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宍戸善左衛門の痕跡 [史料紹介]

  • 2009/12/30 第2版 他記事からの参照用に番号を追加
  • 2010/1/31 第3版 系図類を別表に移行、『防長風土注進案』追記
  • 2012/1/8 第4版 追加確認史料を記載

これまで、関が原前後から宍戸善左衛門を名乗っている人物を宍戸景好であるという前提で各種史料を紹介してきました。 景好が一度でも善左衛門を名乗っていることは、系図には見えませんが、西尾氏が元和元年の書状で善左衛門尉景好と署名していることを紹介されている[1]ので客観的にも疑う余地はなくなったと言えそうです。 後は、それぞれの時期に現れる善左衛門が具体的に誰を指すのかという点であり、西尾氏が主張されるような関が原前後の時期に景好、景世が親子として存在したのかなどを考えて行きたいところです。

その前段として、この記事では宍戸景好、元真親子と考えられる人物が現れる史料について確認できたものをまとめてみました。

傾向について

まず最初に簡単に傾向についてだけ取り上げてみます。

発給文書

発給文書と考えられるものは毛利家臣団の連署状を合わせても親子で10通以下しか確認できません。 その特徴としては掃部あるいは但馬守として発給されたものが確認されていないことでしょうか。

また、花押を根拠に平岡通賢と宍戸景世の同一人物説が主張されていますが、それ以外の組み合わせからはそうした主張がなされてないことから、原本の確認できないものが多いか、花押の一致を見いだせないということでしょうか。 少なくとも景世の花押は天正年間のものと慶長5年のものでは明確に異なるようです。

受給文書

当の宍戸景好の系譜に伝わる文書類は今のところ明らかとなってはいません。 そのせいもあり、確認できる受給文書類のほとんどの宛名が連名で、その宛所の一つに伝わっているものとなります。

これらの中で焦点となるのは慶長5年のものと元和6年のものでしょうか。 慶長5年については関が原の合戦の直前のほぼ同時期に宍戸掃部宛と宍戸善左衛門宛という異なる宛名の文書が存在しています。

また元和6年の輝元、秀就連署書状には但馬守、善左衛門、益田元祥に宛てられており、この時点では但馬守と善左衛門の2名が存在したことが確認でき、益田家には元祥娘が善左衛門元真に嫁いだと伝わることからも、それぞれ景好、元真と考えられます。

史料一覧

現時点で筆者が把握している宍戸景好およびその嫡子元真の名が現れる史料の一覧です。 厳密には例えば刈屋口の戦いを扱った軍記物などは他にも多数あるはずですが、主要なものをいくつか取り上げました。 書状類など一次史料に残されているものは逐一取り上げています。

番号年代編纂時期名称出典形態
1天正3年元和年間?宍戸善左衛門中国兵乱記[2]記載
2天正6年元和年間?宍戸善左衛門中国兵乱記記載
3天正17年宍戸弥太景世宍戸景世書状[3]発給者
4天正末?宍戸善左衛門八箇国分限帳[4]記載
5文禄3年宍戸善左衛門河野家御過去帳[5]記載
6慶長元年宍戸掃部小早川隆景公御家中名有侍付立[6]記載
7慶長4?年宍戸善左衛門輝元公御時代分限帳[7]記載
8慶長5年8月20日宍 掃部堅田元慶、毛利元康連署書状[8]受給者
9慶長5年8月27日宍 善左毛利輝元書状[9]受給者
10慶長5年9月15日宍 善左 景世村上武吉等連署書状[10]発給者
11慶長5年9月宍戸善左衛門景好萩藩譜録 村上図書[11]記載
12慶長5年9月延宝5年宍戸善左衛門明公秘録 乾・坤、加藤嘉明伝[12]記載
13慶長6?年宍掃正岡休意書状[13]記載
14慶長6-8?年12月26日景好佐世石見守書状[14]記載
15慶長10年3月21日宍 善左栗山三郎右衛門目安状[15]記載
16慶長10年3月26日宍戸善左衛門宍道元兼、宍戸善左衛門連署目安状[16]発給者
38慶長10年12月13日宍戸善右衛門尉江戸御普請組帳[45]記載
17慶長10年12月14日宍戸善左衛門尉毛利氏家臣連署起請文[17]発給者
18慶長16年12月26日宍戸弥太郎秀就様初而御入国之時次第[18]記載
19慶長17年1月23日宍善左組毛利秀就袖判千石夫付立て[19]記載
20慶長19年11月10日宍戸善左衛門宍戸善左衛門書状[20]発給者
21元和元年?月19日善左毛利輝元書状[21]記載
22元和元年7月27日宍善左毛利輝元書状[22]受給者
23元和元年8月16日宍戸善左衛門景好内藤左衛門尉、宍戸善左衛門尉連署書状[23]発給者
24元和元年8月30日善左毛利輝元書状[24]受給者
25元和元年10月11日宍善左毛利輝元書状[25]受給者
26元和3年10月7日宍戸善左衛門福原元茂起請文[26]受給者
27元和3年10月7日宍戸善左衛門木原盛忠起請文[27]受給者
28元和5年6月?宍戸但馬守毛利秀就陣立書[28]記載
29元和6年9月13日宍戸但馬守、宍戸善左衛門秀就、宗瑞書状[29]受給者
30元和8年9月9日宍戸景好景好寺の所伝[30]没日記載
31元和~寛永年間景昭景好寺の所伝記載
32寛永2年宍戸善左衛門天樹公御葬式御備附(文庫「祭祀」26)[31]記載
33寛永3年宍戸善左衛門寛永3年 給録御配郡別石高名付附立[32]記載
34寛永10年7月19日~貞享宍戸景好三丘宍戸家系[33]没日記載
35寛永14年3月16日宍戸善左衛門宍戸善左衛門等兄弟連署書状[34]発給者
36寛永年間善左衛門防長風土注新案[35]記載
39享保宍戸善左衛門尉速廉吉田家伝録[46]記載
37宍戸但馬守、宍戸善左衛門宍戸四郎左衛門書出[36]記載

