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了超と休圓(3)-端坊明善と毛利氏- [人物]

西尾和美氏は、関が原後に宍戸景好が毛利氏を離れ、後に帰国したことを、宍戸景好が萩藩領内に下国したときのものとして示された佐世石見守書状[ 史料14 ]などを上げて主張されています[1]。 しかし、この書状の周辺、そして景好寺の由緒について見て行くうちに意外な発見がありました。

その背景には萩藩における真宗と藩上層の関係が作用しています。 毛利氏が興正寺と深い関係をもつようになった関係から、その領内の真宗寺院はすべて西本願寺に属することとなり、また清光寺を介して興正寺が全真宗寺院に影響力を及ぼすなど、萩藩領内は若干特殊な状態にあったと言えるのかもしれません。

真宗興正寺派と萩藩

戦国末期から江戸時代にかけての毛利氏と真宗の繋がりについては、児玉識氏の研究に多くのことが示されていますが、そこから毛利氏と真宗との関係を見てみます。

元々毛利氏と真宗の関係は反織田陣営として石山本願寺支援を行う以前から、安芸門徒としても知られる活発な活動を見せる真宗勢力との関係は良好だったようです。 『京都御本坊御由緒書』は児玉氏が取り上げた戦国末期から江戸初期の毛利氏と真宗の関係についての記録ですが、その内容について全てを信ずることはできないが、ある程度裏付けの得られる内容も含まれると指摘がなされています[2]。

大原誠氏も『常在京中由緒書』に含まれる由緒書のひとつで端坊に関するものを「端坊由緒書」として紹介されています[3]が、その内容は児玉氏が紹介された「由緒書」とは相互に未収録の記述が有るそうです。

その後、毛利氏との間には宍戸元秀の娘が慶長7(1602)年に興正寺門主准尊に再嫁する[4]ことで、萩藩の上級階層との婚姻関係も発生します。 また、萩藩領内には清光寺の他、毛利氏と関係の深い真宗寺院としてやはり興正寺末にあたる山口、萩の2つの端坊(はしのぼう)が存在していました。

端坊と明念、明勝

興正寺とも関係の深い端坊は元々畿内に開かれています(この当時は興正寺と共に京都に移転)。 「端坊由緒書」によれば永禄年間に山口に、さらに慶長11年、萩にも端坊が開かれ計3箇所となったと記されています。

この端坊の10世で小早川隆景など毛利氏関係者とも深いつながりがあったのが明念です。 石山合戦で活躍し、隆景の依頼を受けて文禄の役では朝鮮へ従軍したと「端坊由緒書」は伝え、それは単に宗教上のものではなく、軍略を期待されてのものでもあったとされているようです。

その子、明勝は慶長5年9月29日に自害(あるいは処刑)と伝わります[5]。 直前の関が原の合戦で破れて逃亡していた安国寺恵瓊を匿ったためとも言われるようですが、少なくとも恵瓊と共に捕らえられ、明勝とその妻(下間頼廉の娘)が死ぬこととなったのは確かなようです。

また、大原誠氏は『時慶卿記』と慶長5年6月27日づけの佐世石見守宛の書状からこの時期に明勝が中国地方へ下ったことを示されています[6]。 明念は当時山口の端坊に居たようですが、関が原当時、留守居役を務めていることからも輝元側近の佐世石見守がいるのは広島城のはずです。

光成準治氏が言われるように輝元が石田、安国寺らと積極的な連携を取っていたのであれば[7]、時期と宛先を考慮してこの時期の輝元の動きにも何らかの関与があるのではないでしょうか。 『時慶卿記』の内容から6月29日に明勝は旅立ったようですが、船を利用するなど交通手段によっては、通説にあるより数日以上早く、恵瓊と親しい人物から何らかの情報が広島に伝えられた可能性もありそうです。

明善と景好寺

「端坊由緒書」では明勝の死後、その跡を弟の明善が継いだとしていますが、これに関して意外なことが記されていました。

「由緒書」によると明善は京都の端坊以外に山口、萩の端坊を拠点に清光寺の仏事にも関わっており、寛永年間に萩に明善寺を、そして明暦年間に小鯖村にその諱を取った景好寺を開いたというのです。

又明暦年中、周防国小鯖と申所ニ一寺建立致し、明善名乗を以て寺号と仕り、景好寺与名付、是者山口端坊末寺ニ附置申候事

また、児玉氏は江戸末期に萩藩寮内で出版された『蓮茎一糸』についても取り上げていますが[8]、その中では明勝の遺状が紹介されており、その宛先が「法嗣景好之元エ」となっています。 これも明勝の弟明善の名景好を指していると考えるべきではないでしょうか。

これらを合わせて考えると、西尾氏が宍戸景好の下国を伝えたものとした佐世石見守の端坊宛の書状も、その宛先から見ても「景好」は宍戸景好ではなく明善を指すと考えられそうです。 明勝についてもその諱が景治であり[9]、初代の明源が平氏の壊島景義であるとしていることや、明念の兄が景文を名乗った武者であったと書かれていることから代々の通字が「景」であると思われます。

