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乃美景嘉と「乃美文書」(1) [人物]

  • 2010/7/4 第2版 石原氏についての誤記を修正(景直→景信)

小早川隆景の諸大夫と伝わる人物としてまず乃美景嘉を取り上げます。

乃美景嘉は隆景を支え続けた家老として著名な乃美(浦)宗勝の子です。 主殿助を名乗ったと伝わりますので、「侍付立」[1]で諸大夫成したとされる乃美主殿は景嘉を指すものと考えられます。

宗勝の死後、乃美氏は景嘉の兄景継が継ぎ、景嘉は別家を建てますが、関が原の後は村上景広らと豊前小倉の細川氏に仕え、その後も熊本藩乃美氏として続きました。 その乃美氏に伝わる「乃美文書」[2]には宗勝が関与する多くの伊予関連文書も含まれており、当時の伊予を知る上で貴重な史料となっています。

生誕から

系図[3]によれば新四郎、主殿助、主水を名乗ったとされ、「村上系図」[4]の記述からは村上景広の娘を妻としたようです。 以下、「乃美文書」から景嘉の動向を見てみます。

まず、天正16年に「景」の字を与えられている乃美新四郎が見えます[5]。 これが景嘉と思われますので、兄景継が永禄5(1562)年の生まれと伝わることと併せ、概ね元亀年間から天正の初期にかけての生まれで、その上限が早ければ永禄年間後半と考えられそうです。

その後、3月14日付の乃美新四郎宛、小早川隆景宛行状[6]では「備前守筑前知行分之内五千石宛行其方候間」とあることから、天正20(1592)年の父宗勝の死後、恐らくは翌文禄2年にその遺領の一部5000石の相続を隆景に安堵されたものと思われます。

また、文禄4(1595)年とされる柳本重久起請文[7]は柳生但馬守からの相伝全てを乃美新四郎に伝えたことを誓う内容となっています。

このように景嘉は文禄年間頃までは新四郎を名乗っていたようです。

諸大夫成と弟甚右衛門

「乃美文書」の中には、隆景が清華成したと伝わる文禄5(1596)年5月24日に従五位下、主殿助に任じられている豊臣景尚に宛てた口宣案も確認できます[8]。 これは隆景家臣として乃美主殿が諸大夫成したとする「侍付立」の記録を裏付けるものとも言えますが、その一方で、景尚の名は系図には景嘉の別名ではなく、甚右衛門を名乗った景嘉の弟の名として記されていることをどのように解釈すべきでしょうか。

「乃美文書」には景嘉の子市郎兵衛の時代に、萩藩に残った景嘉の兄景継の流れを汲む萩藩浦氏からの問い合わせに答えた際の文書が残されています[9]。 そこでは市郎兵衛の手元に残っていた証文の写しを送ると共に、父景嘉から伝え聞いている話として、証文類の多くを景嘉の兄景継が引き継いだほか、甚右衛門も一部を所持しているとしています。 このことからも景嘉は甚右衛門とは別人であり、その弟であることは間違いないと言えそうです。 ただし、甚右衛門が景尚を実際に名乗っていたことを確認できる系図以外の史料には当たれていません。

乃甚右と宍掃部

甚右衛門について、系図では新二郎、景尚を名乗り、池田利隆に仕えたとあります[10]。 これが事実ならば、利隆は大坂落城の翌年には亡くなりますので、比較的早く、恐らくは関が原前後の数年の間には景嘉同様に毛利氏を離れ、池田氏に仕えたのではないかと思われますが、いくつかざっとあたった中で岡山藩、鳥取藩いずれの池田氏にも乃美氏あるいは浦氏の存在を確認できていません。

ところでこの甚右衛門は宍戸掃部の名前が見られる数少ない史料のひとつである村上景房宛の正岡休意書状[ 史料13 ]の中にもその名前が見えます。

この書状の中で休意は景房の祖父「河州さま(村上吉継)」や「(村上)武満様」など多くの既に亡くなったと思しき人名を挙げてそれらの人を忍んでいますが、宛先である景房、「第一御存命候事何より以御大幸にて候」と存命を喜んでいる「宍 掃(宍戸掃部、景好)」以外で確実に存命中の人物として文中に現れるのが「乃 甚右」と書かれている人物です。 「其段乃甚右可有御物語候」そして、「甚右さまと此中節々はなし申候て申上候」と2ヶ所にこの名前が現れます。

書状の宛先である景房の妻が乃美宗勝の娘とされることからもこれはその弟の乃美甚右衛門と考えられ、休意とも親しい様子が伺えます。 この当時の甚右衛門の境遇については休意の書状の内容から休意が居たらしい大坂あるいはその近隣にいたのか、もしくは上坂して休意と会う機会があったのではないかという以外は伺い知ることはできません。

