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鵜飼氏の後先 [人物]

  • 2011/12/19 第2版 児玉景唯の生年の計算誤りを修正

小早川隆景の諸大夫として名前の伝わる8名[1]のうち、残る3人の中から鵜飼隼人、そしてその関係者と思われる鵜飼元辰を取り上げてみます。

鵜飼元辰

鵜飼新右衛門元辰は元は毛利氏家臣で後に小早川氏の家臣となり、隆景の側近の一人として活動したことが知られています。 元は近江の猿楽師であったとも言われる謎の多い人物ですが、後に輝元に誅殺される運命を辿ります。 一方、その娘の一人が嫁いだ児玉景唯は毛利秀就の伯父となり、後に江戸で幕府への対応にあたった重臣のひとりとなったのは面白いところです。

「侍付立」では鵜飼氏の名は侍大将に鵜飼新右衛門、侍大将並の中には同じ鵜飼隼人の名前が見つけられますがその他に鵜飼氏の名は見当たりません。

小早川氏の「座配書立」[2]では天正12(1584)年からその名を確認することができ、その席次はやはり隆景の側近として知られる井上氏や粟屋氏らとほぼ同じくしています。 隆景が筑前の大名となって以降、奉行人として活躍したようでその名が多く見られるようになります。 隆景の死の前後には出家したものか、隆景の旧臣ら7名での起請文[3]では紹達を名乗っています。

鵜飼隼人

さて、諸大夫成したと伝わる鵜飼隼人については、やはり元辰に近い人物である可能性が高いということが考えられそうです。

元辰の子としては元益の名が三原市末広の軍神社棟札に見えるようです[4]が、他に元益についての史料は見当たりません。 隼人が元辰の近親者である場合は元辰同様に謀殺されたか、毛利氏を離れることになった可能性も強く考えられそうです。

一方、「譜録」鵜飼新左衛門辰長[5]は元辰の系譜を伝えています。 元来は近江水口に住する岩内氏であったとしており、岩内長明を元辰の父としています。 元辰の死後は、その子、就一が元辰の兄で伯父に当たる毛利家臣岩内長辰の養子となり、後に鵜飼に復したとするものとなっています。

同系譜によれば、元辰の子として就一の異母兄にあたる隼人景一の名前が見え、諸大夫に任ぜられたとしています。 景一を実在の人物と考えた場合、その生年については児玉景唯の妻の存在が一つの参考となりそうです。 景唯妻を譜録では景一の同母姉として伝えており、その母を隆景によって粛正された田坂全慶の娘としています。 全慶の死が天文19(1550)年前後と思われ、また、児玉景唯が寛永2(1625)年に60歳で亡くなっている(即ち生まれが永禄9(1566)年)こと[6]と合わせ、景一についても永禄年間後半から天正初期の生まれの可能性を推測できそうです。

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包久内蔵助(3) -内蔵丞の子供たち- [人物]

豊前に移ったと思われる以降、足跡が不明となる包久内蔵丞ですが、その子孫を名乗る家が江戸中期以降の記録から長府藩、そして尾張藩に確認できます。 この2つの包久内蔵丞の末裔の行方を追ってみます。

長府藩士包久氏

毛利秀元を藩祖とする長府藩の藩士となった小早川旧臣も少なくなかったと思われますが、その中には包久氏の名前も確認できます。

同藩の家臣団記録によれば、正保年間に包久次太夫の姿が見え[1]、元禄年間には包久九左衛門がいます[2]。 その後は御手廻頭として包久内匠景春[3]、享保年間には包久藤太夫景義[4]がいくつかの役についていることがわかります。

さらに、同藩が文化4(1807)年にまとめた『藩中略譜』の包久氏の項目[5]には以下のように興味深い系譜が示されています。

武吉―親信―景勝(宮内少輔、因幡守)
     ―景吉(内蔵丞)―景春
             ―景泰―景義―…

同書では宮内少輔景勝が因幡守を名乗り、その弟を内蔵丞としますがその実名は景真でも景忠でもなく景吉であるとしています。 さらに、平姓を名乗りつつその祖父に村上武吉を置き、小早川氏庶流としての包久氏の由来はつかめないものとなっています。

内蔵丞景吉は道閑を名乗り慶長6(1601)年7月8日、豊前宮熊で亡くなったとします。 細川氏との関係は触れられていませんが、この当時、宮熊(現大分県宇佐市の一部)は確かに細川領です。 享年48歳であったとしていますが、この没年から逆算すると天文23(1554)年の生まれとなります。

