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内藤元盛-佐野道可事件の顛末- [人物]

  • 2011/12/19 第2版 お詫びと訂正

【初回公開時に『霧の墓』著者福永タミ子氏のお名前を誤って記載しておりました。 訂正の上、おわび申し上げます。】

西尾和美氏の「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」を紹介する前にもう少し宍戸善左衛門が脇役として登場するいくつかの事件を紹介していきたいと思います。 まずその一つが大坂の陣の際に大坂城へと入城した牢人佐野道可こと内藤元盛にまつわる事件です。

この事件を調べていた際に、この事件や宍戸氏を取り上げた2つの小説を読む機会がありました。 平川弥太郎氏の『白藪椿』[1]は内藤元盛と妻の綾木大方を中心に佐野道可事件を描いた歴史小説です。 もう一つは福永タミ子氏による『霧の墓』[2]という短編集で、宍戸氏が江戸時代を過ごした三丘の地で生まれた著者の手によって宍戸氏に関連するいくつかの出来事が扱われています。 いずれも史実をある程度下敷きとし、戦国末期以降の宍戸氏、特に元秀の子の世代と関わりのある物語が取り上げられていますが、残念ながら元秀の庶子である景好はほとんど登場しません。

内藤元盛

さて、景好の兄である元盛は宍戸元秀の二男として永禄9(1566)年に生まれ、母の実家でかつての長門守護代家でもあり、同時に隆元の正室で輝元母である尾崎局の実家にも当たる内藤氏を継ぐこととなります。 元盛の母で父元秀の正室が内藤興盛の娘であり、その兄弟に当たる内藤家当主隆春には当時男子がいなかったためその婿となり隆春娘と従兄弟同士で結婚することなったわけです。 天正11年とされる吉川元長起請文でも毛利氏に関わる養子の例として「元孝之舎弟内藤之家被継候」[3]と挙げられていることからこの時期に既に内藤氏を名乗っていたと思われます。

また、時期は不明ですが同じく景好の兄であり元盛の同母弟に当たる孝春も宍戸氏とつながりのある粟屋孝重の娘と結婚して粟屋氏を継ぎます。 「宍戸系図」[4]では宍戸隆家の父、元家の妹が粟屋越中守孝俊に嫁いだとしていますので、その子か孫にでも当たるのが孝重と考えられそうです。

佐野道可事件

粟屋孝春は慶長15年に亡くなったとされており、その跡を継いだのは元盛の次子である元豊でした。 またその前後の時期には元盛は隠居し、家督を長子元珍に譲っていたようです。 慶長17年に萩藩が担当した江戸城の土木工事の割り当てでは宍 善左組と共に内藤孫兵(元珍)組にも割り当てがなされていることがわかります[5]。 いわゆる千石夫であることから、その割り当てを見るといずれも組頭として合計で1万石ほどの組を率いてということかもしれません。 元珍、元豊共に一門筆頭の宍戸氏当主元続の甥でもあり、萩藩の有力家臣の道も開けていたはずだったのではないでしょうか。

しかしさらに数年の時が過ぎ、徳川幕府と大坂の豊臣氏の間が手切れとなり、合戦は避けられない状況が明らかになりつつある中で毛利輝元は一つの策を巡らします。 それは大坂方が勝利した際に備えて密かに内藤元盛に軍資金をもたせて大坂城へと入城させるというものでした。 これを知っていたのは輝元の他、元盛の実兄元続などごく一部の者だけだったと言われます。 元盛は輝元から今後何があっても見捨てることはないとの誓紙を得た上で[6]、佐野道可と名を変えて大坂城へ入りました。

しかし変名を名乗っていたとは言え、少なくとも萩藩内では大坂落城前から元盛の入城の事実は広まっていたようです。 戦いが終わる前の4月の時点で元盛の同母弟民部元真が提出した起請文が残されており[7]、そこには兄元盛とは疎遠であり何も知らなかったことや今後何があっても縁を切ることなどが記されています。 大坂落城時に元盛は落ち延びますが、当然ながらここで毛利氏の大坂方への関与が問題として発生します。 先に紹介した小説『白薮椿』では元盛は毛利家との無関係である行動であることを示す機会を得るための脱出として描かれていました。 結局戦後、元盛自身は切腹、元盛の子供で毛利氏の下に残っていた元珍、元豊等は上洛した上で弁明に努め関係を否定します。 その努力が実り、幕府からは子等は無関係であると認められ、無事帰国しますが問題の波及を恐れた輝元の命で2人とも切腹へと追い込まれます。

このとき柳生宗矩から元珍の家臣および元続へ送られたその措置を悼む書状が残されています[8]。 この事件に当初から関与していたとされる宍戸氏の当主で長兄である元続は大坂落城直後に隠居を願い出ており、この年のうちに子の広匡が宍戸氏を継ぎます[9][10]がこれも元盛の処遇が影響していることは間違いないでしょう。

宍戸善左衛門との関わり

景好にとっても元盛は異母兄という繋がりがあり、その子達も甥に当たることは言うまでもありません。 民部元真同様に景好も元盛との関係を否定する起請文を当時提出するというようなこともあったのではないかと思われます。

また戦後の関係文書の中に宍戸善左衛門尉、内藤左衛門尉連名の書状が残されています[11]。 この内藤左衛門尉は佐野道可(内藤元盛)の義父隆春の実子左衛門尉元忠です。 元盛が内藤氏に入った後に隆春には妾腹の男子が2人生まれており、元忠はその弟に当たります。 兄は別家を建てますが、元忠は婿となって林氏を継ぎ、慶長17年の兄の死に伴って内藤氏に戻ってその家を継承しています。

