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宍戸善左衛門の痕跡(その2) [人物]

宍戸景好とその周辺の人物については、これまでも 確認できた史料 を取り上げてきましたが、さらにいくつかのものでの記載を取り上げてみます。 今回はともに善左衛門を名乗った景好、元真に関するものです。

景好

まず、親の善左衛門景好です。

『東京市史稿 皇城編』[1]には江戸城築城に関する諸藩の史料が掲載されています。 そのうちの毛利氏の関連史料の「江戸御普請組帳」[2]から、これに参加した毛利氏家臣の禄高が判明します。 この中に宍戸善右衛門とありますが、前後の関係からも善左衛門を指しているものと思われます。 その禄高は740石であるようです。 慶長10年の段階での740石という処遇は慶長4年頃と思われる分限帳で700石余である[3]ことから、移封時に大幅に所領を削減された多くの藩士と比較して厚遇されている部類とは言えそうです。

この組帳は慶長10年12月13日付けであり、同年に起きた熊谷元直、天野元信らの誅殺を受けてまとめられた藩主親子への起請文がこれと前後してまとめられています[4]。 益田父子と、熊谷、天野両氏との間の調停に宍戸善左衛門もあたっていたことは 以前取り上げています が、その誅殺後に組の構成も変わったであろうことも考えられ、普請帳での組の構成からはそのあたりの背景事情は見えません。

善左衛門は兄の(宍戸)元続の組に属しており、同じ組内に同じく兄の粟屋孝春の名前も見えています。 この他、同じ組の内藤久太郎は兄元盛の子、後の孫兵衛元珍でしょうか。 起請文でも内藤修理の名は見えず、内藤久太郎の名が見えることから元盛は既に隠居していたものでしょうか。

なお、景好については『広島県史 資料編』に掲載の伊勢御師村山氏の「檀那帳」[5]では「郡山之分」に現れる宍戸但馬守を景好と比定していますが、年代的にも毛利氏の譜代家臣化していた宍戸但馬守元親であろうと思われます[6]。

元真

一方、子の宍戸善左衛門元真ですが、こちらは意外なところからその名前が出てきました。

『吉田家伝録』[7]は福岡藩の重臣吉田家が編纂した記録ですが、吉田治年、栄年親子の手により、その先祖を溯り、詳細な調査がなされ、また関連する縁戚についても詳しく説明なされています。

治年の曾祖父吉田重成が後妻として小早川秀包の娘を迎えていることから、毛利氏関連の記述もあり、その中に右田毛利氏の系譜も示されています[8]。

取り上げられている元倶の子としては、山内元資妻となった娘と、養女2名が記されない他は、右田毛利氏の系図ともよく一致します。 その情報源として、右田毛利氏から吉敷毛利氏へと入った就直の跡をついだ広包が挙げられていることから当時防長で実際に把握されていた最新の情報が記されているものと思われます。

右田毛利氏の系図では毛利元倶の娘の一人が宍戸善左衛門の妻であったと伝わり以下のように見えています[ 系図H ]。

宍戸善左衛門元真室 故アリ不縁

一方、この娘については『吉田家伝録』上では

宍戸善左衛門速廉ノ室

とあります。 他の人物が諱まで正確に記されていることを考えれば、元真が後年(彦根隠棲後でしょうか)速廉を名乗り、その事実を右田毛利氏で把握していたということになるのでしょうか。

注釈

  1. 『東京市史稿 皇城編第1』(1911年)
  2. 「毛利四代実録」掲載 慶長10年12月13日 江戸御普請組帳(『東京市史稿 皇城編第1』)
  3. 「輝元公御時代分限帳」豊浦藩旧記 第25冊(『下関市史』資料編Ⅰ、1993年)
  4. 慶長10年12月14日 福原廣俊外八百十九名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1284)
  5. 山口県文書館所蔵「村山檀那帳」天正9年村山檀那帳(『広島県史 古代中世資料編 5』、1980年)
  6. 『閥閲録』「巻125 宍戸藤兵衛」(『萩藩閥閲録』第3巻、マツノ書店、1995年)
  7. 『吉田家伝録』「巻之八 吉田重成後妻系譜之章」(『吉田家伝録』上巻、1981年)
  8. 秀包の家系吉敷毛利家を右田毛利家出身の就直が継いだことによるものであるようです。

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