西尾和美氏の「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」について [資料]
『四国中世史研究』第10号に掲載された西尾和美氏の「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(以下「西尾論文」)[1]を取り上げてみます。 この論文を一言で言えば、恐らくは初めてまとまった量の内容で宍戸景好について言及がなされた論文ではないかと思いますが、その事に驚きと喜びを感じた人はどの位いるのでしょうか。
河野氏文書の近江伝来
「西尾論文」の表題が指す河野氏文書の近江伝来とは、河野氏の文書の一部が近江彦根の真宗寺院明照寺に伝わっていたことであり、山内譲氏がそこに宍戸景好との関連を指摘されている[2]ところが発端となっています。 現在では明照寺に伝わっていた文書そのものの行方はわからなくなっているようですが、伝来していた文書は写しではなく原本であったようです。
この伝来の経緯について、山内氏の指摘は『防長風土注進案』「山口宰判」に、宍戸景好が彦根に隠棲し、そこを弟が尋ねて明照寺の僧となった、という記述が存在することをあげて、時代的に符合する訳ではないが河野氏との関係が考えられるというものでした。 実際には、『防長風土注進案』山口宰判の小鯖村景好寺の項[ 史料36]で、景好の長子善左衛門が彦根に隠棲し、徳山公に仕えていたその弟右近が兄を頼って明照寺で出家したというものであくまで景好の子の世代の話となっています。
内容の紹介
「西尾論文」の構成は以下のようになっています。
- はじめに
- 通直死後の河野氏と平岡氏・宍戸氏
- 宍戸景好と彦根明照寺
- 宍戸景好と関が原合戦
- 宍戸景好の系譜
- 明照寺と本福寺
- おわりに
読後の私の視点でありますが、西尾氏のこの論文での主要な主張は下記の3点になるのではないかと考えています。
- 宍戸景好が伊予平岡氏出身(特に平岡通倚の子である可能性を指摘)であり、天正18年の高野山上蔵院宿坊証文に署名している平岡太郎通賢、翌年の書状が残る宍戸弥太景世とは同一人物である
- 関が原の際に書状の残る宍戸善左衛門景世は景好の子である
- 明照寺の住持となった了超は景好の次子元頼であり、実際には平岡氏の流れを汲むことから河野氏の文書が伝来した
史料紹介
また、「西尾論文」ではいくつかの史料が紹介されていますのでまずはそれらについてまとめてみたいと思います。
「宍戸系図」[3]
景好の子について詳細を載せる「宍戸系図」を『宍戸家文書』から紹介されています。
同系図の記述により、元真弟の粂之助が阿曽沼因幡守就春の一族隼人との争いで切腹となり、その後元真も近江へと去ったと伝わることが明らかとなっています。 これを宍戸善左衛門書状[ 史料35]の内容から寛永14年であろうとされていますが、恐らくこの時元真とその継室である毛利元倶娘は離縁となったものと考えられます。
また、次男元頼についても近江明照寺の住持となったことだけでなく、その子が堺の善教寺の住持となったことも記されているようです。
元真や元頼について記された内容としては最も詳細な内容を持つだけに同系図が景好の他の子供達や元可とその子供達についてどのような記録を残しているのか、その点にも興味があります。
『後谷 光明遍照寺由緒記并伝』[4]
明照寺の17世住持亮融が安永8(1779)年に著したもので、12世了超について興正寺門跡の従弟で但馬守景好の子であると記されていることを紹介されています。
また、了超の諱を通元と伝え、その後の歴代各住持も「通」に字を用いていることが紹介された上で、平岡氏、河野氏との関係が指摘されています。
『侍中由緒帳』と「御家中先祖記録」
彦根藩の『侍中由緒帳』[ 史料37]は順次刊行されており、その中に、宍戸四郎左衛門家として元真の子である知真からの記録を確認することができます。 同じく彦根藩の史料である「御家中先祖記録」[5]には生国長門で平田明照寺と遠縁であることが記されていることを西尾氏は紹介しています。
「端坊宛 佐世石見守書状」[ 史料14]
佐世石見守から山口の真宗端坊に宛てて出された書状で、輝元の側近元嘉を指すと考えた場合には、その受領名から慶長6年から8年までの間の書状であると指摘されています。 景好の下国に触れられていることが取り上げられていますが、この景好が宍戸景好を指すのかどうかについて別途考えてみたいと思います。