善左衛門らの書状の宛て先は不明ですが同年に輝元からこの2名に宛てた何通かの書状が残されている[12]ことからこの書状も輝元の周囲へと宛てたものでしょうか。 輝元からの書状では10月11日のものが目をひきます。 この中で何らかの番をしている両人に対して萩へ出頭するように命じていますが、輝元はその際に番が手薄になることを気にしているようです。 その後、2人の甥である内藤元珍、粟屋元豊が切腹するのは10月19日のこととなります[13]。

この事件に関連して元忠には特に処分はなかったようで、慶長17年当時率いる組の総知行高は3800石程だった[14]ものが、後年には13000石にまでなっています[15]。 ただし、後にこの流れは衰えたようで『閥閲録』編纂のころには萩藩大組となっています。

元忠の後妻もまた村上景親の娘で景好妻の妹ですが、この縁組も元盛、景好兄弟を介してのものであったとも考えられます。 大坂落城時、既に景親は亡くなっていましたが、その娘2人にとってそれぞれ夫の実兄、夫の姉婿にあたる人物の処遇が問題となったことは当時村上氏にも大きな緊張を強いたのではないでしょうか。

その後の内藤氏と粟屋氏

内藤氏、粟屋氏ともにしばらくの間は萩藩から離れた状態にありました。 粟屋氏は大組の藩士として毛利家に戻っています[16]。

内藤氏では元珍の子で母方の姓を名乗った志道元宣、さらにその子の隆昌の時にようやく萩藩に戻り隆昌は後に内藤姓に復し寄組内藤家として続くことになります。 ところがその後さらに何の縁か隆昌本人は妻の実家である船手組頭である村上図書家(元吉系)を継ぎ名を広親と名乗ることになります。 一方、内藤家は隆昌の子、元貞が継ぎますがその子広真が今度は村上一学家(景親系)に養子に入ります。

これは隆昌の舅である村上就武の妻(隆昌妻の母)が内藤元忠の娘、景親の孫に当たるということで、徐々に内藤家と両村上家との関係が強まっていった結果と言えそうです[17](下記略系図参照)。

村上、内藤両氏関連略系図

配置の関係上、村上景親の系統が2つに分れてしまっています。 ご注意ください。

 宍戸元秀―元盛
      |――元珍―元宣―隆昌
 内藤隆春―女子       |:
     ―元忠       |――元貞―広真
      |――女子    |:    :
 村上景親―女子 |―――――女子    :
         |      :    :
 村上元吉―元武―就武====広親    :
      | ―女子   (隆昌)   :
      |  |           :
 村上景親―女子 |           :
     ―元信―就親―景信―女子    :
               |     :
               広庸====広真

注釈

  1. 平川弥太郎『白薮椿 毛利輝元の密謀』(中央公論事業出版、2008年)
  2. 福永タミ子『霧の墓』(渓水社、1997年)
  3. 天正11年8月13日 吉川元長起請文(『大日本古文書 家分け文書吉川家』1247)
  4. 「宍戸系図」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)
  5. 慶長17年1月23日、入江元親、金山清兵衛宛 毛利秀就袖判千石夫付立て(『萩藩閥閲録』第2巻、44 入江七郎左衛門)。内藤孫兵組には9人4歩5朱、宍 善左組には10人4歩4朱など合計299人2歩9朱が割り当てられています。
  6. 氏名未詳起請文(『萩藩閥閲録』第1巻、28 内藤孫左衛門)
  7. 慶長20年4月26日 山田吉兵衛宛 宍戸民部起請文(『大日本古文書 家分け文書毛利家』1223)
  8. 11月21日都野惣右宛 柳生宗矩書状、11月21日宍戸元続宛 柳生宗矩書状(『萩藩閥閲録』第1巻、28 内藤孫左衛門)
  9. 6月6日 秀就宛 宗瑞書状(『大日本古文書 家わけ文書毛利家』1415)、
  10. 『毛利三代実録考証』慶長20年9月26日条、(文庫「巨室」26)慶長20年9月26日 宍戸出雲守宛 秀就、宗瑞連署書状(『山口県史 史料編 近世1下』、1999年)
  11. 毛利家文庫 *5家臣39「佐野道可一件」のうち(元和元年)8月16日 宍戸善左衛門・内藤左衛門尉書状(山口県文書館所蔵)
  12. 18 19日 毛利宗瑞書状、19 10月11日 毛利宗瑞書状、21 7月27日 毛利宗瑞書状、22 8月30日 毛利宗瑞書状(『萩藩閥閲録』第3巻、99 内藤小源太)
  13. 内藤元珍(『萩藩閥閲録』28 内藤孫左衛門)、粟屋元豊(『萩藩閥閲録』91 粟屋吉兵衛)のいずれも10月19日に切腹と伝えています。
  14. 28 慶長17年12月13日 内藤元忠宛 毛利宗瑞 内藤元忠組衆知行付立(『萩藩閥閲録』第3巻、99 内藤小源太)
  15. 29 内藤元忠組衆知行付立(『萩藩閥閲録』第3巻、99 内藤小源太)
  16. 『萩藩閥閲録』第3巻、91 粟屋吉兵衛
  17. 「内藤氏系図」「村上氏系図」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)

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