SSブログ

小鯖村に眠る人々 [人物]

  • 第2版 2010/2/6 末尾で杉原春良を景良としていた誤りを修正

現在は山口市の一部であり、かつては周防国吉敷郡に属した小鯖村は宍戸景好が江戸時代に入ってから領していたと伝わる土地です。 当時は山口近郊の村のひとつだったはずですが、宍戸景好にとっては重要な意味を持った土地であったことが見えてきます。

そうした宍戸景好や周囲の人々との関わりを『小鯖村史』[1]で紹介されている内容を中心に取り上げてみます。 タイトルについては正確を期すのであれば、取り上げる全ての人物が小鯖村に眠っている訳ではありませんが、同地で弔われていることは確かです。

小鯖村とは

山口の中心部からは東から東南に位置し、山口と三田尻(防府)を結ぶ街道が村を貫いていますが、山地が多く問田川や小鯖川に沿ってわずかな平地が広がっています。

防長ではこの地において曹洞宗が広まり始めたとされ、闢雲寺や禅昌寺のような曹洞宗の有力寺院が存在しています。 明治以後は大内村、仁保村と合併し大内町となり、さらに山口市と合併してその一部となって現在に至っています。

小早川隆景と問田大方

小早川隆景は慶長2年、毛利氏の防長移封前に既に三原で亡くなっていますが、慶長14年に隆景の13回忌が小鯖村鳴滝の月光山闢雲寺で営まれ、以後この寺が牌所とされました。 同寺は古くは大内教弘の菩提寺でもありましたが、隆景の法名にあやかり寺名を泰雲寺と改めています。

一方、隆景の正室はまだ存命しており、防長移封の際に山口近郊の問田村へと移って御台所料800石を与えられ[2]、問田大方と呼ばれてその地で余生を送りました。 問田は小鯖村の隣に位置しており、山口の中心部から街道を小鯖村へと向かう途上にありますが、そこが問田大方が晩年を過ごした地であったようです。 大方は元和5年6月21日亡くなり、その邸を隆景寺としますが後に同寺は萩へと移転しています。

問田大方からは泰雲寺に度々の寄進もあったと伝わり、問田から程近い小鯖村、そして泰雲寺にも度々足を運んだのではないでしょうか。 一方、隆景を偲んで泰雲寺を訪れる者や小鯖村の宍戸景好が問田村の大方のところへ立ち寄ることもあったことでしょう。

春松院

「宍戸系図」[3]には河野通直の母である宍戸隆家の長女について寛永元年に亡くなり吉敷郡柊村福厳院に葬られたと記されています。 柊村とあるため当初見落としていたのですが、実際には福厳院もまた小鯖村に存在した曹洞宗寺院でした。

天文年間には存在した徹泉山春松院を通直母の牌所とし、春松院を開基としたと言うことです。 宍戸氏の後の小鯖村の給領主である宍道元兼の没後、その牌所ともなったことからその法名から清雲院と改めたそうですが、後に毛利吉広の法名青雲院殿をはばかって再度福厳院と改めています。 明治に入り阿武郡地福村の桂光院の旧地に移転し、洞雲寺と合併して福厳院を称したとのことで現在は旧小鯖村内には存在しません。 ただし、春松院の墓と伝わるものがかつての福厳院の墓地にあるとのことです。

系図は春松院の寛永元年没を伝えますが宍戸善左衛門が文禄3年に慰霊を依頼した記録[4]や小早川隆景が長生寺に宛てた書状[5]からも、文禄年間には既に通直母は亡くなっていたはずです。 春松院は隆景の菩提寺となった泰雲寺の末寺であることから、寺伝の通り以前から存在していた小寺院において、伝承に名前こそ現れませんが宍戸景好や杉原春良ら縁の深い人物が春松院を熱心に弔ったのが由来なのではないかとも考えられます。 天文年間から続くとされる寺名の一致はたまたま春松院を名乗るものがあったのかあるいは誤伝と考えられそうです。

春松院の命日と伝わる寛永元年には春良は既に没後、景好も没していた可能性がありますが、そのような日付にはどのような意味があるのでしょうか。 いくつかの可能性としては堂宇の建立などが混同して記録されたものか、あるいは春松院が文禄元年に亡くなったのであれば三十三回忌の法要が営まれたのかもしれません。 いずれにしても翌寛永2年には領内の給領主再配置により小鯖村全域が宍道元兼の給地となったことは間違いないようです。

杉原春良

先程名前を挙げた杉原春良ですが、この人物は備後の国人杉原直良の子で、系図上では祖父にあたるのは備後で勢力を延ばした杉原理興です[6]。 母は安芸の白井氏の出身で母方の祖母は熊谷信直の妹でもあり、伊予へ嫁いだ宍戸隆家長女の下へと毛利氏から派遣されました。 春良もこの時に海を渡り母と共に河野氏に仕えることになります。

その妻は宇都宮氏の一族萩森氏の娘で河野通宣の姪とも言われており、春良自身は予州熊野山六千石の城主となって、最後は元和4年8月15日防州小鯖にて亡くなったと伝わります[7]。 伊予の熊野山がどこを指すのかは不明ですが(久万、久万山と言われる山方でしょうか?)河野通直母子の側近であったことは間違いなく、通直の死後も通直母とともに高野山に登山し、その際に書かれた宿坊証文にも河野氏の家臣の一人として署名しています[8]。