「端坊由緒書」では萩藩の援助によって萩の端坊ができたことや、他にも明勝の年忌に萩藩から金銭の援助があったことが記されています。 明念と共に山口の端坊にあった明善が慶長10年に上洛したことも伝えていますので、明勝の跡をついだ景好(明善)が慶長11年までの間に山口に下るにあたっての端坊とのやり取りが、西尾氏が取り上げた佐世石見守書状であると言えるでしょう。

その書状で

如承先年之次第、宗瑞忘却被存間鋪候、内々蒙仰候筋目可申聞候

とする内容が指すのは恵瓊を庇ったことによる明勝の死への償いを意味するのではないかと思われます。 結果、明善の下国を契機としてか萩端坊建設といった具体的な興正寺あるいは端坊への支援がなされたと言えるのではないでしょうか。

この明善の兄、明勝は慶長5年に29歳であったとのことから、元亀3(1572)年の生まれとなります。 その弟の明善(景好)の生まれの上限もそこまでさかのぼりますが、「端坊由緒書」には慶長10年の上洛当時まだ幼かった様子が描かれていることからも、宍戸景好とは別人と言えそうです。

ひとつの仮説

景好寺の開基休圓の謎について、ひとつの仮説として景好寺の創建当初の経緯は「端坊由緒書」が伝える通りのものである可能性を考えてみます。

当初、景好寺は明善によって開かれた寺だったものが、宍戸景好縁の小鯖村に所在した(場合によっては山口近郊の別の場所にあった)こともあり、なんらかの事情で景好次子了超の縁者が寺を引き継いだとは考えられないでしょうか。 先に[[見た通り|keikouji]、景好寺について「寺社由来」でも山口端坊の末寺であり、2代了哲が再興した際に寺地が移転したと伝えますが、宍戸景好との関係は何も示されておらず[11]、あり得ない話でもないように思います。

少なくとも初代休圓の謎について、むしろ再興を伝える2代了哲が了超の子(あるいは他の近親者)に当たるとすればいくつかの疑問が解消します。 例えば休圓の所伝のうち、明照寺での修行や長寿院宛の書簡を与えられるといったものが実際には了超の事跡であり、それが了哲以降の世代にもたらされたと言えるのではないでしょうか。 さらに、景好寺が伝える景治の名は明善(景好)の兄明勝の名でもあることから、景昭、景治兄弟の名はここから伝わったのかもしれません。

了哲の時代までは宍戸景好と無関係であれば、江戸初期の時点の宍戸氏の系図類が景好寺について触れないこととも整合します。 休圓が明照寺の後に、京都の端坊、さらに山口の端坊に滞在した後に開山したと伝わる点は、休圓は明善の弟子といった関係にある端坊に近い人物で、景好寺を託されたことを示唆しているとも言えそうです。

ただし、この仮説にも、たまたま都合よく宍戸景好と縁の深い土地に別の景好(明善)が景好寺を建てるということが起こり得るのか、景好寺の所伝から端坊、明善に関するものが抜けたのはなぜなのか、具体的に休圓に比定できる人物が見えない、などと言った点は課題として残ってしまいます。

まとめ

宍戸景好の子が明照寺を継いだこととも決して無関係では無いと思われる、萩藩における真宗寺院の状況を紹介しました。

また、小早川隆景と関係の深い端坊明念の子、明善が実名を景好であると思われること、西尾氏が示されていた宍戸景好の下国を伝えるとされていた史料に現れる人物も明善である可能性を示しました。 明善と宍戸景好は別人と思われますが、端坊の所伝に明善が景好寺を開いたと伝わることを含め、今後さらに検討が必要ではないでしょうか。

注釈

  1. 西尾和美「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(『四国中世史研究』第10号
  2. 児玉識『近世真宗の展開過程』「第1章 西日本真宗の源流 第2節 興正寺派の発展」(吉川弘文館、1976年)
  3. 大原誠「端坊由緒書について」(『仏教史研究』40号、2004年)
  4. 長寿院の准尊への再嫁は慶長7年8月12日であると伝わっている(興正寺年表刊行会『興正寺年表』、1991年)ようですが、一方、秀秋の死は慶長7年10月と伝わります。これまであまり取り上げられていないように思いますが、これらの日付が正確であれば生前の離別ということになります。
  5. 部矢祥子「端坊明勝の辞世-関ヶ原の合戦にみる一僧侶の死-」(『国文学論集』50号、2005年)
  6. 大原誠「『時慶卿記』にみられる端坊-文禄の役前後-」(『真宗研究』47号、2003年)。明念の子明勝が『時慶卿記』を著した西洞院時慶の甥にあたり、そのために明勝に関わる記述が多く残っているようです
  7. 光成準治『関ヶ原前夜』(日本放送出版協会、2009年)
  8. 児玉識『近世真宗と地域社会』「第3章 秀吉の朝鮮出兵と真宗」(法蔵館、2005年)
  9. (6)に同じ
  10. 山口宰判 小鯖村 景好寺(山口県文書館『防長寺社由来』第3巻、1983年)

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