2人の宍戸但馬守 [人物]
但馬守を宍戸景好がいつ頃名乗ったのか、直接示す史料は残されていませんが、江戸時代初期の萩藩にはもう一人但馬守を名乗る宍戸氏の武将が存在していました。 このもう一人の但馬守である元重の家系に伝わる史料を確認しつつ、景好が但馬守を名乗った時期と西尾和美氏が関が原の戦いに際しての伊予侵攻で村上武吉らと連署書状を発給している景世を景好の子で後の元真であるとされている点[1]を考えてみたいと思います。
宍戸但馬守
『萩藩閥閲録』「125 宍戸藤兵衛」[2]によれば、但馬守元重の系譜は元親、元親、元重と3代続けて、左馬助、後に但馬守を名乗っています。 宍戸但馬守はこの系統の代々の名乗りと言えるでしょう。 その祖は梅千代女という安芸宍戸氏一族の女性で、毛利弘元の頃から仕えているようです。
またその記述によれば藤兵衛家は2人目の元親のほか、元重の娘と結婚し宍戸家をついだ元信、その死後を継いだ就信など毛利氏庶流の国司家から多くの養子を迎えています。 一方、もう一つの宍戸氏有力な庶家である四郎五郎家にも国司土佐守元信の子が養子に入って善兵衛元行(後に元富)を名乗っています。
但馬守元重
元重もまた実は渡辺長の子であり最初は秋と名乗ったとしています。 また、その妻が但馬守元親の娘であったようです。 元亀3年とされる宍戸隆家から渡辺長に宛てた書状[3]を見ると、この頃に長の子が当時の但馬守元親の下へ婿入りすることが決まったようです。
その後、元重が但馬守を名乗ったのが慶長8年であることは輝元の官途書出[4]から確認できます。 このため慶長10年の毛利氏家臣団の連署起請文[5]に現れる宍戸但馬守についても元重であると考えるべきかと思いますが、西尾氏はこの但馬守を元重とは断定できないとされています。
元重が没したのは慶長13年10月15日で45歳、亡くなった後は男子がなかったため国司雅楽允元昔の次子喜三郎に継がせ元信と名乗らせたことが記されています[6]。 これについて元重の後家に宛てたとみられる書状[7]も残されていますが、その中で元重の娘と国司元昔の子を「申し合わせる」ことについて宍戸家を「おやこしゆ(親御衆)ともおほく候」とあることから養子による関係も含め毛利氏の支流である国司氏に近い家筋と見られていたのでしょうか。
永禄4年に元就隆元父子が小早川氏の本拠沼田を訪れた際の随身者の中にも宍戸但馬守の名前が見え[8]、これは元親のことと思われますが、これも宍戸一族というよりは、毛利氏譜代に近い活動の一端と言えるかも知れません。
その後
元和2年には国司四郎三郎元信に、父雅楽允元昔の跡を継がせ、元昔次男宍戸喜三郎の領地を託したとあります[9]ので宍戸元信は跡を継いだ時点ではやはりまだ年少であったと考えられます。
さらに、寛永4年には宍戸左馬助元信へ豊田郡で100石が打渡されていることから[10]、元重の跡をついだ元信も慶長末から寛永初期にかけての期間には但馬守を名乗ってはいないことがほぼ確実です。
但馬守景好
このように代々但馬守を名乗る同姓の一族がいるにも関わらず、景好が但馬守を名乗った理由は不明ですが、さすがに元重の存命中に景好も但馬守を名乗り、同時に2人の宍戸但馬守が存在したとは考え難いのではないでしょうか。
系図史料以外では、元和5年の福島正則転封時のものとされる「毛利秀就陣立書」[ 史料28 ]で鉄砲組と弓組を率いる宍戸但馬守が見え、また元和6年に宍戸但馬守、善左衛門、益田元祥の3名に宛てられた輝元、秀就の連署書状[ 史料29 ]が景好と思われる宍戸但馬守の名前が見える貴重な例となります。
元和5年の但馬守は景好と解されています[11]が、先に述べたように、この時期に但馬守元重は亡くなっており、この但馬守を景好と考えるのは妥当でしょう。 また、元和6年の地下役免除などを伝える書状の内容からは但馬守、善左衛門親子と善左衛門元真の舅益田元祥に宛てられていると解釈するのが自然です。
善左衛門と但馬守
続いて景好はいつ但馬守へと改めたのかについて考えてみたいと思います。
関が原以降には宍戸掃部の姿は見えず、宍戸善左衛門の事績としては、慶長10年に萩築城に際して起こった問題で天野元信と益田親子の仲介に当たる姿が見えるのが最初となります[ 史料16 ]。
また、大坂の陣から遡ること数年、慶長17年初頭に江戸城工事の割り当てが藩内で為されていますが、そこに「宍 善左組」として10人ほどの負担をしている姿も見えます[ 史料19 ]。
さらに、大坂の陣の前後でも従軍を乞う三井吉左衛門元与を祖式三左衛門尉元信と共に説得にあたった際のもの[ 史料20 ]や佐野道可事件に関して宍戸善左衛門の書状が残されています[ 史料23 ]し、その中に善左衛門景好と署名しているものがあることが西尾氏によって紹介されています[12]。
その後は、元和3年10月7日づけで木原盛忠、福原元茂の両名から武具改に関連して宍戸善左衛門宛に起請文が出されています[ 史料26、27 ]。 彼らは善左衛門の率いる組にいた者たちとも思われますが、それを断定するだけの情報はなさそうです。
こうして見る限り、特に慶長10年の動きがポイントとなるのではないかと思います。 慶長5年の伊予侵攻時、景好の子で若年であった宍戸善左衛門景世が名目上の指揮官だったと解釈することは可能かと思いますが、それから5年程で家中の大きな問題となり得る事件の仲介に当たる立場に立てるものでしょうか。 西尾説では景好が宍戸掃部から宍戸但馬守へと改めたことになりますが、元和初年の善左衛門景好との署名と合わせてこれらに説明をつけることは難しいと思います。
