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鵜飼氏の後先 [人物]

  • 2011/12/19 第2版 児玉景唯の生年の計算誤りを修正

小早川隆景の諸大夫として名前の伝わる8名[1]のうち、残る3人の中から鵜飼隼人、そしてその関係者と思われる鵜飼元辰を取り上げてみます。

鵜飼元辰

鵜飼新右衛門元辰は元は毛利氏家臣で後に小早川氏の家臣となり、隆景の側近の一人として活動したことが知られています。 元は近江の猿楽師であったとも言われる謎の多い人物ですが、後に輝元に誅殺される運命を辿ります。 一方、その娘の一人が嫁いだ児玉景唯は毛利秀就の伯父となり、後に江戸で幕府への対応にあたった重臣のひとりとなったのは面白いところです。

「侍付立」では鵜飼氏の名は侍大将に鵜飼新右衛門、侍大将並の中には同じ鵜飼隼人の名前が見つけられますがその他に鵜飼氏の名は見当たりません。

小早川氏の「座配書立」[2]では天正12(1584)年からその名を確認することができ、その席次はやはり隆景の側近として知られる井上氏や粟屋氏らとほぼ同じくしています。 隆景が筑前の大名となって以降、奉行人として活躍したようでその名が多く見られるようになります。 隆景の死の前後には出家したものか、隆景の旧臣ら7名での起請文[3]では紹達を名乗っています。

鵜飼隼人

さて、諸大夫成したと伝わる鵜飼隼人については、やはり元辰に近い人物である可能性が高いということが考えられそうです。

元辰の子としては元益の名が三原市末広の軍神社棟札に見えるようです[4]が、他に元益についての史料は見当たりません。 隼人が元辰の近親者である場合は元辰同様に謀殺されたか、毛利氏を離れることになった可能性も強く考えられそうです。

一方、「譜録」鵜飼新左衛門辰長[5]は元辰の系譜を伝えています。 元来は近江水口に住する岩内氏であったとしており、岩内長明を元辰の父としています。 元辰の死後は、その子、就一が元辰の兄で伯父に当たる毛利家臣岩内長辰の養子となり、後に鵜飼に復したとするものとなっています。

同系譜によれば、元辰の子として就一の異母兄にあたる隼人景一の名前が見え、諸大夫に任ぜられたとしています。 景一を実在の人物と考えた場合、その生年については児玉景唯の妻の存在が一つの参考となりそうです。 景唯妻を譜録では景一の同母姉として伝えており、その母を隆景によって粛正された田坂全慶の娘としています。 全慶の死が天文19(1550)年前後と思われ、また、児玉景唯が寛永2(1625)年に60歳で亡くなっている(即ち生まれが永禄9(1566)年)こと[6]と合わせ、景一についても永禄年間後半から天正初期の生まれの可能性を推測できそうです。

この場合、軍神社棟札は天正15年のものであるため、そこに現れる元益を景一と同一人物とも取れそうではありますが、余程の事情がなければ輝元のものと思われる偏諱から、隆景の偏諱により改名するようなことが有り得るのでしょうか。

鵜飼元辰の誅殺

元辰は隆景の死後も輝元周辺との折衝にあたっている様子が伺えます。 しかし、その結末は輝元による誅殺となった訳ですが、裳懸主水の紹介で取り上げた通り、「長陽重臣略系」[7]では「鵜飼新右衛門」の項目を立て、その死を家康に近づいたことで輝元に誅殺されたとしています。 また、同書は元辰の娘が児玉景唯の他、高山主水、すなわち裳懸弥左衛門に嫁いだとしています。 これが事実であれば裳懸主水と鵜飼隼人は義兄弟の間柄ということになりますが、これについては高山、鵜飼両氏いずれの系譜からも確認できません。

先の譜録では、元辰は慶長年中のある年の6月22日、三原で切腹となり、景一も直後の27日、三田尻において同じく切腹した旨が記されています。 この元辰親子の死に関する部分がどこまで真実を伝えているかは不明ですが、元辰が輝元により死に追い込まれたことは確からしいことから同様にその子も死ぬこととなった可能性は高いと言えそうです。 ただ、輝元が鵜飼元辰誅殺後に秀元に宛てたとされる書状[8]は10月に送られていることから譜録のいう6月に切腹というものがどこまで事実を伝えているのかは不明です。

徳岩正硯

さらに譜録では景一の異母弟の一人徳岩について、隆景寺、後に周防国妙寿寺の住持となった旨も記されています。

これについては『防長寺社由来』の黄梅山隆景寺の記述[9]から同寺の二世が「前禅興徳岩正硯和尚」と記されており、確かに徳岩を名乗った住持の存在を確認でき、また、妙寿寺の住持についても「六世前祥興徳岩正硯和尚」としてその名前が確認できます[10]。

徳岩正硯和尚は寛文13(1673)年8月15日没となっていることから、天正末期から慶長初期の生まれと考えれば、年代的にも元辰の末子であって不思議ではありません。 隆景寺の書出には西堂となった徳岩正硯へ景徳寺と禅興寺の住持へ任じる将軍家綱の公帖[11]も含まれていることから、防長に縁のある高僧の一人であったことは間違いないようです。

ただ、隆景寺開山が隆景家臣小泉左京の三男であるとは記されていますが、二世徳岩正硯が鵜飼氏の出自であることを裏付ける記述はここでは見つけられません。

まとめ

鵜飼氏は隆景の側近となり、輝元に誅殺されることとなる元辰ほぼ一代の存在が知られるのみですが、どこまでが真実かは別としても元辰の系譜を伝える鵜飼氏が江戸期以降も存続していました。

その中に鵜飼隼人景一の名前も見られますが、この人物の存在がどこまで裏付けられるかはいまだ謎のように思われます。

注釈

  1. 「小早川隆景公御家中名有侍付立」(「豊浦藩旧記 第27冊」)(『下関市史』「資料編1」、1993年)。同じく「資料編4」(1996年)にも「内藤家文書」の一部として微妙に内容の異なるものが収録されています。
  2. 「小早川家文書」475「小早川家座配書立」(『大日本古文書 家わけ 小早川家文書』)
  3. 「毛利家文書」1191 慶長2年12月6日 毛利元康宛 井上紹忍春忠外六名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家』)
  4. 『日本歴史地名大系 広島県の地名』三原市の「軍神社」(平凡社、1982年)によると天正15年4月に小早川隆景を大願主、大壇那伊賀住人藤原朝臣鵜飼新右衛門元辰、子息彦次郎元益が建立された旨の棟札が残るようです。
  5. 『譜録』「鵜飼新左衛門辰長」(山口県文書館所蔵)
  6. 「児玉氏」(岡部忠夫編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1999年)。『閥閲録』でも児玉景唯は蔚山攻防戦を鵜飼元辰の下で戦ったと伝えています。
  7. 山田恒嘉編 山田恒通跋『長陽従臣略系』(東京大学史料編纂所公開用データベース
  8. 「長府毛利家文書」慶長4年10月15日 毛利秀元宛 毛利輝元書状(『広島県史 古代中世資料編 5』、1980年)。この史料は後発で同じく「長府毛利家文書」を収録する『下関市史』「資料編4」には含まれないようです。収録されない何らかの事情があるのでしょうか。
  9. 『防長寺社由来』「当島宰判 河島庄 黄梅山隆景寺」(『防長寺社由来』第6巻、1985年)
  10. 『防長寺社証文』「妙寿寺」(『萩藩閥閲録』第4巻、1995年)
  11. 『防長寺社由来』「当島宰判 河島庄 黄梅山隆景寺」西堂成厳有院様(徳川家綱)公帖

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