系図類

  • 系図A:「三丘宍戸家系」[37]
  • 系図B:「宍戸系図」[38]
  • 系図C:『続群書類従』掲載「宍戸系図」[39]
  • 系図D:『系図纂要』掲載「宍戸系図」[40]
  • 系図E:『雑家系図』掲載「宍戸系図」[41]
  • 系図F:「宍戸系図」[42]
  • 系図G:「永代家老 須佐益田家」[43]
  • 系図H:「一門 右田毛利家」[44]

まとめ

江戸時代を通じて景好の直系は彦根藩に仕え、萩藩内には景好寺以外にほとんどその痕跡は残っていなかったと思われます。

それにも関わらず、こうしてみると意外なことに、関が原の戦いを皮切りに、五郎太石事件、いわゆる千石夫の普請役、大坂の陣とそれに絡んだ佐野道可事件、福島正則の改易、と様々なところに脇役とも言えないほどの微妙な存在感で善左衛門あるいは景好の名前が挙がり、史料が残されています。

景好を進んで顕彰する意義もないでしょうし、これらの史料が事実を完全に伝えたものではないとしても、宍戸善左衛門、あるいは宍戸景好に関する何らかの所伝があったと考えるのが自然ではないでしょうか。

この他にも広く知られていない史料の存在や、彦根藩に仕えた宍戸氏の元に何らかの史料が現存していれば、それが世に出ることがあれば、ということに僅かながら期待を持ってしまいますが、そのようなことが起きた暁には伊予の戦国史や萩藩政初期をみる上で重要なものとなるかもしれません。