内蔵丞の他、弥四郎、蔵人大夫の名乗りと従五位下、すなわち諸大夫成が記されています。 また、その母については桂能登守元澄女であるとしていますが、包久氏に嫁いだ元澄の娘は確認出来ません。 元澄の娘としては隆景に仕えた桂景信の妹にあたる存在が確認できますが系図上では冷泉元豊の妻となっています[6]。

『藩中略譜』に見る内蔵丞の子孫

系図に見える内蔵丞の2人の子はいずれも古屋氏を名乗ったとしていますが、このあたりの経緯は示されていません。

景春については伊世熊、久右衛門を名乗ったとし、母を隆景養女で村上隆重娘としています。 ただ、この系図の示す内蔵丞の生没年を信頼するのであれば、その妻は景広ではなくやはり包久氏が伝える通り隆重の娘と考えるほうがよさそうで、景広の義兄弟に当たるとすべきではないかと思われます。

景春は浪人し、池田輝政に仕え、古屋嘉兵衛を名乗ったとしていますが、乃美宗勝の娘の一人の嫁ぎ先として古屋加兵衛の名が記されています[7]。 内蔵丞の生年を信じれば、宗勝の娘と婚姻し得る世代と考えられますので、これも同じ内蔵丞の子を指しているものと思われます。

一方、弟の景泰は景吉の五男と記されており、やはり古屋氏を称し、主水を名乗って尾張の徳川義直に仕えたとしています。 後に秀元に仕えて包久内匠を名乗ったとして、以下、長府藩士としてこの景泰の系統が示されています。

この系図は冒頭に挙げた長府藩の家臣団史料と併せた場合、若干怪しい部分も見えてきます。 内匠の名は景春となっており、また、景泰の子、景義と同じ名が享保年間に見えますが、系図では内蔵丞の孫に当たるため世代的に問題があるように思います。

また、武吉との関係も俄には信じられませんが、親信を武吉の子とするのは、武吉が天文2(1533)年の生まれと伝わりますから、世代的にも武吉の孫に置かれる景吉、景勝の生年がおかしくなります。 天正4年の木津川口の海戦に一手を率いている景勝の生まれも天文末から弘治、永禄の始め(1550年代)が下限と考えられ、没年から天文23年の生まれとなる景吉と共に、武吉との間に1世代を挟むのは不可能と言わざるを得ません。

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包久内蔵助(2) -内蔵助と内蔵丞- [人物]

包久氏、特に隆景家臣として諸大夫成の伝わる内蔵助と同人とも思われる包久内蔵丞について引き続きみていきます。

内蔵助と内蔵丞

肝心な内蔵助の存在ですが、「村上系図」[1]では景広の娘の一人が包久内蔵介景忠妻と記されており、諸大夫成したとされる内蔵助は景忠と名乗ったとも思われます。 同じく景広娘の一人に細川忠興臣、乃美主水某妻ともありますので、ここからは乃美景嘉とは相婿の間柄にあったことになります。

内蔵丞(内蔵允)と内蔵助(内蔵介)は同一人物であるともそうでないとも取れそうですが、それを示すだけの史料はないようです。 内蔵丞の生年にもよりますが、先に見た弥七郎が内蔵丞を名乗ったと考えれば、益田景祥と同年代の内蔵丞の子、内蔵助が諸大夫成し、村上景広の娘を妻とした可能性はあるようにも思われます。 いずれにしても内蔵丞に関する史料が包久氏の中では最も残っていると言えますのでまずはこちらを取り上げてみます。

三原の法常寺は小早川氏と縁が深く、隆景の葬儀も行われたとされる寺院ですが、その記録には文禄2年に包久内蔵丞が井上又右衛門、鵜飼新右衛門と連署した証文[2]が出てきます。 翻刻で内蔵丞の実名は景(真)と記されており肝心な下の文字ははっきりしないようです。

また、時期が不明ですが裳懸采女(景利)宛の小早川隆景書状[3]に現れる「包蔵」も内蔵丞であると思われます。 注記ではこれを(景勝カ)としていますがこれの根拠は不明です。

内蔵丞は隆景の死の前後にいわゆる三原衆を代表する形で発給された文書が残る点でも、同時に諸大夫成したと伝わる宍戸掃部、益田修理、乃美主殿、裳懸主水とは世代やその立場が若干異なるようにも思われます。

