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益田景祥 -益田氏と宍戸景好親子- [人物]

乃美景嘉に続いてもう一人、諸大夫成が伝わる小早川隆景家臣[1]として益田景祥を紹介してみます。 この益田景祥は石見の有力国人であった益田元祥の次男です。

益田修理亮景祥

益田氏は石見の国人で、景祥の祖父藤兼の頃に毛利氏に従いました。 景祥は藤兼の跡を継いだ元祥とその妻である吉川元春娘の間に生まれています。

七内を名乗り、次男であったためか、一時期は宗像氏貞の養子となったとも伝わります。 妻としては、児玉元良の娘で毛利秀就の実母二の丸殿を姉にもつ女性を迎えました。 すなわち、景祥は秀就の義理の叔父に当たることとなります。

父元祥は関が原後には旧領を安堵するとした家康の誘いを断り萩藩に残り、その後は、輝元の下でその財政立て直しに尽力した人物としても著名です。 結果、益田本家は福原家とともに一門六家に次ぐ永代家老の家格を与えられています。 その次子である景祥もまた別家を建て、寄組藩士として続きました。

景祥は寛永7(1630)年7月13日、山口で没し、享年54歳あるいは56歳と伝わります。 同母兄で嫡男であった広兼が文禄4(1595)年に20歳で亡くなったとされることから、景祥自身は54歳で没し、その生年は天正5(1577)年と考えるのが妥当でしょうか。

亡くなった当時を含め寛永2年の給地替え以降、益田氏の給地は山口近隣の問田村にあり、当時の屋敷跡地は今も残っています[2]。

秀吉との関わり

文禄元(1592)年に隆景に召し出され、朝鮮へと渡ったと系図は伝えますが、『安西軍策』[3]では若干15歳にして朝鮮で勇敢に戦う景祥の姿も描かれています。

同氏の『閥閲録』[4]の書出では景祥について小早川家臣時代、隆景が中納言に任ぜられた際に自身も諸大夫成したものの、それを示す綸旨は焼失して残っていないとしていますが、その他、景祥に関する文書類もほとんど収録されておらず、書出の通り焼失していたか別の事情で散逸していたのでしょう。

また、隆景の隠居時に三原に残る心積もりのところ、秀吉から名島周辺の1万石で秀秋に仕えるように命じられたため、苦慮の末、輝元の直臣となり周防右田で2500石を与えられたとしています。 その際に児玉元良の娘(秀就生母二の丸殿の妹)と結婚したと伝えます[5]が、この秀秋に仕えるように命じられてから、秀就叔母と結婚するまでの話については「牛庵一代御奉公之覚書」[6]の内容に沿っています。

江戸時代に入っても景祥はそのまま修理亮を名乗っていますが、晩年には子の就固に修理亮を譲り自身は河内守と改めたようです。

宗像氏と益田氏

先に述べたように幼いころの景祥は宗像氏に養子に入ったと伝わります[7]。 宗像氏は筑前国宗像社の大宮司職を務める家柄であり、同時に同地の有力国人勢力でもありました。 戦国期の宗像氏貞は時に毛利氏と連携しながら、大友氏との間に挟まれた北部九州の戦国期を生き抜いていますが、その氏貞も秀吉の九州攻めの直前天正14(1586)年に亡くなっています。

この後、九州に出陣した折、小倉城の落城後に益田元祥が宗像氏の家臣団に感状を発給しており、また、益田氏は天正6(1578)年の宗像社の造営においても多くの資材を提供するなど元々深い関係にあったということです[8]。

氏貞死後、小早川領国期の動向については桑田和明氏による検証[9]では、同時期に名前の見える宗像才鶴は氏貞後家であると考えられ、七内は氏貞の養子であったものがなんらかの事情で解消していたものとされています。 ただ、小倉藩士として名前の見える宗像景延が確認でき[10]、隆景時代の筑前に縁の人物である可能性が考えられ、才鶴との関わりも考えるべき所かも知れません。

結局はその後、宗像氏は氏貞の娘を娶った草刈重継が継いでいます[11]。 草刈氏は秀秋が継いだ後も小早川氏に残っていますが[12]、関が原の後、毛利氏の下に戻りました。 氏貞の後家が草刈氏を頼ったことで草刈氏に伝わった宗像氏に伝わる文書類は、後年、重継の子孫によって宗像社に奉納され、現在も「宗像神社文書」として伝来しています[13]。

景好親子と益田氏

宍戸景好と益田景祥は共に隆景の家臣であったと思われますが、具体的に関わりが確認できるのは、共に毛利氏の下に復帰した後、萩築城に際して発生した五郎太石事件における仲裁の場面です。

この事件の当初、宍道政慶とともに宍戸善左衛門が仲裁にあたっていますが、残念ながらその労は実りませんでした。 ただし、宍道政慶は系図によっては元祥の妹婿とするものがあったり、また自身の所領の一部を買い取ってもらっているなど親しい間柄で、彼らは決して中立の立場での仲裁というわけではないと思われます。

宍道、宍戸の両人は仲裁の顛末を目安状[ 史料16 ]として提出していますが、その中では、仲裁に当たって当事者である景祥を善左衛門が訪ねて話を聞いたとする場面が出てきます。

