SSブログ

系図に見る宍戸景好 [人物]

関ヶ原の折に伊予侵攻軍を率いたともされる宍戸善左衛門尉景好について、まずは系図資料から見ていきたいと思います。 景好は宍戸元秀の子で毛利元就の婿として著名な宍戸隆家の孫、毛利元就の曾孫にあたり、その名乗りからは小早川隆景の偏諱を受けていると考えられます。 宍戸氏本家は長兄の元続が継いで輝元の重臣として活動し以降代々一門衆として続きましたが、景好の家系は子の代に萩藩を離れています。

その安芸宍戸氏→萩藩三丘宍戸氏の系図としては以下のものがあります。 以下、本項ではその内容から下記のとおり5つのグループに分け、それぞれ系図A〜Eまでで表現するものとします。

  • 系図A:『近世防長諸家系図綜覧』掲載「宍戸系図」[1]、「三丘宍戸家系」[2]、「宍戸系譜」[3]
  • 系図B:「宍戸系図」[4]
  • 系図C:『続群書類従』掲載「宍戸系図」[5]、『小田本宗支族系図』掲載「宍戸系図」[6]
  • 系図D:『系図纂要』掲載「宍戸系図」[7]
  • 系図E:『雑家系図』掲載「宍戸系図」[8]

前2種類は主として宍戸氏嫡流のもので、景好は元秀子の一人として掲載されていますがその子の世代については特に記載はありません。 後3種類は江戸初期で記述が終わっているものの、元秀子から出ている庶流についての情報も多く掲載されています。

「三丘宍戸家系」、「宍戸系譜」、『防長諸家系譜』

「三丘宍戸家系」および「宍戸系譜」は山口県文書館が所蔵している宍戸氏関連の資料となります。 その他、防長および萩藩に関連する諸氏の系図を田村哲夫氏がまとめた『防長諸家系譜』でもこの「三丘宍戸家系」を中心とした宍戸氏の系図を掲載しています。

これらの系図Aでは景好についての記述は以下のようになっています。

弥三郎 掃部頭 但馬守
仕輝元卿建別家 寛永十癸酉七月十九日卒於周防佐波郡小鴨村隠居地 法名芳春院殿古剱宗快 葬同所 後建景好寺
母 氏不詳

他の兄弟について確認すると父元秀の正室である内藤興盛娘を母とする子についてはその旨記されているので元秀の庶子であったことは間違いないようです。 没年についてこの系図では寛永10(1633)年とされています。 なお、他の系図と比較した場合に、景好本人の情報は最も豊富なものがこの系図(もしくは次項の「宍戸系図」)となりますが、逆に景好の子については記述がありませんので他の系図に頼ることになります。

生年については記されていませんが他の系図などからある程度推測は可能で、これについては後述します。 また、小鴨村(現在は山口市の一部)で没したとされ、記述のとおり同地には景好寺とその名がついた寺が建てられていますが、この寺は真宗寺院として現存しています。 この景好寺に関する話もいずれ別途まとめたいと思います。

これら系図Aでは宍戸元秀の子、景好の兄弟については、母親を意識した順で記載されているようです。 具体的には

  • 元続、三沢為虎室、(内藤)元盛、(粟屋)孝春、元真…いずれも母は内藤興盛娘
  • 景好、元可…いずれも母は不詳(ただし二人の生母が同一人物かは不明)
  • 小早川隆景養女秀秋室…母は家女

の順となっていますが他の系図と比較した場合に、生まれた順序は異なっていると考えられます。 先に述べたように景好の子の世代についての記載はありません。 これは家督を継いだ元続の系統を除けば他の兄弟についても同様です。