覚書等に見る内蔵丞

内蔵丞については戦場等での活動を示す記録も存在します。

『安西軍策』[4]には「巻五、上月合戦事」に小早川家臣兼久内蔵丞の姿が見えますが上月合戦を史実に照らすとこれは天正6(1578)年に当たります。

また、裳懸主水と共に紹介した通り、『陰徳太平記』[5]においても天正16年の輝元、隆景、広家の上洛に随行した家臣として包久内蔵丞の名前が裳懸弥左衛門と共に上がります。

さらに、益田元祥の一代記である「牛庵一代御奉公之覚書」[6]の中にもその名が見えます。 ここでは朝鮮出兵の折、宇喜多秀家と毛利秀元が諸将を代表し、秀吉に対して蔚山の処分を確認するための使者を出した際に、秀元からは包久内蔵允を送ったと記されています。 これは13将が蔚山放棄の判断を秀吉に求めたものとして知られるものでしょうか[7]。 蔚山攻防に決着が着くのが慶長3(1598)年の初頭ですので、内蔵丞についてのこの逸話が事実であれば、慶長2年中には朝鮮に内蔵丞は渡っていた可能性が高そうです。 隆景の生前から毛利勢の一員として朝鮮に渡っていたのか、あるいは隆景の死後時を置かずに従軍したことになります。

関が原前後

関が原戦いの際に、乃美景継指揮下の水軍に従っている者の中にも包久弥三郎の名が確認できますが[8]、弥三郎の名乗りからも内蔵丞や次郎兵衛とはまた別人の同族といったところではないかと考えられます。

また、慶長4年末頃の状況を反映しているものと考えられる「広島御時代分限帳」[9]では、3名の包久氏が確認できます。

  • 187石 包久蔵(異本では「包久内蔵」)
  • 137石 包久次郎兵衛
  • 110石 包久弥七郎

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包久内蔵助(1) -小早川氏庶流包久氏の戦国時代- [人物]

小早川隆景家臣の諸大夫成として名前が上がる8名のうち、先に紹介した 乃美景嘉裳懸主水に引き続き、3人目の小早川一族出身者として包久内蔵助を追ってみます。

包久氏

包久氏は竹原小早川氏の一族であり、15世紀末の小早川弘景置文[1]では、一族一家としては草井、包久、小梨子の各氏が上位に置かれるべき存在として挙げられています。

戦国期の包久氏も小早川氏との関わりの中でその存在が確認できます。 少輔五郎景勝は木津川口の合戦に毛利水軍の一手として参加したようで、その戦勝報告[2]に名を連ねていますし、そこから小早川氏の水上戦力の一部を担っていたことがわかります。 また、隆景の晩年に活動が見え、輝元の側近木原元定の三原統治にも関わっている次郎兵衛景相[3]も知られます。 内蔵助もまたこの同族と考えられますがそれぞれの系譜上の位置付けについてははっきりとはしていないようです。

次郎兵衛景相は、隆景死後に毛利氏帰属を求めて連署起請文を提出した隆景の重臣7名の内の一人でもありますが[4]、この7名では関が原後には井上親子と粟屋景雄、桂景種は毛利氏を離れ、鵜飼元辰が輝元に誅殺されるなどの経緯を辿っていおり、景相のその後もはっきりしないのではないかと思われます[5]。

「侍付立」に見る包久氏

「侍付立」[6]では諸大夫成をしたとする包久内蔵助の他、侍大将として内蔵允、侍大将並として左馬、旗本として因幡の3人の包久氏を確認できます。

左馬については後述の「小早川文書」の「座配書立」に一度名前が見えます。 また、永禄4年に毛利元就隆元父子が隆景を沼田に訪問し、小早川氏が歓待した際の記録にも先に紹介した裳懸氏同様に包久氏の名前も見え[7]、ここに現れるのが左馬助です。 この時、左馬助は宴席での二献を担当した人物として現れます。 同記録に名前の出る包久氏は左馬助ただ一人であり、同人がこの時期の包久氏の中心人物だったのではないでしょうか。

また、包久因幡は瀬戸島にあった城の城主を務めたと伝わります[8]が、これがいつの時代のことか、はっきり紹介している物は見いだせませんでした。 ただ、景勝が木津川口の戦いに貢献したことを考えれば、この地域に包久氏の警固衆としての根拠地が存在していたのかも知れません。

後述するように内蔵允と次郎兵衛は少なくとも別人であることから、「侍付立」に名前の見えない次郎兵衛が左馬助あるいは因幡守と同一人物である可能性はあるでしょうか。

包久内蔵允

内蔵助だけではなく「侍付立」には包久内蔵允の名も記載されていますが、いくつかの文書史料に包久内蔵丞の名前を見いだすことができ、こちらの人物は景真と名乗っているようです。

