SSブログ

宍戸元可と松平頼隆 [人物]

以前紹介した何種類かの宍戸氏の系図にはいずれも景好の弟の位置に置かれている元可(もとよし?)が存在します。 この元可については景好の兄弟の中では、一人だけ系図以外の史料らしい史料にその存在が見えない人物です。

景好以上に事績が不明なのですが、系図の僅かな記述と各種史料にいくつかの興味深い点が出てきますのでそれをまとめてみました。

系図資料から

系図[1]では元可について以下のように記しています。

吉蔵 左衛門尉
属従輝元卿 有故切腹 年月日法名不詳 後贈芳庵利春
母 氏不詳

ここからわかるのは輝元に仕えていながら切腹することとなったこと、父元秀と同じく左衛門尉を名乗ったとされていることの2点となります。 また、同系図では景好と共に母は「氏不詳」との記述から、景好の同母弟である可能性も考えられます。

系図では常に景好の弟におかれていますが、元真とは系図によりその位置が前後することから天正初期の生まれと想定され、左衛門尉を名乗った後の切腹ということを考えれば、その時期は父元秀が亡くなった慶長2(1597)年よりは遅いと考えるのが妥当でしょうか。 また、先の系図では景好の法名で院号を芳春院としていますが、元可の法名と似ている点が気になります。 景好寺の寺伝では景好の院号を青谷院と伝えることも含め、所伝に混乱が見られるようです。

『八箇国分限帳』と「輝元公御時代分限帳」

天正末から文禄初めころの状況を反映していると考えられる『八箇国分限帳』[2]には兄弟の中で元可は只一人名前が見えません。 これは当時、既に系図の伝えるように切腹して亡くなっていた可能性もありますが、若年で別家を建てる前であったため名前がないとも考えられます。

むしろまだ同様に年少で元可の弟の可能性も考えられる民部元真が既に独立し、1000石ほどを得ているところにはその厚遇ぶりが伺えます[3]。

また、『豊浦藩旧記』に含まれる「輝元公御時代分限帳」[4]には宍戸善左衛門と宍戸左衛門尉の名前が見えます。 この分限帳に記載されている名前は限られているため、当時の毛利家家臣団の断片と思われますが、秀元に18万石余りとあるため隆景の死後かつ関ヶ原以前のものであるはずです。

この分限帳は前後二部に別れており、その後半ではよく『八箇国分限帳』に一致するのと対象的に前半部は『八箇国分限帳』よりも多くの武将で禄高が多く記載されています。 光成準治氏が取り上げている[5]「広島分限帳」[6]での記述と一致するものも多いことからこの部分についてはこの類本であると思われます。

光成氏によれば、その掲載内容から「広島分限帳」を慶長4年末の様子を表すものではないかとしていますが、その場合には、そこに現れる左衛門尉は隆景の死の前日に亡くなった元秀のことではないはずです。 左衛門尉が1300石、善左衛門が700石余りとあり、これが元可であればここでは善左衛門よりも高禄を得ていることになります。

左衛門尉元勝

元可が名乗ったとされる左衛門尉は父元秀だけではなく、祖父隆家も名乗っていますが、その名乗りを元可が用いたとされるのは不思議ではあるところです。 それだけ元秀に寵愛されたのかもしれませんし、名乗りだけでなく、父の死後にその隠居領を継承している可能性も考えられるのではないでしょうか。 他の史料からも元秀没後の時期に宍戸左衛門尉を名乗る人物がいたのは確かなようです。

文禄3年とされる志道五郎左衛門(元幸)宛の輝元書状[7]に、輝元が差し下す人物として名を挙げている宍戸左衛門尉が見えます。 刊本の『閥閲録』ではこの人物に元秀と注を入れていますが、廃嫡され隆家の死後も跡を継がなかったとされる元秀が、この時期に輝元の使者として活動する可能性は低いのではないでしょうか。 さらに、書状に現れる前後の状況から慶長3年のものであると光成氏は主張されている[8]ため、これを容れればこの左衛門尉が慶長2年に亡くなった元秀の可能性はなくなり、元可の可能性が高いと言えます。

また、その2年後、関ヶ原の合戦の折、大津城攻めの際に清水景治の一番乗りを証明する文書に連署している宍戸左衛門尉元勝[9]がいますが、井原元茂との連署であることからもこの人物が毛利家の直臣である程度の身分であることは伺えます。 この時期、宍戸氏で本家以外の有力武将と言えば左馬助元重、十郎兵衛元円、善兵衛元行らですが、彼らが関が原の前後で左衛門尉あるいは元勝を名乗った形跡はありません。

しかし、この左衛門尉も慶長10(1605)年の毛利氏家臣団の起請文[10]には現れていません。 この頃までに毛利氏を離れた、あるいは元勝=元可であれば系図の伝える通り、輝元から切腹を命ぜられるべき何かがあったということでしょう。

ただ、左衛門尉ではありませんが、宍戸吉右衛門を名乗る系譜が長府藩には存在しており[11]、江戸初期の当主の名はわからないものの「勝」の字を通字として用いているようです。

