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宍戸景好の諸大夫成(2) [人物]

乃美景嘉益田景祥裳懸盛聡包久内蔵助らの紹介を挟んで、宍戸掃部景好の諸大夫成にも触れつつ、小早川隆景の諸大夫と伝わる武将たちについてまとめてみたいと思います。

8名の事績のまとめ

隆景の家臣として諸大夫成したと伝わる8人[1]のうち、多少なりともその事績を示す他の史料がある程度確認できたのが、粟屋左馬を除く7名となりました。 残る、粟屋左馬については慶長年間に毛利家臣として左馬允を名乗ったことが確認できる粟屋元信については小早川氏との強い関係を見いだせず、粟屋景雄らとの関係も考慮すべきように思われます。

名前  諱 他の名乗り 生没年      隆景死後        
益田修理景祥七内、河内守天正3?天正5?-寛永7毛利家臣、子孫は萩藩寄組
粟屋左馬不明不明
宍戸掃部景好、景世弥太郎、善左衛門、但馬守天正元?-元和9?寛永10?毛利家臣、子孫は彦根藩士
井上左京景貞五郎兵衛?-?毛利家臣→牢人、子は萩藩士、弟は長府藩士
乃美主殿景嘉、景尚?新四郎、主水?-寛永12毛利家臣→熊本藩士
包久内蔵助景真※弥四郎?、弥七郎?、蔵人大夫?、内蔵丞天文23?-慶長6?毛利家臣→関が原後に豊前小倉細川氏?、子孫は尾張藩、長府藩?
裳掛主水(高山)盛聡六郎、弥左衛門永禄10-寛永14毛利家臣?→牢人→寄合旗本高山氏
鵜飼隼人景一?-慶長4?毛利家臣→切腹、弟が萩藩士岩内氏→鵜飼氏

※他に景忠、景吉、景勝などの名が伝わりはっきりせず

比定し得る人物の名が上げられた7名の内、その死までを萩藩士として生きたのは元々毛利家中の有力国人を出自に持つ宍戸景好と益田景祥の2名のみであったことになります。 さらに、宍戸景好の系譜も後に萩藩を離れたため、直系が毛利氏の家臣として離れることなく長く続いたと言えるのは秀就生母の妹を妻に迎え、寄組益田家として続いた益田景祥の系譜のみでした。 他の6氏はいずれもある時期までには毛利氏を離れ、あるいは鵜飼隼人のように切腹し断絶が伝わるなど、様々な事情を抱えていたようです。

諸大夫成はあったのか

肝心な点はこの8名の諸大夫成の事実があったかどうかという点になりますが、このうち乃美氏については口宣案の文書が残されています。 乃美景尚宛の口宣案の日付は文禄5年5月24日となっており[2]、『寛政譜』において高山盛聡も慶長元年5月24日の叙任を伝えます[3]。 益田氏は諸大夫成を「侍付立」同様に隆景中納言叙任の際と伝えますが、具体的な日付は示されておらず、清華成との混同がないとは言い切れません。

隆景の清華成自体が文禄4年と文禄5年の2説があり、これについては矢部健太郎氏が、当時の状況から文禄4年の秀次に対する処分実施後の体制を固めるため、文禄5年の2月に前年8月に遡及して隆景を中納言に叙任、さらに、5月に清華成という経緯をたどったのではないかとして、また、文禄4年の隆景に関する記録から、文禄5年説の根拠を提示されています[4]。 これに沿った場合、乃美氏や高山氏が伝えるものとひとまずは整合します。

ただ、清華成の当日、その家臣の諸大夫成についてもなされたと伝わるのが妥当かどうかはわかりません。 毛利輝元のケースを見ると天正16年の上洛の際、7月25日に本人が従4位下 侍従 参議として公家成していますが、穂田元清、福原元俊らの諸大夫成はその翌日7月26日となっています[5]。 隆景の場合、矢部氏の紹介によれば隆景清華成の翌日、5月25日には伏見城で答礼がなされているとのことです。 これが清華成した隆景の披露の場と言えるのであれば、この場に間に合わせるため、24日に隆景の家臣の諸大夫成も合わせて処理されたということは有り得るのかもしれません。

「宍戸掃部」

一方、「宍戸掃部」については、系図の多くが善左衛門は伝えないながらも掃部の名乗りを伝えている状況です。 ただし、「宍戸家文書」に含まれる系図のいくつかが「掃部正」、そしてさらにその一つが「初大夫」と記しているのみです[6]。 彦根藩井伊氏へ仕えた孫の四郎左衛門も書出において祖父宍戸但馬守についての諸大夫成について触れてはいません[7]。