その一つとして、木原元定宛書状に残る「包蔵 景真」[9]が見えます。 元定は輝元の側近の一人で、先に述べた通り隆景死後の三原支配に関連して輝元から派遣されている人物です[10]。 同書状には輝元の所在であると思われる伏見に罷り上らせる人物として「う新」(鵜飼元辰)、「包次」(包久景相)が挙げられています。 これにより、景相と景真は別人であることが確認できますので、当時包久氏には景真と景相の2名の有力者が存在したことになります。 また、この書状が井上春忠、粟屋景雄との連署であることから考えても、内蔵丞が隆景家臣団を代表し得る立場にあったことも伺えます。

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裳懸主水(2)-小早川一族の裳懸弥左衛門- [人物]

小早川隆景の近臣として諸大夫成の伝わる[1]、後の高山主水こと裳懸主水の人生について、関が原以前へと溯ってみます。

裳懸氏

そもそも裳懸氏の由来は鎌倉時代に備前国邑久郡にある裳懸荘を領した小早川一族が裳懸氏を名乗ったことに始まるようです。 小早川一族として、15世紀末の小早川弘景置文にも裳懸氏の名前が見えます[2]。

戦国期の裳懸氏が具体的にどのような事績を残したのかはほとんど不明と言えそうです。 わずかに小早川氏の記録に挙がる名前からその存在を確認でき、小早川氏一族として隆景の下で活動したと思われますが、残るのは河内守や采女允に関連する書状[3]が見られる程度です。 「侍付立」には主水の他に河内守、弥右衛門、杢の3人の裳懸氏の名前を見いだせますが、それらの人物同士の間柄や事跡も詳細は不明です。

裳懸六郎と小早川家中での席次

高山主水こと盛聡は六郎を名乗ったとありますが、小早川家の座配書立では天正10年から天正14年までの間、裳懸六郎の名前が見られ、年代的にも伝わる没年から永禄10(1567)年の生まれとみられる主水を指すものと思われます。

この時、上位に「裳懸殿」の名が見える年もありますが、その位置から当時の裳懸一族の代表者と言えそうです。 以下に「座配書立」に現れる裳懸氏を示します[4]が、六郎の他、采女允、河内守、次郎四郎が主要な当時の裳懸一族と考えてよいかと思います。

座配書立に見える裳懸氏

年次名乗り
永禄2年裳懸与次
永禄4年裳懸河内守
永禄11年裳懸新衛門
不明裳懸、裳懸六郎
不明裳懸新四郎、裳懸刑部丞
天正4年裳懸殿、裳懸次郎四郎
天正5年裳懸殿、裳懸采女允
天正6年裳懸采女允
不明裳懸殿、裳采
不明裳懸殿、裳懸二郎四郎
不明裳懸殿、裳懸次郎四郎
天正7年裳懸殿、裳懸采女允
天正10年裳懸六郎
天正11年裳懸六郎、裳懸采女允
天正12年裳懸殿、裳懸六郎
天正13年裳懸殿、裳懸六郎
天正14年裳懸六郎、裳懸采女祐

また、永禄4年に毛利元就、隆元父子が沼田を訪れた際の記録[5]にも裳懸河内守、六郎、次郎四郎の名前が見えます。 元就を迎えた宴席の冒頭に河内守が能を舞ったこと記録されていますので、同人が文化面にも秀でた小早川一族の主要人物の一人であったことが伺えます。

萩町人裳掛氏と裳懸弥左衛門

ここで裳懸氏の系譜を見るために「閥閲録」に萩町人として現れる裳掛道説の記録を取り上げてみます[6]。 それによると道説の祖は河内守盛聡の次男采女正景利で、その子小右衛門の代に牢人となり、道説の代に医者となったと書かれています。 道説まで代々毛利氏家臣団への復帰を願い出ていたようですが、終に叶う事なく医師の道を選んだという事情があったようです。

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裳懸主水(1)-関が原家康本陣に居た小早川旧臣- [人物]

「侍付立」[1]において、小早川隆景家臣として諸大夫成したと名前が上がる8名のうち、3名が小早川一族として知られる家の出自です。 先に紹介した乃美景嘉の他、包久内蔵助と裳掛主水がこれにあたります。

裳掛主水については、その素性を調べて行くうちにこの人物が関が原の戦いの際、家康に属し、その本陣に鉄砲隊を率いて在陣していたと伝わる高山主水盛聡であることがわかりました。 高山主水としての後半生、裳懸弥左衛門としての前半生と、その来歴には興味深いものがありそうです。