注釈

  1. 西尾和美「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(『四国中世史研究』第10号
  2. 「中国兵乱記」(加原耕作編著『新釈備中兵乱記』山陽新聞社、1994年)
  3. 「高野山上蔵院文書」(天正17年)12月5日 上蔵院宛 宍戸景世書状(土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(上)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』11号、2006年))
  4. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)
  5. 「高野山上蔵院文書」河野家御過去帳(土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(下)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』13号、2008年))
  6. 「小早川隆景公御家中名有侍付立」(「豊浦藩旧記 第27冊」)(『下関市史』の資料編1、1993年)。同じく資料編4(1996年)にも「内藤家文書」の一部として微妙に内容の異なるものが収録されています。
  7. 「輝元公御代分限帳」(「豊浦藩旧記 第25冊」)(『下関市史』の資料編1、1993年)
  8. 「村上小四郎蔵文書」8月20日 堅田元慶・毛利元康連署書状写(愛媛県教育委員会『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編、2002年)
  9. 8月27日 村大和、宍善左、村掃部、曽孫左宛 毛利輝元書状(『萩藩閥閲録』91 曽根三郎右衛門高充)
  10. 9月15日 村上武吉・村上元吉・宍戸景世連署書状(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』愛媛県今治市教育委員会)
  11. 『萩藩譜録』村上図書
  12. 「明公秘録 乾・坤」「加藤嘉明伝」(『松山市史料集』第2巻 考古編 2.古代・中世編.近世編 1.文化編、松山市、1987年)
  13. 「村上小四郎蔵文書」6月5日 村上景房宛 正岡休意書状(『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編)
  14. 「山口端坊」12月26日 端坊宛 佐世石見守書状(山口県文書館『防長寺社由来』第3巻、1983年)
  15. 慶長10年3月21日 栗山三郎右衛門目安状(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1275)
  16. 慶長10年3月26日 宍道政慶、宍戸善左衛門連署目安状(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1277)
  17. 慶長10年12月14日 福原廣俊外八百十九名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1284)
  18. 「無尽集」(文庫「叢書」40)慶長16年12月26日 秀就様初而御入国之時次第(『毛利三代実録考証』(『山口県史 史料編近世1下』)より)
  19. 慶長17年1月23日、入江元親、金山清兵衛宛 毛利秀就袖判千石夫付立て(『萩藩閥閲録』第2巻、54 入江七郎左衛門)
  20. (慶長19年)11月10日 三井吉左衛門宛 宍戸善左衛門書状(『萩藩譜録』み-3、三井吉左衛門家什書)
  21. 年月不詳19日 内藤左衛門宛 毛利宗瑞書状(『萩藩閥閲録』第3巻、99 内藤小源太18)
  22. 年不詳7月27日 内藤左衛門、宍戸善左衛門宛 毛利宗瑞書状(閥99 内藤小源太21)
  23. 毛利家文庫 *5家臣39「佐野道可一件」のうち(元和元年)8月16日 宍戸善左衛門・内藤左衛門尉書状(山口県文書館所蔵)
  24. 年不詳8月30日 内藤左衛門、宍戸善左衛門宛 毛利宗瑞書状(閥99 内藤小源太22)
  25. 年不詳10月11日 内藤左衛門、宍戸善左衛門宛 毛利宗瑞書状(閥99 内藤小源太19)
  26. 元和3年10月7日 宍戸善左衛門尉宛 福原元茂起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1237)
  27. 元和3年10月7日 宍戸善左衛門尉宛 木原盛忠起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1238)
  28. 毛利秀就陣立書(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1165)
  29. 元和6年9月13日 宍戸但馬守、同善左衛門、益田玄蕃頭宛 秀就、宗瑞書状(『萩藩譜録』益田頼母)(『毛利三代実録考証』(『山口県史 史料編近世1下』)より)
  30. 坂倉道義『小鯖村史』(小鯖村史刊行会、1967年)に掲載の「景好寺縁起」についての記述
  31. 寛永2年 天樹公御葬式御備附(文庫「祭祀」26)(『毛利三代実録考証』(『山口県史 史料編近世1下』、1999年)より)
  32. 「寛永3年 給録御配郡別石高名付附立」(『山口県史 史料編近世3』、2001年)
  33. 「一門三丘宍戸家」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)
  34. 「毛利家文庫」 *5家臣86 寛永14年3月16日、毛利元倶等誓紙并宍戸善左衛門尉等書状(宍戸善左衛門兄弟の事)(山口県文書館所蔵)
  35. 『防長風土注進案』第12巻 山口宰判 上(1960年)小鯖村、景好寺の項
  36. 「宍戸四郎左衛門家」元祖宍戸四郎左衛門書出(『侍中由緒帳』第6巻、1999年)では彦根藩に仕えた四郎左衛門知真が祖父宍戸但馬守、親善左衛門として提出しています。
  37. 「三丘宍戸家系」(山口県文書館所蔵、毛利家文庫、57御什書1-12)
  38. 「宍戸系図」(山口県文書館所蔵、毛利家文庫、27諸家22)
  39. 「宍戸系図」(塙保己一編『続群書類従』)
  40. 「宍戸系図」(『系図纂要』第六巻)
  41. 「宍戸系図」(『雑家系図』、東京大学史料編纂所蔵、4175-110)
  42. (1)に記載の「宍戸系図」(山口県文書館所蔵複写資料『宍戸家文書』)
  43. 「永代家老益田家」(『近世防長諸家系図綜覧』)
  44. 「一門右田毛利家」(『近世防長諸家系図綜覧』)
  45. 「毛利四代実録」掲載 慶長10年12月13日 江戸御普請組帳(『東京市史稿 皇城編第1』)
  46. 『吉田家伝録』「巻之八 吉田重成後妻系譜之章」(『吉田家伝録』上巻、1981年)

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