慶長年間に現れる善左衛門を全て景好と考えれば、但馬守へと改めたのは大坂の陣後である元和年間、特に元和3年の末以降から5年頃にかけての間であり、また、元和6年までには子が善左衛門を名乗っていることから、景好が但馬守を名乗ると同時あるいはそう遠くない時期に名乗りは引き継がれたと考えることができます。
この時期には、佐野道可事件もあって大坂落城直後に宍戸元続は隠居しており、一門宍戸氏の縁者として景好の立場が相対的に向上したとも考えられそうです。 さらに佐野道可事件に関して景好と行動を共にしている様子が伺える相婿の内藤元忠についてもその立場が向上していることは注目できるかと思います[13]。 また、先の陣立では景好が率いるのは弓組、鉄砲組となっていることから、毛利軍内部での役割と宍戸但馬守の名乗りの間に何らかの関係が存在したのかもしれません。
景好の死
寛永2(1625)年、毛利輝元が没します。 その葬儀の記録[ 史料32 ]からそこに宍戸善左衛門の名前を見つけることはできますが、宍戸但馬守の名はありません。
輝元の死後、領内では大幅な知行替えがなされますが、それが反映された寛永3年の「給録御配郡別石高名付附立」[ 史料33 ]においても、宍戸善左衛門の名前しかありません。 景好は死去していたあるいは隠居しており、当主が善左衛門元真となっていたことは間違いないでしょう。
関連は不明ですが、元和6年9月の地下役免除などが景好らに伝えられた直後の10月、その書状の宛先の一人でもあった益田元祥は益田家の家督を嫡孫の元堯に譲っています。 元祥は藩政から手を引いたわけではありませんし、年齢も大きく異なりますが、景好も同時期に隠居した可能性もあるのではないでしょうか。
景好の死については、寛永10(1633)年とする「三丘宍戸家系」[ 史料34 ]と元和8(1622)年に51歳で亡くなったと伝える景好寺の寺伝[ 史料30 ]の2つが確認できます。 没年以外にもこの二つが伝える情報は景好の院号について芳春院と青谷院と食い違っていますが、いずれにも共通するのが隠居後に所領の小鯖で亡くなったと伝わることから、これは間違いないと言えるのではないでしょうか。
まとめ
宍戸善左衛門と但馬守、そして景好については、慶長13年まで但馬守元重が生存していること、善左衛門は慶長年間に断片的に活動が確認できるが宍戸掃部の活動は見られないこと、一方、慶長末に善左衛門景好と署名した書状が残ることが確認できます。
これらから、慶長5年に伊予を攻める軍勢を率いていた宍戸善左衛門はやはり景好と考えるべきではないかと考えます。 また、慶長年間には景好は但馬守を名乗っておらず、名乗りを改めるのは元和年間以降と考えられます。
景好の死亡時期ははっきりしませんが、景好の墓と伝わる石塔が景好寺にあるようですし、小鯖村で亡くなった可能性は高いと考えられます。 村内に景好縁の諸寺があったことを考えると小鯖村が宍道主殿の所領となった後も隠居生活を送るには相応しい場所でもあり、死亡時期について伝わる2説のいずれかを採る決定的なものは現状ないと言えそうです。
注釈
- 西尾和美「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(『四国中世史研究』第10号、2009年)
- 『萩藩閥閲録』「125 宍戸藤兵衛」(『萩藩閥閲録』第3巻、マツノ書店、1995年、以下「閥125」)
- (元亀3年)12月11日 渡辺左衛門大夫長宛 宍戸隆家書状(「閥125」16)
- 慶長8年10月19日 宍戸元重宛 輝元官途書出(「閥125」20)
- 慶長10年12月14日 福原廣俊外八百十九名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1284)
- 慶長14年12月13日 宍戸元信宛 毛利宗瑞加冠状(「閥125」21)、慶長14年12月13日、国司元昔宛 毛利宗瑞判物(「閥125」13)
- 慶長14年8月29日 局某消息(「閥125」17)
- 毛利元就父子雄高山行向滞留日記(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』403)、永禄4年3月26日からの元就、隆元父子の小早川氏訪問の記録。
- 元和2年6月11日 国司元信宛 輝元書状(『萩藩閥閲録』「55 国司与一右衛門」31)
- (寛永4年)10月12日、宍戸元信・吉松猪兵衛宛 益田元祥打渡状(「閥125」19)
- この史料を掲載している『大日本古文書』では景好と注がなされています。
- (1)に同じ
- 元忠は兄の家を継いだ慶長17年当時率いる組が合計3800石ほどであるのに比較して、元珍の切腹で萩藩士としての元盛系の内藤氏が一旦途絶えた元和年間と思われるものでは13400石ほどとなっています。これは元盛だけでなく子の元珍、元豊が連座したことと比べて非常な厚遇と言えるのではないでしょうか。
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