高山主水

高山主水の存在については北村健一氏が裳懸氏について萩町人と高山氏と名乗り幕臣となった系譜がある[2]と紹介されていたため、これを確認したところまさに主水を名乗り諸大夫成についても触れられている高山主水盛聡(もりとし)の存在を追うことができたものです。

『寛政譜』の記述[3]では利家の子で宮徳、六郎、主水佑、主水正、従五位下とありますが、それ以前の由緒には詳しくは触れられていないため、小早川本家との具体的な関わりや裳懸氏の系譜上での位置付けはここからは不明です。 父としている利家については今の呈譜では盛英とする、とも書かれていますが、裳懸氏を高山氏に改めた経緯が書かれていないためか、利家との関係を養子にあたるものかと編者が混乱している様子も見られます。

また、慶長元年5月24日に従五位下主水祐に叙せられたと書かれていますが、この日付は乃美景尚宛の口宣案[4]のものとも一致し、ひとまずは「侍付立」の記述を裏付けるものとなります。

経緯は不明としても小早川家臣団に高山氏の名は見えないようですので、家康への臣従前後までの間に盛聡が自ら高山へと改めたのではないでしょうか。 その由来は沼田小早川氏の本拠高山城に由来しているのではないかと想像したいと思います。

盛聡は寛永14(1637)年8月22日に没し、この時71歳ということですので永禄10(1567)年の生まれでしょうか。 妻は稲生左衛門佐季興の娘で子供たちの母親も同女とのことですが、稲生氏がどのような位置の人物かは確認できていません。 嫡男盛勝は生国を山城としていますが、延宝7(1679)年に75歳で没すると伝えていますので、これが事実なら関が原後も主水の妻子は京にあったということになりそうです。 ただ、次男利永は生国駿河とのことから、主水の家族は京から駿河に移ったものと考えられます。

旗本稲生氏には李興の名は見えず、盛勝の妻が九条家の士、山本六兵衛豊広の娘となっているほか、盛聡の娘の一人は東山勝久寺某へ嫁ぐとあり、毛利氏を離れた際も東山に閑居したと伝えるなど盛聡には京での人脈があったのかもしれません。 その場合には稲生李興もまた、京、あるいは公家衆や寺社に関係のある人物の可能性が高いのではないでしょうか。

隆景の死と関が原

『寛政譜』の記述を引くと隆景の死後に盛聡は毛利家を離れ、先に述べたように山城東山に閑居したそうです。 関が原以前に大久保忠隣を通じて小田原で家康にも面会を果たしており、その後、関が原に際しては藤堂高虎、本多正信を介して家康に仕えたとあります。

その召し抱え時の経緯については、通行の困難な中、東海道を鉄砲100挺を持って江戸へ下ったことに家康が感じ入り寄騎10騎、鉄砲100挺200人扶持を預けられたということになっています。 通行の困難な中という記述に多少誇張があるにしても、これを受け入れるならば、時期的には上杉征伐に家康が東上して以降の臣従と言えそうです。

『長陽従臣略系』[5]にも「高山主水」の項目があり、そこでは「裳懸弥左衛門」として主水についての記述があります。 そこでは隆景死後は毛利家に仕えるものの、家康に仕えることを望み、使者を務めた機会に大久保忠隣に接触、毛利家を去り、後に家康に仕えたとしています。 また、同書には「鵜飼新右衛門(元辰)」の項目もあり、そこには家康へ仕えることを望んだことが新右衛門誅殺へ繋がったとされているだけではなく、新右衛門元辰の娘の一人は高山主水に嫁いでいたともしています。 このように鵜飼元辰と共に家康に近づいた人物と理解されていた面もあるようです。

そして、関が原での本戦では、鉄砲隊を率いて家康本陣にいたと伝わります[6]。 これが記録の通りであれば、つい先日召し抱えられた盛聡が譜代の家臣と並んで家康本陣にいることを許されていたことになりますが、盛聡と家康の関係はどのようなものだったのでしょうか。

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益田景祥 -益田氏と宍戸景好親子- [人物]