「宍戸善左衛門・内藤左衛門尉書状」[ 史料23]
元和元年に内藤元忠と連署している書状に善左衛門景好の署名が見えることを西尾氏は紹介されています。 書状の内容には触れられていませんが、以前書いたように内藤家に関する内容の輝元周辺もしくは萩藩重臣への書状と思われます。
個人的なまとめ
詳しくはトピック毎に改めて考えてみたいのですが、ポイントとなる3点について、西尾氏の主張を読んでの所感をまとめてみます。
宍戸景好と景世、平岡通賢
まず宍戸景好と平岡通賢が同一人物であり、平岡氏に出自を持つとする主張についてです。
花押の一致については他の研究者からも同意がなされているようです。 今後は景好の出自が宍戸氏にあるのか平岡氏にあるのかという点の立証が課題になるのではないかと思いますが、宍戸氏の出自であるのではないかと個人的には考えています。
この内容については西尾氏が前稿[6]の内容を発展させたものとなっていると述べられているため合わせて見ていきたいと思います。
関が原の戦いと宍戸景世
西尾氏は関が原の戦いに際しての伊予侵攻で村上武吉らと連署書状を発給している景世を景好の子で後の元真であるとされています。
関が原直前の文書に「宍 善左」[ 史料9]、「宍 掃部」[ 史料8]といった記述が見られることを挙げられそれぞれ別人としていますが、これ以外の根拠に弱いようにも感じられ、「西尾論文」にある下記の点もむしろ関が原時の景世が景好であることを示唆しているのではないでしょうか。
- 慶長10年の毛利氏家臣連署起請文[ 史料17]に善左衛門と但馬守の名が見えるが、同時期但馬守元重が存在するものの断定はできない
- 元和元年の内藤左衛門尉と宍戸善左衛門尉の連署書状に宍戸善左衛門尉景好の署名があるが、元和元年に善左衛門尉景好と署名がなされていることの整合的な説明はつかない
慶長10年や17年に組頭クラスの立場が伺える宍戸善左衛門の動静も考慮すれば、関が原以降も一貫してそうした立場に景好があったと私は理解したいと考えています。
彦根明照寺と宍戸氏の関係
3点目については西尾氏が紹介された各種史料から明照寺住持を景好次子と考えられるように思います。 ただこの場合、同じく景好次男を開山と伝える周防の景好寺の真の開山は何者なのかといった疑問点が残ります。 西尾氏が景好の次子が明照寺を継いだことを示されながら、『小鯖村史』[7]の記述を引きつつ、その点には触れられていないことは少し残念でした。
最後に
現状、当サイトで公開済みの文章では一貫して元和年間あたりまで見られる善左衛門を元続弟の景好である前提で書いています。 その正体がいずれであっても、今後の更なる研究ではっきり解明されることに期待しています。 西尾氏が取り上げられているいくつかの論点についても他の史料を取り上げながら私の個人的意見も紹介して行きたいと思います。
伊予の戦国史を調べているうちに何故か引き込まれてしまった宍戸景好の存在ですが、このように研究が進んでいることに、個人的には非常に嬉しく思っています。 西尾和美氏を始めとする研究者の方々の今後の研究の発展にも非常に期待をしております。
注釈
- 西尾和美「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(『四国中世史研究』第10号、2009年)
- 山内譲『中世瀬戸内海地域史の研究』「第三部 地域権力の形成と展開 第四章 河野氏関係史料の研究」(法政大学出版局、1998年)
- 「宍戸系図」(山口県文書館所蔵複写資料『宍戸家文書』)、(1)の記載より
- 『後谷 光明遍照寺由緒記并伝』(彦根市妙厳寺本多深諦氏所蔵写本)、(1)の記載より
- 『長久寺文書』「御家中先祖記録」(彦根城博物館所蔵)、(1)の記載より
- 西尾和美「高野参詣と上洛ー天正十六年の河野通直母等連署宿坊証文をめぐってー」(川岡勉編『高野山上蔵院文書の研究 : 中世伊予における高野山参詣と弘法大師信仰に関する基礎的研究』、2009年)
- 坂倉道義『小鯖村史』(小鯖村史刊行会、1967年)
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