「宍戸系図」

同じく山口県文書館が所蔵している「宍戸系図」です。 景好についても、元続以外の他の兄弟についてもその子についての記載がない点についても同様です。

景好についての記述は大きく変わりませんが、弥三郎ではなく弥太郎となっている点が異なります。 弥三郎は隆家、元秀、元続など代々跡継ぎである嫡男が名乗っている名前であり、他の系図がその名前を景好も名乗っていたとしているのかは気になるところです。 宍戸氏を継いだ元続よりも先に産まれていたという可能性は考えられますが、元続は父元秀が17歳の時の子であり、他の系図の記述を見ても庶長子である可能性は低いのではないかと思います。 こうした事情を考えれば、こちらの系図の通り名乗りは弥太郎が正しいのではないかとも思われます。

『続群書類従』掲載「宍戸系図」、『小田本宗支族系図』掲載「宍戸系図」

『続群書類従』に掲載されている「宍戸系図」には上記の山口県文書館が所蔵する各種系図とは違った特徴があります。 それは本家を継いだ元続の子以外にも、別家を立てた元真や景好の子孫についての記述もなされたものとなっていることです。

これら系図Cでも景好本人についての記述は弥三郎、掃部、但馬守を名乗ったことが書かれている点で変わりはありませんが、景好子として男子6人、女子4人が記されています。 ただし、嫡男と思われる善左衛門について元□と表記されており、2文字目が欠落(あるいは読み取れない)しているようです。 子の一人である良春については出家して後に京に住み、延宝4(1676)年に74歳で亡くなったと記されていまることから慶長8(1603)年の生まれということになります。

また、元秀子の記載順序も異なっており、生まれた順が反映されている可能性も高いのではないかと思います。 具体的には

  • 元続、三沢為虎室、元盛、孝春、景好、元可、小早川秀秋室、元真

の順となっています。

この系図Cがどういった由来を持つものであるかは詳しく説明されていません。 『続群書類従』掲載のものの末尾には「貞享乙丑以玉屋吉兵衛傳借本寫焉」「以内閣本諸家系図纂校合」とありますが、貞享乙丑は貞享2(1685)年にあたります。 一方、系図中で没年が記されている人物のうち、最も新しい年代となる人物が先に述べた良春ですので、上記の事情とも一致すると言えます。 玉屋吉兵衛が何者かが不明ですが元真の子である元姓の娘の一人が井原権兵衛に嫁いでおり「今之吉兵衛の母也」と記されており、この吉兵衛との関わりが考えられますが、 内容的にも元真の系統については元真の孫、曽孫の代まで記述されていることもこれを裏付けていると思われます(景好の系統については子までしか記されていません)。

さらに、同様の系図が東京大学史料編纂所データベースで確認でき、『小田本宗支族系図』に「宍戸系図」として収録されています。 系図部分の内容は同じものですが、その奥書の記述が興味深いものとなっています。 まず系図の末尾に玉屋吉兵衛云々の記述はなく代わりに常陸の小田氏にゆかりのある秋山氏が常陸府中藩の松平頼隆に仕える経緯が書かれています。 そして、その子孫と思われる秋山中殷に石川箕水が請うたことで系図の写しが石川の手に渡り、天保6年にさらにそれを写したものであることが市毛幹規の名で記されています。 この石川、市毛両人とも水戸藩の関係者のようです[9]。

松平頼隆の母は、宍戸元秀の娘が小早川秀秋の死後に西本願寺の准尊に嫁いで産んだ娘にあたります。 また、後年頼隆の娘が徳山毛利氏に嫁いでいるなど、景好の叔母に当たる女性を通して水戸徳川家との間につながりが生じました[10]。 こうした中で常陸が宍戸氏発祥の地であることとも絡んで江戸初期の安芸宍戸氏の系図が秋山氏の手に渡ったのではないかと考えられます。

『雑家系図』掲載「宍戸系図」

こちらも東京大学史料編纂所データベースに格納されている史料です。 内容としては系図Cのものに近いのですが、こちらの方が記述が少ない項目も見受けられます。 また、嫡流について、系図Cが就附までの記載となっているところ、こちらはその先の就延、廣恒の代まで記載されている所も相違点となります。