乃美景嘉に続いてもう一人、諸大夫成が伝わる小早川隆景家臣[1]として益田景祥を紹介してみます。 この益田景祥は石見の有力国人であった益田元祥の次男です。

益田修理亮景祥

益田氏は石見の国人で、景祥の祖父藤兼の頃に毛利氏に従いました。 景祥は藤兼の跡を継いだ元祥とその妻である吉川元春娘の間に生まれています。

七内を名乗り、次男であったためか、一時期は宗像氏貞の養子となったとも伝わります。 妻としては、児玉元良の娘で毛利秀就の実母二の丸殿を姉にもつ女性を迎えました。 すなわち、景祥は秀就の義理の叔父に当たることとなります。

父元祥は関が原後には旧領を安堵するとした家康の誘いを断り萩藩に残り、その後は、輝元の下でその財政立て直しに尽力した人物としても著名です。 結果、益田本家は福原家とともに一門六家に次ぐ永代家老の家格を与えられています。 その次子である景祥もまた別家を建て、寄組藩士として続きました。

景祥は寛永7(1630)年7月13日、山口で没し、享年54歳あるいは56歳と伝わります。 同母兄で嫡男であった広兼が文禄4(1595)年に20歳で亡くなったとされることから、景祥自身は54歳で没し、その生年は天正5(1577)年と考えるのが妥当でしょうか。

亡くなった当時を含め寛永2年の給地替え以降、益田氏の給地は山口近隣の問田村にあり、当時の屋敷跡地は今も残っています[2]。

秀吉との関わり

文禄元(1592)年に隆景に召し出され、朝鮮へと渡ったと系図は伝えますが、『安西軍策』[3]では若干15歳にして朝鮮で勇敢に戦う景祥の姿も描かれています。

同氏の『閥閲録』[4]の書出では景祥について小早川家臣時代、隆景が中納言に任ぜられた際に自身も諸大夫成したものの、それを示す綸旨は焼失して残っていないとしていますが、その他、景祥に関する文書類もほとんど収録されておらず、書出の通り焼失していたか別の事情で散逸していたのでしょう。

また、隆景の隠居時に三原に残る心積もりのところ、秀吉から名島周辺の1万石で秀秋に仕えるように命じられたため、苦慮の末、輝元の直臣となり周防右田で2500石を与えられたとしています。 その際に児玉元良の娘(秀就生母二の丸殿の妹)と結婚したと伝えます[5]が、この秀秋に仕えるように命じられてから、秀就叔母と結婚するまでの話については「牛庵一代御奉公之覚書」[6]の内容に沿っています。

江戸時代に入っても景祥はそのまま修理亮を名乗っていますが、晩年には子の就固に修理亮を譲り自身は河内守と改めたようです。

宗像氏と益田氏

先に述べたように幼いころの景祥は宗像氏に養子に入ったと伝わります[7]。 宗像氏は筑前国宗像社の大宮司職を務める家柄であり、同時に同地の有力国人勢力でもありました。 戦国期の宗像氏貞は時に毛利氏と連携しながら、大友氏との間に挟まれた北部九州の戦国期を生き抜いていますが、その氏貞も秀吉の九州攻めの直前天正14(1586)年に亡くなっています。

この後、九州に出陣した折、小倉城の落城後に益田元祥が宗像氏の家臣団に感状を発給しており、また、益田氏は天正6(1578)年の宗像社の造営においても多くの資材を提供するなど元々深い関係にあったということです[8]。

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乃美景嘉と「乃美文書」(2) [人物]

引き続き、乃美景嘉のその後と、その様子を伝える「乃美文書」[1]を見ていきます。

関が原前後

子の市郎兵衛は父景嘉の関が原の際の行動についても伊勢へと侵攻したことを記していますが、実際に伊勢尾張方面へと進出した部隊の中に乃美主殿がいたことが確認できます[2]。 ここから当時の毛利家中の水上戦力として、景嘉の兄、乃美孫兵衛(景継)と村上八郎左衛門(景広)がそれぞれ警固衆の一隊を率いて伊勢尾張方面へ進出していたことが確認でき、他方、村上掃部(元吉)が瀬戸内にあって伊予侵攻に当たっていたことになります。

関が原後、景嘉は比較的早くに舅の村上景広らと毛利氏を離れ、細川氏に仕えたようです。 兄の乃美景継は佐世元嘉に宛てて起請文[3]を提出していますが、その内容は「今度村上八郎左衛門尉并私弟ニ候主殿助、歴々雖他出仕候、不致同心」と村上景広や弟の主殿助が毛利家を離れ豊前の細川家へと仕えたことを受けつつ自身は毛利氏への忠誠を誓うものとなっています。 他にも、景嘉の義弟にあたる村上景房もこの時期細川氏に移るといったこともあったようです[4]。 細川氏に移った諸氏もその後は様々ですが景嘉は冒頭に述べた通り、その後も細川氏に仕え続け、熊本藩乃美氏として続きました。

