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裳懸主水(1)-関が原家康本陣に居た小早川旧臣- [人物]

「侍付立」[1]において、小早川隆景家臣として諸大夫成したと名前が上がる8名のうち、3名が小早川一族として知られる家の出自です。 先に紹介した乃美景嘉の他、包久内蔵助と裳掛主水がこれにあたります。

裳掛主水については、その素性を調べて行くうちにこの人物が関が原の戦いの際、家康に属し、その本陣に鉄砲隊を率いて在陣していたと伝わる高山主水盛聡であることがわかりました。 高山主水としての後半生、裳懸弥左衛門としての前半生と、その来歴には興味深いものがありそうです。

高山主水

高山主水の存在については北村健一氏が裳懸氏について萩町人と高山氏と名乗り幕臣となった系譜がある[2]と紹介されていたため、これを確認したところまさに主水を名乗り諸大夫成についても触れられている高山主水盛聡(もりとし)の存在を追うことができたものです。

『寛政譜』の記述[3]では利家の子で宮徳、六郎、主水佑、主水正、従五位下とありますが、それ以前の由緒には詳しくは触れられていないため、小早川本家との具体的な関わりや裳懸氏の系譜上での位置付けはここからは不明です。 父としている利家については今の呈譜では盛英とする、とも書かれていますが、裳懸氏を高山氏に改めた経緯が書かれていないためか、利家との関係を養子にあたるものかと編者が混乱している様子も見られます。

また、慶長元年5月24日に従五位下主水祐に叙せられたと書かれていますが、この日付は乃美景尚宛の口宣案[4]のものとも一致し、ひとまずは「侍付立」の記述を裏付けるものとなります。

経緯は不明としても小早川家臣団に高山氏の名は見えないようですので、家康への臣従前後までの間に盛聡が自ら高山へと改めたのではないでしょうか。 その由来は沼田小早川氏の本拠高山城に由来しているのではないかと想像したいと思います。

盛聡は寛永14(1637)年8月22日に没し、この時71歳ということですので永禄10(1567)年の生まれでしょうか。 妻は稲生左衛門佐季興の娘で子供たちの母親も同女とのことですが、稲生氏がどのような位置の人物かは確認できていません。 嫡男盛勝は生国を山城としていますが、延宝7(1679)年に75歳で没すると伝えていますので、これが事実なら関が原後も主水の妻子は京にあったということになりそうです。 ただ、次男利永は生国駿河とのことから、主水の家族は京から駿河に移ったものと考えられます。

旗本稲生氏には李興の名は見えず、盛勝の妻が九条家の士、山本六兵衛豊広の娘となっているほか、盛聡の娘の一人は東山勝久寺某へ嫁ぐとあり、毛利氏を離れた際も東山に閑居したと伝えるなど盛聡には京での人脈があったのかもしれません。 その場合には稲生李興もまた、京、あるいは公家衆や寺社に関係のある人物の可能性が高いのではないでしょうか。

隆景の死と関が原

『寛政譜』の記述を引くと隆景の死後に盛聡は毛利家を離れ、先に述べたように山城東山に閑居したそうです。 関が原以前に大久保忠隣を通じて小田原で家康にも面会を果たしており、その後、関が原に際しては藤堂高虎、本多正信を介して家康に仕えたとあります。

その召し抱え時の経緯については、通行の困難な中、東海道を鉄砲100挺を持って江戸へ下ったことに家康が感じ入り寄騎10騎、鉄砲100挺200人扶持を預けられたということになっています。 通行の困難な中という記述に多少誇張があるにしても、これを受け入れるならば、時期的には上杉征伐に家康が東上して以降の臣従と言えそうです。

『長陽従臣略系』[5]にも「高山主水」の項目があり、そこでは「裳懸弥左衛門」として主水についての記述があります。 そこでは隆景死後は毛利家に仕えるものの、家康に仕えることを望み、使者を務めた機会に大久保忠隣に接触、毛利家を去り、後に家康に仕えたとしています。 また、同書には「鵜飼新右衛門(元辰)」の項目もあり、そこには家康へ仕えることを望んだことが新右衛門誅殺へ繋がったとされているだけではなく、新右衛門元辰の娘の一人は高山主水に嫁いでいたともしています。 このように鵜飼元辰と共に家康に近づいた人物と理解されていた面もあるようです。

そして、関が原での本戦では、鉄砲隊を率いて家康本陣にいたと伝わります[6]。 これが記録の通りであれば、つい先日召し抱えられた盛聡が譜代の家臣と並んで家康本陣にいることを許されていたことになりますが、盛聡と家康の関係はどのようなものだったのでしょうか。

関が原の恩賞

戦後、盛聡は毛利氏の旧領でもある備中国後月郡で1000石を与えられ、旗本に列しています。 これを裏付ける備中国後月郡木子村で1000石を与える旨の慶長7年の家康黒印状が記録されています[7]が、これが幕府が旗本諸家が持つ古文書類を提出させた際に、高山家が提出した唯一の文書のようです。

備中後月郡木子村千石
慶長7年10月2日
高山主水とのへ

同日付けでは家康傘下の武将に多数の所領宛行状が出されていることが確認できますが、そのほとんどが近江や山城で宛がわれているのを考えると盛聡への備中の所領宛行は、主水の希望を汲んだものかあるいはなんらかの意図的があったものと思われます[8]。

また、宛行の対象者のほとんどが三河以来の譜代あるいは天正年間までには家康に臣従したものが多く、高山主水の経歴は異色に映ります。 ただし、特殊な例ではありますが進藤正次のように関が原の合戦の際には宇喜多秀家に属しながら、同日付けで故地の伊勢に500石を与えられている人物もいるため[9]、主水についても必ずしもこの日の所領宛行が関が原の際の東軍参戦の恩賞を表すものであるとは言い切れない点は残ります。