善左衛門尉元真の婚姻

景好の長子、元真についてはその妻が益田元祥の娘であったと伝わっています系図g。 当時の一門宍戸氏の庶家と家老益田氏の間の婚姻ということになります。

系図によれば娘種子が元真の妻となりますが寛永3(1626)年(あるいは寛永12年)に23歳で没すると記されています。 法名芳樹院松雪妙栄と伝わりますが、雪のような白い肌の美しい女性だったのでしょうか。 系図は実母を吉川元春娘としますが、同母兄とされる広兼や景祥の生年との25歳ほどの年齢差を考えれば、その信憑性は若干割り引くべきかもしれません。 元真の子である知真が益田種子の子かどうかは不明です。

また、一部の系図は元真だけではなく元祥の娘の一人は景好に嫁いだともしています[14]が、こちらは他の史料では確認できません。

元和6年9月に宍戸親子に対して、3年間の地下役免除などが認められています[ 史料29 ]が、それを伝える書状の宛所に益田元祥も含まれることから、益田氏との間に姻戚関係(この場合は益田元祥が後見人的な立場でしょうか)にあったことは確かと言えそうです。 そして、この時期の宍戸親子の給地は小鯖村だったと思われます。 関係の有無は不明ですが、元祥はこの翌月に益田氏の家督を広兼の子で嫡孫の元兼に譲っています。

元祥の娘の死後、元真は毛利一門である毛利元倶の娘と再婚したようです。 系図には善左衛門元真の妻、故あって不縁と記されていますが、これは寛永14(1637)年頃と見られる宍戸元真が萩藩を離れたことによって切れた縁かも知れません。

益田景祥、宍戸景好関係略系図

      毛利元倶
        |―女子
宍戸元秀―元続―女子|
    ―景好―――元真―知真
          |
  益田藤兼―元祥 |
       |――種子
       |――広兼―元兼(永代家老益田氏)
       |――景祥―女子(阿曽沼就春妻)
  吉川元春―女子 |―就固(寄組益田氏)
         ―女子
     児玉元良―女子
          |―秀就
        毛利輝元

また、景祥は後妻に臼杵氏の娘を迎えますが、その女性との間に生まれた娘は、後に宍戸元真兄弟とも因縁のある阿曽沼就春に嫁いだようです。 元祥と輝元の深い関係や、秀就の外戚児玉氏とつながる景祥の立場を考えれば、秀就の寵臣であったと思われる就春との関係もうなづける部分があります。

まとめ

益田景祥と宍戸景好、共に毛利氏の重臣の家に生まれるものの、実家の後継者ではなかったためか、偏諱を受け別家を建てて小早川隆景に仕えたと考えられます。 その後、隆景の死と秀秋の小早川家相続により毛利本家に仕えて組を率いる立場に、と似た境遇にあったようにも思われます。

江戸時代に入ってからは両者の実家は永代家老と一門筆頭という立場で続きます。 秀就実母の妹婿となった景祥の家系は寄組益田家として続きましたが、景好の家系は毛利氏との関係をほとんど失ってしまったようです。

注釈

  1. 「小早川隆景公御家中名有侍付立」(「豊浦藩旧記 第27冊」)(『下関市史』「資料編1」、1993年)。同じく「資料編4」(1996年)にも「内藤家文書」の一部として微妙に内容の異なるものが収録されています。
  2. 現在の山口市大内御堀、問田川の左岸に位置します。屋敷地の跡が残るのみで側に説明文が書かれた看板が立っています。
  3. 『安西軍策』「巻第七、日本勢張番付江陽合戦事」(校訂近藤瓶城、マツノ書店復刻、2000年)
  4. 『閥閲録』「巻9 益田織部」(『萩藩閥閲録』第1巻、1995年)
  5. (4)の内容から。
  6. 『閥閲録』「巻7ノ2 益田越中」48 益田牛庵自筆覚書(『萩藩閥閲録』第1巻)、閥閲録の通り牛庵(元祥)の自筆のものであれば、比較的早くに成立した記録であることは間違いないこととなります。
  7. 「訂正宗像大宮司系譜」(伊東尾四郎編纂『宗像郡誌』中、1986年)が益田七内について宗像氏関連の資料では頻繁に引用されますが、明治42年近藤清石編纂とされる同書は元祥次男の七内と書きつつその名を景祥ではなく広兼子で益田氏を継いだ元堯としています。
  8. 『宗像市史』「近世 第1章 豊臣政権と宗像」(『宗像市史』通史編第2巻古代・中世・近世、1999年)には、氏貞の後継者と認められていると思しき宗像才鶴の名が見えるようですがその正体は不明とのことです。
  9. 桑田和明「小早川氏領国下における筑前国宗像氏について」(『七隈史学』12号、2010年)
  10. 「於豊前小倉御侍帳」宗像清兵衛景延(新・肥後細川藩侍帳【む】の部)。景延は寛永13年に切腹を命ぜられており、その子3人は景定、景好は細川忠利に、景宣は細川光尚に殉死しているようです。
  11. 『閥閲録』「巻34 草刈太郎左衛門」(『萩藩閥閲録』第1巻)には草刈重継の妻が宗像氏貞の娘でその子、就継が宗像氏を継いだとしています。
  12. 『閥閲録』「巻34 草刈太郎左衛門」36 文禄4年12月1日 草刈太郎左衛門宛 小早川秀俊宛行状(『萩藩閥閲録』第1巻)では、秀秋時代も引き続き筑前で2000石を宛がわれていることがわかります。
  13. 「八巻文書」解題(『宗像大社文書』第1巻、1992年)
  14. 「藤原氏 24」(『系図纂要』第5冊上、1992年)

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