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井原村の宍戸玄翁とその娘 [人物]

戦国時代、安芸宍戸氏に生まれた宍戸元秀は当主隆家の長子であり、毛利元就の外孫でもありながら、病弱であったとも、事情があり軟禁されていたとも現代には伝わり、ほとんど事績を残すことなく亡くなっていきました。

元秀については以前も一度 まとめました が、出家後名乗ったと思われる玄翁(玄能)の名前からその晩年と死後、そしてその娘についてを再度見てみます。

宍戸玄翁

安養院殿祖雲玄翁、これが慶長2(1597)年6月11日に亡くなった宍戸元秀の法名です[ 系図A ]。 同系図には安芸国井原村で亡くなり、その際に51歳であったと記されます。

先にも述べたとおり、事情については不明ながら廃嫡されたと伝わり、事実、実父隆家の死後も家督を継ぐことなく亡くなったのは確かなようです。 天正末年頃の毛利家の分限帳においても、「隠居領」として870石が記されています[1]。

一方、現在のところ一次史料上においては、いくつかの寺社との関わりが確認されるのみの存在ではないかと思われます[2]。

安芸高田郡井原村ではその地名から高氏の一族が井原氏を名乗り、室町期以降勢力を伸ばしました。 同分限帳では既に井原氏は高田郡内の所領をほとんど失っており、井原村は毛利氏の直轄地であったようです[3]。 またこれは広島築城以後のものと考えられるため、この時点での元秀の居所も井原村である可能性は高いと思うのですが、玄翁名での厳島神社への寄進打渡状[4]から、遅くとも文禄年間には井原村へ居住していたものと考えられます。

玄翁の眠る寺

系図には元秀がどこで弔われたのかについては何も示されていません。 いくつかの材料からこれを検証してみます。

安養院

まず、元秀の法名の院殿号である安養院の名前は、毛利氏に関連して2つ、その存在を確認できます。

一つは、高野山の宿坊安養院であり、ここが毛利氏と関係を持っていますが、宍戸氏がどのように関わりを持っていたのかは未確認です。

もう一つが現在も広島に残る寺院、安養院です。 福島正則によって城下内で現在の比治山下へと移転したと思われ、明治に入って隣接する多聞院と合併し、名前が残る形となったようです。

広島藩により編纂された江戸時代の地誌『芸藩通志』には安養院について下記のように見えます[5]。

多聞院の上にあり、如意山歓喜寺と号す。
開基詳かならず、寛文中の存慶を初代とす、
境内金比羅社あり、寺門の内、偃松老樹あり

かつての安養院には頼山陽の父頼春水や叔父頼杏坪などの墓があり、これは今も残りますが、宍戸元秀の存在は見えません。 なお、この頼杏坪が『芸藩通志』編纂者の一人でもあります。

元は毛利氏縁で吉田郡山あった安養院[6]が広島築城後に広島城下へ移転したものとも思われるため、元秀との関係を強く考えられる訳ではありません。

高源寺

一方、玄翁が亡くなったと伝わる井原において、その記録がないものか確認すると意外にもその墓についての伝承まで確認することができました。

先と同じく『芸藩通志』では以下の記述をみつけることができます。

  • 宍戸玄能宅址 井原村土居にあり[7]
  • 宍戸玄能墓 同村(井原村)、高源寺址にあり[8]
  • 高源寺 井原村にあり、銀明山と号す、初禅宗なりしを、永禄6年、僧日玄、改宗す[9]

同誌には村の絵図も掲載されており、こちらでは高源寺とは離れた場所、鍋谷城の麓、ススミドウ(涼み堂)から若干北の位置に描かれています。 玄翁の墓と高源寺の間には、神の倉山を越える山道も描かれていることから、本文の説明とは合わないということとなります。 高源寺が元秀のころから別の地へ移転したとも考えられますが、むしろ絵図の墓塔は井原氏の墓と誤っている可能性があるのではないでしょうか。

また、「国郡志御用ニ付下調書出帳」の井原村の項[10]で塚の説明に下記のものがあります。

高源寺門下

墓壱ヶ所

右塚之儀者昔鍋谷之城下タニ土居と申す所御座候此所は宍戸玄能と申人之住所と申伝に御座候此人死去之節高源寺下タニテ火葬仕其儘此処へ墓を築候と申伝に御座候

玄翁の墓と関わりが示される銀明山高源寺は現在も井原の集落に残っており、現在のこの寺の本堂の裏手あたりに、宍戸玄翁のもの、と伝わる墓石が残ります。 また、高源寺門前の一角が火葬の地であるとのことでした。

この地にはかつての井原氏の居館跡とされる場所がありますが、玄翁が住んだ土居とは井原氏退去後のその居館をさすものでしょうか。

井原村近隣の長田村には、降伏後の尼子氏当主義久以下の兄弟が軟禁されていました[11]。 高田郡内三篠川沿いの地域は毛利氏の本拠吉田郡山に程近く、規模の大きい国人勢力もない場所といえます。 元秀軟禁説の正否は別として、その環境として適した場所とは言えるでしょう。