高山主水と島津氏

『寛政譜』ではその後の事績について特に示されてはいません。 しかし、島津家に残された文書から、高山主水が少なくとも島津氏と関わりがあったことがわかります。

具体的には、寛永13年および同14年とされる高山主水正から松平大隅守(島津家久)宛の書状[10]が残ります。 寛永14年のものは主水正の実名が盛明と翻刻されていますが、子が主水を名乗っていたとしても盛勝ですのでこれはやはり盛聡を指すものと思われます。

同時期のものとして収録されている他の家久宛書状の発給者と比べても、大名クラスからのものも多い中で逆に目に付く存在です。 内容からそれまでも島津氏との間に関係があったようですし、島津氏の家老川上左近将監久国ともやり取りがあったことがわかります。 当該書状でも「公方様(=家光)」のことが話題に上がっていることから島津氏を将軍に取り次ぐような立場にでもあったのではないでしょうか。

寛永14年の書状は5月9日付ですが、文中には、幕府から薩摩へ派遣されていた医師久志本式部[11]の名や、「御養生之段」といった言葉が見え、同時期の島津氏関連の他の書状からも家久の健康状態が問題となっていたと思われますが、この翌年島津家久は亡くなります。 また、書状の冒頭で触れられている右馬頭は佐土原島津家の忠興でしょうか。 この人物もこの書状が出されて間もなく亡くなっているようです。 そして、盛聡もまたこの年の8月に亡くなります。

高山氏のその後

先に述べた通り寛永14年に亡くなった盛聡は小石川の無量院に葬られ、ここを高山家代々の菩提寺としたと記されています。

また、毛利家との交流もあったようで、盛聡の跡を継いだ盛勝の書状が残されているようです[12]。 毛利秀就の側近で最後はその死に殉じた梨羽頼母(就云)宛のもので、「竹田法印」に関連する内容であるようです。 これは、杉原氏と関係のあると伝わる武田法印を指しているのではないかとも考えられます。

高山家は、盛聡の跡を継いだ盛勝の代に所領の一部を上野国新田郡に移されます[13]が、盛聡次男の利永に始まる分家(450石)を建てつつ、本家は知行1000石の幕臣、寄合旗本として維新を迎えたようです。 『寛政譜』を見る限り、「盛」あるいは「利」を名乗りに代々用いている様子が伺えます。

まとめ

毛利氏家臣団の系統で、防長の毛利氏を除いて大名、旗本となった者は他にほとんどいないように思いますので、高山氏の存在は希有なものであったのではないでしょうか。 他にも毛利氏を離れた小早川隆景の旧臣が少なくないことを考えれば、旗本となった高山主水は家康とのなんらかの関係を持っていたと考えられそうです。

家康への臣従の経緯や関が原参戦の有無については、家譜が伝える通りであるかについては検討の余地はあるのかもしれませんが、西国へ徳川氏の力が浸透する以前の時期に家康から千石を与えられるだけの存在と認められた事だけは間違いないかと思います。

注釈

  1. 「小早川隆景公御家中名有侍付立」(「豊浦藩旧記 第27冊」)(『下関市史』「資料編1」、1993年)。同じく「資料編4」(1996年)にも「内藤家文書」の一部として微妙に内容の異なるものが収録されています。
  2. 北村健一「小早川氏の子孫」(家系研究協議会『家系研究』26号、1993年)
  3. 『寛政重修諸家譜』巻第547 平氏良文流 高山氏(『新訂寛政重修諸家譜』第9巻、、1965年)
  4. 「乃美文書」102 文禄5年5月24日 豊臣景尚宛 後陽成天皇口宣案、103 文禄5年5月24日 豊臣景尚宛 後陽成天皇口宣案(『新熊本市史』史料編 第2巻 古代・中世、1993年)
  5. 山田恒嘉編 山田恒通跋『長陽従臣略系』(東京大学史料編纂所公開用データベース
  6. 『朝野旧聞裒藁』 第10巻 p.756(汲古書院、1983年)では本陣の御鉄砲頭の一人としていますが、寛永譜の記述に依っているようです。
  7. 「高山主水正盛聡拝領、同主水利喜書上、東照宮御黒印」慶長17年10月2日 徳川家康知行宛行状(『記録御用所本古文書 近世旗本家伝文書集』0731、2000年)
  8. 先の文書集に収録された同日の知行宛行状で近江、山城以外に所領を宛がわれているのは、高山盛聡、進藤正次以外では井伊谷三人衆の近藤季用が遠江で宛がわれているのみです。
  9. 進藤正次は関が原直後に宇喜多秀家を薩摩へと逃がし、自身は秀家が切腹したと家康に申し出、後に旗本として召し出されたと伝わる人物のようです。
  10. (寛永13年)11月10日 島津家久宛 高山盛聡書状(『鹿児島県史料 旧記雑録後編5』、1984年)、(寛永14年)5月9日 松平大隅守宛 高山盛明書状(同)
  11. 『寛政譜』「巻1178 久志本氏」(『新訂寛政重修諸家譜』第18巻、1965年)の久志本常尹の項に寛永13年秋に薩摩に赴き島津家久の治療にあたったとする記事が見えます。
  12. (慶安2年カ)5月15日 「高山弥左衛門盛勝書状(江戸竹田法印宅訪問の事)」(山口県文書館所蔵)、同館史料検索より。
  13. 『井原市史 Ⅰ』「近世編 第1章 幕藩体勢の確立 第2節 井原市域の領主の変遷」(2005年)。これは盛勝の希望であったようです。その他、幕府領と合い給状態にあった木之子村について初期の段階では高山氏に有利な分割がなされていたとあります。

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