年の秀就入国時に姿の見える宍戸弥太郎が景好の子、元真であることを検討してみました。 その結果、宍戸氏の子供達の中でこの時期に弥太郎を名乗っている可能性が高いのは元真であると言えそうです。

この弥太郎が元真であれば、元和年間に景好が但馬守、元真が善左衛門を名乗ったと考えることは、上記に上げた同輩が加冠を受けた時期と照らしても妥当であると言えるのではないでしょうか。 元和3年に残る起請文[ 史料26、27 ]については景好宛のものである可能性は高いと言えますが、宍戸弥太郎が元和3年には既に善左衛門を名乗っていた可能性も否定はできません。

注釈

  1. 西尾和美「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(『四国中世史研究』第10号
  2. 『毛利三代実録考証』慶長16年12月28日の条より「無尽集」慶長16年12月26日 秀就様初而御入国之時次第(『山口県史 資料編近世1下』)
  3. 『萩藩閥閲録』各巻(マツノ書店、1995年)、以下「閥」
  4. 『毛利三代実録考証』(『山口県史 資料編近世1下』)
  5. 田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』(マツノ書店、1980年)
  6. 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』(琵琶書房、1999年)
  7. 『毛利三代実録考証』慶長11年11月1日の条より 「萩藩譜録 わ1 和智帯刀譜」慶長11年11月1日 和智元盛宛 輝元書状
  8. 慶長10年12月14日 福原廣俊外八百十九名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1284)
  9. 慶長14年12月13日 国司元昔宛 輝元判物(閥125 宍戸藤兵衛 13)
  10. 元和2年11月11日 宍戸就通宛 毛利輝元書状(閥21 宍戸四郎五郎 23)
  11. 慶長18年7月28日 宍戸元高宛 毛利輝元官途書出(閥39 宍戸二郎右衛門 1)
  12. 元和6年10月16日 宍戸就俊宛 秀就官途書出(閥24 宍戸宮内 13)
  13. 元和7年7月13日 宍戸元忠宛 輝元加冠状(閥129 宍戸七右衛門 1)
  14. 元和8年1月13日 宍戸元実宛 輝元加冠状(閥27 熊谷帯刀 47)
  15. 「閥32 宍戸權之助」の就姓についての記述
  16. 「一門三丘宍戸家」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)
  17. 『毛利三代実録考証』慶長18年3月21日の条より 慶長18年3月21日 宍戸就尚宛 秀就官途書出(文庫「巨室」26)

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