細川家臣時代

「乃美文書」には宗勝時代を中心とした戦国時代の文書を多く見ることができますが、一方で、景嘉が細川氏に仕えていたころのものも含まれています。 それら、細川家臣時代のものと見られる文書には、土井利勝、大久保忠隣といった当時の幕府の重鎮からのものも残されており[5]、また、「細川家文書」[6]でも三斎(忠興)に関連して度々名前が現れていますので、義兄の景則と並んで忠興に重用され、その側近のような立場にあったのでしょうか。

この時期の文書にはほとんどが乃美主水の名で現れますので、いつの頃か主殿助から改めたようです。 この当時のいくつかの書状を見ていると気になる名前が二つ出てきました。

出羽屋又右衛門

その一つは「出羽屋又右衛門」で、その正体については不明ですが、三原東町に出羽屋の屋号を持つ者が多く確認できます[7]ので、小早川氏との関係からも、この又右衛門も三原あるいは瀬戸内周辺の商人だったと言えるのではないでしょうか。

出羽屋に関連する書状としては、天文12(1543)年とされる、浄世等連署金子借用状[8]も宛先について「いづは(カ)又右衛門」となっていますがこの宛所も実は同一人物ではないでしょうか。 同文書に借り手として現れる景親、景継を村上景親、乃美景継と解すれば、発給時期は天文年間ではあり得なくなりますので、他の書状に見える出羽屋又右衛門の可能性が高くなりそうです。

この文書で返済に充てると明言されている三井村、小中村については、三井村が周防に、小中村が筑前の博多近くに存在していることが確認できます。 天文年間の書状であれば当時の小早川氏の勢力圏から言って備後、安芸の沿岸部に同名の村が確認できなければならないはずですがどうなのでしょうか。

萩原殿神龍院

「萩原殿神龍院」も興味深い人物です。

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乃美景嘉と「乃美文書」(1) [人物]

  • 2010/7/4 第2版 石原氏についての誤記を修正(景直→景信)

小早川隆景の諸大夫と伝わる人物としてまず乃美景嘉を取り上げます。

乃美景嘉は隆景を支え続けた家老として著名な乃美(浦)宗勝の子です。 主殿助を名乗ったと伝わりますので、「侍付立」[1]で諸大夫成したとされる乃美主殿は景嘉を指すものと考えられます。

宗勝の死後、乃美氏は景嘉の兄景継が継ぎ、景嘉は別家を建てますが、関が原の後は村上景広らと豊前小倉の細川氏に仕え、その後も熊本藩乃美氏として続きました。 その乃美氏に伝わる「乃美文書」[2]には宗勝が関与する多くの伊予関連文書も含まれており、当時の伊予を知る上で貴重な史料となっています。

生誕から

系図[3]によれば新四郎、主殿助、主水を名乗ったとされ、「村上系図」[4]の記述からは村上景広の娘を妻としたようです。 以下、「乃美文書」から景嘉の動向を見てみます。

まず、天正16年に「景」の字を与えられている乃美新四郎が見えます[5]。 これが景嘉と思われますので、兄景継が永禄5(1562)年の生まれと伝わることと併せ、概ね元亀年間から天正の初期にかけての生まれで、その上限が早ければ永禄年間後半と考えられそうです。

その後、3月14日付の乃美新四郎宛、小早川隆景宛行状[6]では「備前守筑前知行分之内五千石宛行其方候間」とあることから、天正20(1592)年の父宗勝の死後、恐らくは翌文禄2年にその遺領の一部5000石の相続を隆景に安堵されたものと思われます。

また、文禄4(1595)年とされる柳本重久起請文[7]は柳生但馬守からの相伝全てを乃美新四郎に伝えたことを誓う内容となっています。

このように景嘉は文禄年間頃までは新四郎を名乗っていたようです。

諸大夫成と弟甚右衛門

「乃美文書」の中には、隆景が清華成したと伝わる文禄5(1596)年5月24日に従五位下、主殿助に任じられている豊臣景尚に宛てた口宣案も確認できます[8]。 これは隆景家臣として乃美主殿が諸大夫成したとする「侍付立」の記録を裏付けるものとも言えますが、その一方で、景尚の名は系図には景嘉の別名ではなく、甚右衛門を名乗った景嘉の弟の名として記されていることをどのように解釈すべきでしょうか。