その後の活動は詳しくは不明ですが、恐らくは小早川氏を経て毛利氏に仕え、佐波郡大崎に知行を得たとしています。 関が原の際には伊予へ侵攻した軍勢の中ではなく、伊勢方面で子の景良とともに活動していることが知られています[9]。 その最期を小鯖村で迎えたと伝わることを考えれば、老いてからは小鯖村に隠居し、小早川隆景や春松院を弔って暮らしていたとも考えられるでしょう。

この時期は宍戸景好が小鯖村の給領主だったはずで、同時期に井原氏が同村の一部を領してもいたようですが、杉原氏もまた同村の一部を給付されていたのか、春良が単に小鯖村で隠居生活をしていたのかはわかりません。 その墓所について触れられたものは見当たりませんが、小鯖村のどこか、春松院あるいは泰雲寺の墓所に葬られた可能性も高いのではないかと思います。

景好寺

「宍戸系図」[10]は宍戸景好についても小鯖村で隠居し、同地において寛永10年に没したと伝えます。 そして後にその名を関した景好寺が創建されていることも記されています。

一方、景好寺の縁起では景好を元和8年に51歳で亡くなったと伝え、同寺を次男景治が開山であるとしています。 さらに景好の嫡男についても善左衛門景昭とし、寛永の始めに致仕し、彦根に住んだとも伝えますが、後年彦根に暮らしたのは確かなようですが寛永3年には萩藩で宍戸善左衛門の給地が確認でき[11]、寛永14年の書状[12]からもその頃までは萩藩に仕えていたと考えられることから、伝わる諱の違いと合わせて不思議なところです。 また、景好について元和年間に亡くなったとしながら、寛永2年に小鯖村を給付された宍道元兼の下で隠居していたとするなど伝承の中には矛盾もあります。

他にも寺伝では寛永19年には開山しながら寺号免許を受けたのは29年後と伝えるなど、ここにも創建を巡る謎が見え隠れします。 景好寺の現在地は旧小鯖村の毛割に位置しますが、創建当初は鳴滝にあったと伝わります。

景好寺とそこに関わる景好の子供たちについてはまた改めてまとめていきます。

まとめ

『小鯖村史』では景好が別家を建て小鯖村の領主となったのを元和年間としていますが、その根拠やそれ以前の領主については特に触れられていませんし、分限帳などからもそれ以前に宍戸善左衛門が別家を建てていたことは間違いありません[13]。 当時は隣接する問田に隆景室が暮らし、禅宗の古刹泰雲寺が隆景の菩提寺となったことを考えると小鯖村の領主にも隆景と縁の深い人物が早くから配されたのではないでしょうか。 隆景と縁が深く、一門筆頭の宍戸氏当主の弟でもあった景好はその有力な候補とも言えるでしょう。

通直の後、宍戸氏出身の人物が河野氏を継ぎ、通軌と名乗ったと『河野家譜 築山本』[14]は伝えますが、同書は後に通軌が山口で亡くなったとしています。 通軌と自称した人物の存在を証明するものは確認されていませんが、山口近郊の小鯖村で亡くなった景好を念頭に創作された人物であるとも考えられますし、かつては景好と河野氏あるいは伊予との深い関係を示すものが残されていたのかも知れません。

小早川隆景夫妻や通直母である春松院が弔われた小鯖村で、こうした人々と縁の深い宍戸景好や杉原春良が晩年を過ごし、同地で今も眠っていることだけは少なくとも確からしいと言えるでしょう。

注釈

  1. 坂倉道義『小鯖村史』(小鯖村史刊行会、1967年)
  2. 当島宰判 河島庄 隆景寺(『防長寺社由来記』第5巻)
  3. 「宍戸系図」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)
  4. 「高野山上蔵院文書」河野家御過去帳(土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(下)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』13号、2008年)
  5. 文禄5年7月28日 小早川隆景書状(『防長風土注進案』第19巻 前大津宰判、433P)
  6. 「杉原氏系図」(岡部忠夫編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1999年)
  7. 『萩藩閥閲録』 68 杉原与三右衛門
  8. 「高野山上蔵院文書」天正16年4月27日 河野通直母等宿坊証文写(土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(中)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』12号、2007年)
  9. (慶長5年)8月24日 伊勢国津城合戦頸注文(『大日本古文書 家分け 毛利家文書』377)に宍戸元続の組下で頸一つをあげている杉原与七郎が見えますし、『閥閲録』でも親子で伊勢方面にいたことを記しています。
  10. (3)に同じ
  11. 「寛永3年 給録御配郡別石高名付附立」(『山口県史 史料編近世3』、2001年)で長門厚狭郡山ノ井約1200石と周防吉敷郡中尾150石を給付されていることが確認できます。ただし、翻刻ではそれぞれ「上地」、「先地」と書かれ後に抹消されていることを示す記号がついていますので、一時的に禄高を減らすような何かがあったのかも知れません。
  12. 寛永14年3月16日 毛利元倶等誓紙并宍戸善左衛門尉等書状(宍戸善左衛門兄弟の事)(山口県文書館所蔵、毛利家文庫 *5家臣86)
  13. 元和年間の独立を伝えるのは「景好寺縁起」ではないかと思われますが、確実な史料として慶長10年の五郎太石事件での仲裁や、慶長17年の千石夫の割り当てに見える「宍 善左組」などからも既に別家を立てていたことは確認できます。
  14. 景浦勉編『河野家譜 築山本』(伊予史料集成刊行会、1984年)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(4) 

nice! 0

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 4

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。