甚右衛門の名乗りと思われる新二郎については、隆景ならびに鵜飼元辰がその上洛について触れた書状[11]が「乃美文書」にも残されています。 高麗渡海についても触れられていることから、天正末年以降のものとおもわれますが、この上洛は小早川氏の証人としてのものである可能性があるのではないでしょうか。

朝鮮へ

秀吉が明を目指して大軍を朝鮮へと渡海させる中、景嘉も隆景に従い海を渡ったと思われます。 「乃美文書」にも乃美新四郎宛の当時の隆景からの感状[12]が残されています。 これについては軍記物ではありますが『安西軍策』にも、文禄の役の際に小早川隆景の麾下で活躍を見せる乃美主殿の名前が、同じく諸大夫成の伝わる益田修理(景祥)などと共に現れます[13]。

また、先に取り上げた子の市郎兵衛の記すところによれば、景嘉から伝え聞いた話として、粟屋四郎兵衛(景雄)麾下の5人と井上五郎兵衛(景貞)麾下の12人が隆景から活躍を賞され感状を受けたとしています。 具体的に、粟屋四郎兵衛の下には村上掃部(元吉)、村上四郎左衛門(あるいは八郎左衛門景広か)、益田修理(景祥)、石原太郎右衛門(太郎左衛門景信か)の4人の名が上がり、後1人は覚えていない、一方井上の指揮下にあったものについては1人もその名を覚えていないと伝え聞いていたことが記されています。 景嘉自身が粟屋、井上いずれかの指揮下にあったかどうかもここからは不明ですが、『陰徳太平記』の中では井上五郎兵衛の下にいたとされています[14]。

さらに、年不詳ですが、乃美主殿助に宛てた輝元書状[15]では輝元が「渡海」に当たり小袖を送るとともに「万事乃孫兵(景継)申談候事肝要」と気遣いを見せている様子が伺えます。 その4日前とも考えられる書状[16]でも輝元は「其方役目之儀、孫兵衛(景継)同前ニ警固役可仕之由理無余儀候」と伝えています。 書状が宛て名が主殿助であることからもこれを慶長の役での朝鮮渡海と考えられ、まだ年若く警固活動の経験が薄いと思われる景嘉を輝元が心配しているようにも見えます。

この理解が正しいのであれば乃美氏兄弟は小早川隆景隠居後あるいはその死後は比較的早くに村上武吉元吉親子、村上景広などと共に毛利氏の水上戦力に再編されていた、と考えられそうです。

注釈

  1. 「豊浦藩旧記 第27冊」小早川隆景公御家中名有侍付立(『下関市史』「資料編1」、1993年)。同じく「資料編4」(1996年)にも「内藤家文書」の一部として微妙に内容の異なるものが収録されています。
  2. 「乃美文書」(『新熊本市史』史料編 第2巻 古代・中世 、1993年)、以下「乃美文書」は全て同書による。
  3. 「26 寄組 浦家」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)
  4. 「75 寄組 村上家」(『近世防長諸家系図綜覧』)
  5. 「乃美文書」90 天正16年6月1日 乃美新四郎宛 小早川隆景加冠状
  6. 「乃美文書」119 3月14日 乃美新四郎宛 小早川隆景宛行状
  7. 「乃美文書」37 文禄4年9月24日 乃美新四郎宛 柳本重久起請文
  8. 「乃美文書」102 文禄5年5月24日 豊臣景尚宛 後陽成天皇口宣案、103 文禄5年5月24日 豊臣景尚宛 後陽成天皇口宣案
  9. 「乃美文書」143 (年不詳)5月21日 乃美市郎兵衛書状写
  10. (3)に同じ
  11. 「乃美文書」60 (文禄2年)11月14日 小早川隆景書状、69 11月14日 乃新介、同新次宛 鵜飼元辰書状
  12. 「乃美文書」45 文禄2年6月7日 乃美新四郎宛 小早川隆景感状
  13. 『安西軍策』「巻第七、日本勢張番付江陽合戦事」(校訂近藤瓶城、復刻マツノ書店、2000年)
  14. 『陰徳太平記』「巻第77 江陽合戦之事」(米原正義校注『陰徳太平記』正徳2年板本 第6巻、東洋書院、1984年)には井上の組下として乃美主殿助、村上八郎左衛門(景広)、佐世伊豆守(元勝)の名が出てきます。
  15. 「乃美文書」74 9月14日 乃美主殿助宛 毛利輝元書状
  16. 「乃美文書」86 9月10日 乃美主殿助宛 毛利輝元書状

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