系図史料と「侍付立」を除くその他の史料で掃部が確認できるのは現状ではいずれも村上景房の子孫が紀州藩へ書き出したものとして残る二通の書状のみです[8]。 一つは慶長5年関が原の戦い直前の堅田元慶、毛利元康連署書状であり、完掃部(宍戸景好)、村助右衛門尉(村上景房)、木梨平左衛門尉(景吉)、村越前(?)の4名へと出されているもので、もう一通は正岡休意から村上景房へ宛てられたもので恐らくは関が原の戦いの翌年のものです。

8名の特徴

比定し得る人物が不明な粟屋左馬については四郎兵衛景雄を念頭に置き、ここで改めてこれら諸大夫成を伝える8名を見てみます。

まず、裳懸盛聡を除き、いずれも景の字をその名に用いていることから、隆景の偏諱を受けていると考えられる人物です。 なお、例外と言える盛聡が用いている盛の字も乃美盛勝、杉原盛重ら隆景と縁のある瀬戸内沿岸の国人領主に散見される文字ですが、これは誰の偏諱なのでしょうか。

また、確かさについての差はありますが少なくとも益田、宍戸、乃美、裳懸、鵜飼の5名は、兄弟の生年なども参考にするといずれも永禄後半から元亀、そして天正初期の生まれの可能性が高く、即ち文禄5年に諸大夫成したのであれば当時皆20歳から30歳を迎える前の若武者達であったと言えそうです。

包久内蔵助については内蔵丞と同一人物として見た場合には、隆景の死の前後に他の隆景側近らと連署して文書を発給している点が目につきます。 長府藩に残る記録を信じれば天文末期の生まれであり、益田元祥が伝えるように、朝鮮の秀元から秀吉への使者として送られたとするのも事実であれば、当時から名の知られた立場にあると言え、「座配書立」の記述などからも先に挙げた5人と比較して年長者であるようにも見えます。

粟屋左馬、井上左京もこれを四郎兵衛景雄、五郎兵衛景貞と見た場合には、文禄年間以前にはほとんどその姿が見えませんが、文禄年間、碧邸館での戦いの頃にはそれぞれ小早川軍の一軍を指揮する立場にあった有力武将であったことは間違いなく、またその年齢も包久内蔵丞同様に天文末期から永禄初期の生まれであったと考えられます。

こうしてみると井上春忠や鵜飼元辰といった隆景の古くからの重臣と言える老将は含まれず、その子の世代である粟屋、井上、包久等の比較的実績のある者と、それ以外の益田、宍戸ら若手で構成されていたと考えることもできるのではないでしょうか。

あるいは、下記のようにその出自からも三原衆内部でのバランスをとったと見ることもできるかもしれません。

  • 粟屋、井上、鵜飼…毛利家から隆景に付けられた家臣の子弟
  • 包久、乃美、裳懸…小早川一族の子弟
  • 益田、宍戸…毛利家中の有力国人の庶子

まとめ

景好の官名として伝わる掃部が諸大夫成によって叙任された正規の官職である可能性を検討してみました。 景好と共に伝わるこの8名が実際に諸大夫成した可能性は確認できましたが強い裏付けはなく、特に宍戸景好についても掃部頭、あるいは掃部正として諸大夫成していたことを伝えるものはほとんどありません。

事実の有無は確認できませんでしたが、彼らのその後を通して、隆景死後の小早川旧臣の置かれた立場を垣間見ることができたと共に、隆景家臣団についての研究がまだ途上であることは感じられました。

注釈

  1. 「小早川隆景公御家中名有侍付立」(「豊浦藩旧記 第27冊」)(『下関市史』「資料編1」、1993年)。同じく「資料編4」(1996年)にも「内藤家文書」の一部として微妙に内容の異なるものが収録されています。
  2. 「乃美文書」102 文禄5年5月24日 豊臣景尚宛 後陽成天皇口宣案、103 文禄5年5月24日 豊臣景尚宛 後陽成天皇口宣案(『新熊本市史』史料編 第2巻 古代・中世 、1993年)
  3. 『寛政重修諸家譜』巻第547 平氏良文流 高山氏(『新訂寛政重修諸家譜』第9巻、1965年)
  4. 矢部健太郎「小早川家の「清華成」と豊臣政権」(『国史学』196号、2008年)
  5. 下村效「天正文禄慶長年間の公家成諸大夫成一覧」(『栃木史学』7、1993年)
  6. 「宍戸家文書」所収「宍戸系図」(山口県文書館所蔵、複写資料)
  7. 「宍戸四郎左衛門家」元祖宍戸四郎左衛門書出(『侍中由緒帳』第6巻、1999年)
  8. 『藩中古文書』所収「村上小四郎蔵文書」(愛媛県教育委員会『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編、2002年)

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