なお、三篠川地域の戦国期の資料としては「広島の文化財講座」の一環として行われたバスツアーイベントの際の資料 『安芸の戦国再発見』 によくまとまっています[12]。

元秀の娘、長寿院

最後に西尾和美氏の研究による、宍戸元秀娘、長寿院についての事績を簡単に取り上げてみます[13][14]。

この女性は宍戸元秀の末子として生まれていますが、一般には長寿院というよりは小早川秀秋夫人と紹介した方が知名度はあるかと思います。 毛利輝元の養女として小早川秀秋に嫁ぎ、その後、興正寺門主へ再嫁したといったあたりは比較的知られているかとは思いますが、西尾先生の研究では秀秋との離縁の時期や事情についてが明らかにされています。

個人的には『興正寺年表』にまとめられていた「言経卿記」の記載[15]から、興正寺への再嫁は秀秋生前であり、 死別ではなかったものとは考えていました が、それはあくまで慶長5年の関が原合戦の結果によるものと思い込んでいました。

実際には秀秋が別の女性との間に子を成すなど、いくつかの条件が重なり、慶長4年には家康から江戸への下向を進められる事態となり、これを契機にしてか離縁となったとの事です。 こうした状況について残存史料から丁寧に読み解かれていますが、その経緯や関連史料について、ここでは一つを除きこれ以上深くは取り上げません。

ここで取り上げる史料は毛利輝元からこの女性へと送られた書状です[16]。 この書状では輝元が興正寺へと再嫁するにあたっての諸々を彼女へ伝え聞かせるものとなっています。 その中に現れる「さへもんのせう(左衛門尉)」が実家宍戸氏を指しているものの再嫁は元秀没後のことであり、同名乗りは元秀子の 元可 であることが西尾氏から指摘されています。

この史料からも元秀の隠居領、左衛門尉の名乗りなどを宍戸宗家の元続とは別に、元可が引き継いだ証左ではないかと考えたいところです。

もうひとつ、注目すべきものとしては、先の玄翁から厳島神社への寄進に関する打渡状を見てみます。 掲載する『広島県史』や、先の『安芸の戦国再発見』ではこれを元秀による妹南の方(輝元室)祈念のものとしていますが、実際はどうなのでしょうか。

壬午御歳為御祈念

於芸州高田郡井原村之内、従南様為厳島御寄進、内侍衆江渡申拾石分打渡坪付之事(以下略)

内容から「壬午生れの者の祈念のため輝元室から厳島への寄進のうち、侍衆への拾石の打渡」であることがわかります。 壬午が該当するのは天正10(1582)年であり、輝元室の南の方の生年とは思われません。 文禄4年の日付からも、この年に小早川秀秋に嫁した玄翁自身の末娘の祈念のものと見た方がよいようにも思われます。 秀秋の年齢から見ても、長寿院の生年が天正10年であることに違和感は有りません。

少なくとも名目上は南の方からの寄進であり、玄翁は井原村の代官として打渡を行ったのみとも取れます。 先の分限帳でも元秀の隠居領は周防国玖珂、吉敷、熊毛の3郡に与えられており、安芸国高田郡内の所領は確認できません。

まとめ

井原村で亡くなった謎の武将宍戸元秀の最期を追ってみました。 その結果、その最期の地、井原村地域では「玄能さん」として今でも知られた存在であることが確認できました。 その晩年は、輝元養女となり、毛利氏の外交を担った末娘のことを元秀が案じていた晩年ではなかったのか、ということを考えつつ、結びとします。

注釈

  1. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)
  2. 「恒石八幡宮文書」宍戸元秀書状(『山口県史 史料編中世3』)
  3. 『白木町史』「第2章 古代・中世 第3節 中世の白木町」(1980年)
  4. 「厳島野坂文書」1172 文禄4年12月17日 宍戸左衛門入道玄翁 安芸国高田郡井原村内寄進田地打渡坪付(『広島県史 古代中世資料編2』、1976年)
  5. 『芸藩通志』巻8 安養院
  6. 山口県文書館所蔵「村山檀那帳」天正9年村山檀那帳(『広島県史 古代中世資料編 5』、1980年)
  7. 『芸藩通志』巻68
  8. (7)に同じ
  9. 『芸藩通志』巻63
  10. 「国郡志御用ニ付下調書出帳」井原村(『高田郡史 資料編』、1981年)
  11. (3)に同じ。
  12. 財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課「平成22年度 秋山教授と行く 広島歴史探訪バスツアー 安芸の戦国再発見 -三篠川流域の武士たちと毛利氏-」 関連資料 『安芸の戦国再発見』(PDFファイル)
  13. 川岡勉、古賀信幸編 「日本中世の西国社会1」『西国の権力と戦乱』西尾和美「第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」(清文堂出版、2010年)
  14. 西尾和美「毛利輝元養女と興正寺門跡の婚姻をめぐる一考察」(2011年、『松山東雲女子大学人文科学部紀要』)
  15. 「言経卿記」慶長7(1602)年8月12日条(興正寺年表刊行会『興正寺年表』、1991年)
  16. 「教行寺文書」41 毛利輝元書状(『兵庫県史』史料編 中世1)

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