「乃美文書」には景嘉の子市郎兵衛の時代に、萩藩に残った景嘉の兄景継の流れを汲む萩藩浦氏からの問い合わせに答えた際の文書が残されています[9]。 そこでは市郎兵衛の手元に残っていた証文の写しを送ると共に、父景嘉から伝え聞いている話として、証文類の多くを景嘉の兄景継が引き継いだほか、甚右衛門も一部を所持しているとしています。 このことからも景嘉は甚右衛門とは別人であり、その弟であることは間違いないと言えそうです。 ただし、甚右衛門が景尚を実際に名乗っていたことを確認できる系図以外の史料には当たれていません。

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宍戸景好の諸大夫成(1) [人物]

宍戸景好が名乗ったとされる掃部ですがその名を確認できる史料はあまり残されていません[1]。 その中の一つが「掃部」が小早川隆景家臣として諸大夫成で得た正式な官位であったとするものであり、その正否について考えてみます。

小早川家中の諸大夫成

豊臣秀吉は諸大名統制策として、朝廷を利用し、有力大名や陪臣に当たるその家臣への叙任も進めていたようです。 このいわゆる武家の諸大夫成の事例の記録を下村效氏が丹念に集められています[2]。

そこには、例えば毛利輝元家臣の諸大夫成としては主に閥閲録などをその出典に、天正16年の堅田元慶ら9名を始めとして20名以上の名前が残っています。 一方、小早川氏の家臣として記録に残っている者は1名も出てきません。 下村氏が一部に残る隆景家臣の諸大夫成を伝える記録をどのように判断されたのかは不明ですが、その点も含めて隆景家臣の諸大夫成は不明であるということでしょう。

もちろん文禄5年(あるいは文禄4年)[3]とする隆景の清華成からその死までの期間が短いことや、その期間のほとんどが小早川家では隠居した身という立場にあったことなどから諸大夫成した隆景系家臣自体の数が少なかったことや、後に毛利氏を離れた隆景遺臣も多く、そのため記録が残っていないという側面もありそうです。

掃部頭武吉

ところで、先の下村氏が収集された記録の中に姓が欠けて不明な武吉という名の人物が慶長3年4月15日に掃部頭を与えられているものが挙げられています。 この名乗りを聞いて真っ先に頭に浮かぶのは能島村上氏の前当主村上武吉です。

しかし、この時期既に能島村上氏の当主は実質的にも子の元吉と言ってよいはずで、武吉自身の名乗りもそれより10年以上前から安房守を経て大和守となっています[4]。 関が原の際の伊予侵攻に関連する発給、受給の各文書類でも大和守と掃部が並んで書かれているものも多く、掃部頭は元吉であり、武吉は大和守を称していることが分かります。

他家にも武吉という武将が存在し、その人物が掃部頭に任官された可能性も当然考えられますが、今のところそれらしき人物も見当たらず、時期を考えれば子の元吉が任官されたことが誤って記録されたと考えられるかもしれません。 官位を受けた武家側の記録ではなく、『柳原家記録』に記されているもののようですので、人名の誤りは有り得る話でしょうし、一方で官位を与えられた人物の実在は確かであると言えるのではないでしょうか。

宍戸氏の諸大夫成

また、同じく下村氏の集めた記録の中に『晴豊公記』によって天正18年までに宍戸氏からも誰かが諸大夫成していたようです。 ただ、具体的な名前も官位も不明となっています。

景好の長兄で、祖父隆家から宍戸家を引き継ぐ元続が従五位下備前守となるのは文禄4年です[5]。 それまでは九郎左衛門尉を名乗っているようですので備前守以外の官位をこの時までに得ていたとも思えません。 この他、同時代に宍戸氏で従五位下と系図が伝えるのは元就の娘婿である安芸守隆家、その子元秀、さらに元秀の子で輝元夫妻に寵愛されたと伝わる民部元真が挙げられます。

元続の任官に先立つ時期ということで、隆家が任官を受けたとも考えられますが、毛利氏内部での一門衆としての待遇を考えると元就在世中の早い時期に官位を得ていたとしても不思議はない存在です。 子の元秀は既に天正初期には宍戸氏の家督継承者からも外れていたと思われ、豊臣政権下での叙任には適当ではないとも言えそうです。

民部元真は天正3年の生まれということで、年齢としては幼年過ぎるようにも思われるのですが、宍戸氏に伝わる系図には輝元が中納言になった際に元真も諸大夫となったとしているものも存在します[6]。 またこの前後に証人として上洛していたのであれば、その際に叙任を受けるといったことはあり得たのかも知れません[7]。

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