元可の子供たち

『続群書類従』収録の「宍戸系図」[12]では、元可の子を記しており、以下の2人が見えます。

  • 頼尚、六左衛門
  • 氏虎、三左衛門

2人ともその諱からは萩藩、あるいは毛利家との関係が薄れていることを感じさせます。

一方、『系図纂要』の「宍戸系図」[13]では、若干記述が異なります。

  • 頼尚、為松平播磨守頼隆朝臣客、快庵
  • 女、武藤八郎兵衛 妻

長子を頼尚とする点は変わりませんが次子を女子としている点が大きく異なります。

『系図纂要』を信ずるなら元可の死後、頼尚は松平頼隆の元にいたことになります。 いずれの系図でも元可が切腹したとすることに変わりはありませんから、元可の切腹は事実で、恐らくはその子達は毛利領内には居つづけられない事情があったか、あるいは自ら立ち去ったのでしょう。 「頼」あるいは「氏」といった字にも萩藩に関連した偏諱の跡が伺えずそれを示していると言えそうです。 では寄寓先とされる松平頼隆とはどういう人物なのでしょうか。

松平頼隆と宍戸氏

元可の子に関連する人物として現れた松平頼隆は水戸徳川家の徳川頼房の五男です。 2万石を分知され、当初は保内藩、後に常陸府中藩主となりました[14]。

その母は興正寺18世准尊の娘です。 母方の祖母は宍戸元秀の娘で小早川秀秋に嫁ぎ、その死後に興正寺18世准尊へと再嫁しています。 つまり、頼隆は宍戸元秀の曾孫にあたり、頼隆の母と頼尚が(当然ながら景好の子元真や、元続の子広匡、元盛の子元珍らとも)従兄弟にあたるという血縁関係にあったわけです。

頼尚が松平頼隆の元に身を寄せたのであれば、この血縁関係が影響しているのは間違いないでしょうし、その「頼」の字は頼隆から与えられて改名したとも考えられます。 ただし、頼隆の生まれは寛永6(1629)年、独立した大名となるのは寛文2(1662)年のことですので、頼尚が身を寄せたとしてもかなり後のことであると言えそうです。 また、頼隆の娘の一人が後に徳山藩主毛利元次へと嫁いでいますがこれも母方の血縁関係によるものでしょう。

毛利、宍戸、水戸徳川、興正寺関係略系図

      毛利輝元―就隆―元次
              |
 宍戸元秀―元可―頼尚   |
     ―女子      |
      |――女子   |
顕如―顕尊―准尊 |    |
         |―頼隆―女子
       徳川頼房

『小田本宗支族系図』「宍戸系図」

『小田本宗支族系図』に含まれる「宍戸系図」[15]については以前も紹介しましたが、江戸中期に何故か萩藩宍戸氏の系図が常陸府中藩秋山氏の元へと渡っていることがわかります。

秋山氏へこの系図が伝来した由来としては、毛利元次に嫁いだ松平頼隆の娘縁の他、宍戸頼尚につながるものも考えられるのではないでしょうか。 また、元々常陸には宍戸一族、その祖にあたる小田一族も多くいたことから別のつながりも否定することはできません。

まとめ

宍戸元秀の子のうち最も不明な点が多いと言える宍戸元可について取り上げました。 父が名乗った左衛門尉を継いでいるところに何らかの意味があるのではないかと思いますがそれを解くものは今のところありません。

また、同時代に同じく左衛門尉を名乗った宍戸元勝と同一人物の可能性は高いと言えますが、元可同様に元勝としての史料もほとんど見られません。 切腹したと伝わる元可ですが、その子は父元可の妹の孫に当たる松平頼隆を後年頼ったとも考えられるようです。

注釈

  1. 「宍戸系図」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)
  2. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)。当主の元続、弟の民部元真、善左衛門景好、内藤氏と粟屋氏を継いだ元盛、孝春の名前は見える他、元秀の隠居領も確認できます。
  3. 『名将言行録』の小早川隆景の逸話に幼いころの民部元真が登場します。この逸話では輝元正室の甥に当たる吉内(後の元真)を輝元夫妻が寵愛し、子のない同夫妻の跡継ぎに目されるほどの状況を苦慮した隆景の策で跡継ぎを元清の子、秀元であるとはっきりさせることになります。
  4. 「輝元公御時代分限帳」豊浦藩旧記 第25冊(『下関市史』資料編Ⅰ、1993年)
  5. 光成準治『中・近世移行期大名領国の研究』「第2部 権力構造と領国支配、第5章 豊臣期における毛利氏検地の進展と領国支配」(校倉書房、2007年)
  6. 「広島御時代分限帳」(山口県文書館所蔵)
  7. (文禄3)9月10日 志道五郎左衛門(元幸)宛 輝元書状(『萩藩閥閲録』第1巻、16 志道太郎右衛門)
  8. (5)に同じく、「第1部 空間構造と地域社会、付論 「芸州広島城下町割之図」と広島城二の丸」
  9. 『毛利三代実録考証』慶長5年9月14日条、「譜録し-12」清水五郎左宛、宍 左衛 元勝、井 大学 元茂書状(『山口県史 史料編 近世1下』、1999年)
  10. 慶長10年12月14日 福原廣俊外八百十九名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1284)
  11. 「御役員前録」豊浦藩旧記第29冊(『下関市史』資料編Ⅰ、1993年)
  12. 「宍戸系図」(塙保己一編『続群書類従』)
  13. 「宍戸系図」(『系図纂要』第六巻)
  14. 松平頼博編『常陸府中松平家家譜』(1983年)
  15. 「宍戸系図」(『小田本宗支族系図』、東京大学史料編纂所蔵、2075-1085)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。