景好に関するところでは、同母弟の可能性もある弟の元可について、他の系図では左衛門尉としている所を善左衛門尉としているところが大きな特徴となります。 景好子については男子5人、女子4人が掲載されており、それぞれについての内容も系図Cより情報としては少ないものとなっています。

『系図纂要』掲載「宍戸系図」

『系図纂要』にも藤原氏の項目に「宍戸系図」が収録されていますが、こちらにもまた景好子についての記述がなされています。

元秀子の並びは系図A、Bと変わりませんが、特に母親について記述があるわけでもありません。 景好自身については宍戸但馬守、古剱宗快と簡素な記述です。 景好の子については男子5人、女子2人が記されていますが、景好嫡男について元真、二男について元頼と具体的な名前が記されている他、景好子についてはそれぞれ他の系図に見られない情報が掲載されています。 一方、景好兄弟の元真の子については別家を建てた元姓も掲載されていないなどの違いが見られます。

景好の兄弟である元可の子についても他の系図にはない情報として長子頼尚が松平頼隆の元に身を寄せていたとしています。 常陸府中藩へ宍戸系図をもたらすことになったのは意外と頼尚のつながりによるものかもしれません。

系図の由来などについては不明です。

まとめ

以上、各種宍戸系図から宍戸景好がどのように記録されているかを紹介しました。 しかし、これら全ての系図において景好を掃部、但馬守としており、善左衛門としたもの及び河野氏あるいは伊予との関係を記したものは見られません。 一方で、弟の元可を善左衛門としているものが確認できますが、善左衛門を名乗っていたのは景好であろうと考えています。 この辺りを踏まえ、引き続きこの辺を確認するために関ヶ原後の宍戸景好の動向を紹介していきます。

今回取り上げた宍戸氏の系図では景好の妻について触れたものはありませんが、村上氏の系図から村上景親の娘(祖父はそれぞれ村上武吉、平岡房実)が嫁いでいることがわかります[11]。 景好の子供たちについては別途得られた情報と合わせて別項として改めて整理したいと思います。

最後に、景好の生年についても改めて考えてみます。 系図Aからは、孝春がその没年から永禄11(1568)年の生まれとなり、末弟と考えられる元真が同様に天正6(1578)年の生まれとなります。 系図Cが兄弟の中で生まれた順序を反映していると考え、同母弟の可能性もある元可の存在なども考慮すると景好の生年は永禄12(1569)年から天正3(1575)年頃までの間とここでは考えておきたいところです。 一方、景好の菩提寺である景好寺に伝わる寺伝では景好を元和8(1622)年に51歳で亡くなったと伝えています[12]。 系図Aが示す寛永10年没との差異を無視した場合、この縁起からは元亀3(1572)年の生まれということになり、上記の年代にも一致するため一つの候補として考えてよいかと思います。

注釈

  1. 「宍戸系図」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)
  2. 「三丘宍戸家系」(山口県文書館所蔵、毛利家文庫、57御什書1-12)
  3. 「宍戸系譜」(山口県文書館所蔵、県史編纂所史料102)
  4. 「宍戸系図」(山口県文書館所蔵、毛利家文庫、27諸家22)
  5. 「宍戸系図」(塙保己一編『続群書類従』)
  6. 「宍戸系図」(『小田本宗支族系図』、東京大学史料編纂所蔵、2075-1085)
  7. 「宍戸系図」(『系図纂要』第六巻)
  8. 「宍戸系図」(『雑家系図』、東京大学史料編纂所蔵、4175-110)
  9. 石川箕水市毛幹規はいずれも水戸藩士で彰考館につとめた。
  10. 松平頼博編『常陸府中松平家家譜』
  11. 「能嶋家系図」(「宮窪村上文書」『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』45、愛媛県今治市教育委員会)
  12. 坂倉道義『小鯖村史』(小鯖村史刊行会、1967年)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。