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山の村上氏と海の村上氏 [イベント]

現在開催中、というよりは残りわずかな期間となっていますが2010年11月28日までの間、上田市の西隣、坂城町の鉄の展示館で『信濃村上氏と村上水軍、戦国の勇将たち~義清・国清と武吉・景親~』と題する展示が実施されています。 筆者は先日、上田を散策した際に偶然告知ポスターを見かけたことで訪れることが出来ました。

坂城と信濃村上氏

坂城町は長野県埴科郡に属し、また、先に述べた通り上田の西隣にあたり、またやはり千曲川に面した位置にあります。 坂城が村上氏を取り上げているのは戦国時代、武田氏に敗れるまでは村上義清の居館があり、後背の山上にはその居城として知られる葛尾城が控えるなど、信濃村上氏の本拠地であったことによるものであるようです。 その後、江戸時代には北国街道の坂木宿として続いていたようです。

近年は信濃村上氏に関しての関心が高まっているのか、坂城町で信濃村上氏フォーラムとしてイベントの開催や書籍の刊行などがなされています。 今回の展示についても瀬戸内の村上水軍がその出自を信濃村上氏[1]や信濃から来た北畠氏であると伝えるなど、信濃との関係を示唆するものがあることに由来しているようです。 ただし、あくまで展示物についても相互の関係に言及するものがあるわけではなく、ほぼ同時代に信濃の山中と瀬戸内の海上でそれぞれ活躍した2つの村上家の有り様を示すものとなっています。

展示と坂木宿 ふるさと歴史館

展示品は両村上氏に関する書状類を中心にその他関係する伝来品で、主要な内容は先の鉄の展示館ウェブサイト上でも示されています。 それらが展示スペースの関係もあるのでしょうが1Fが義清、武吉関連、2Fが国清、景親関連と世代で分かれる形で展示されていました。 これは分けるにしても信濃と瀬戸内という切り口で分けてしまわなかったのは見る側に親子の世代を意識させる上ではよかったのではないでしょうか。 能島村上氏関連のものはそのほとんどが今治市の村上水軍博物館で展示されているものかと思いますが、信濃村上氏関連のものは各地にあるものが集められているようですので、それらが一同に見られると言う意味でもよいものであったかと思います。

会場の鉄の展示館は入場料400円とところ特別展の開催ということで500円となっていましたが、その代わり、100円の増額分で「坂木宿 ふるさと歴史館」へも入場可能となっています。 江戸時代に入っても坂城は北国街道の坂木宿として賑わったようで、村上氏時代だけではなく江戸期以降も含めた坂木の歴史を取り上げている施設が歴史館に当たるようです。 さすがにその建物は江戸時代の本陣ではありませんが、昭和初期の3階建ての大型木造家屋を利用しているとのことで、当時の坂城での旧家の一つであったと思われます。

この歴史館の位置も北国街道に面しており、さらに街道をそのまま北方に進むとかつての村上氏の館跡(満泉寺)、さらに進んだ先にある坂城神社が葛尾城の麓にあたります。 これらの位置関係から居館跡周辺が後に坂木宿として発達した様子がはっきりとわかります。

注釈

  1. 『寛永諸家系図伝』久留島(続群書類従完成会『寛永諸家系図伝』第13巻、1990年)において、久留島家は通康以前の系譜は示さないまま河野氏の婿として系譜をつなぎ、通康について先祖を信濃村上としています。

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コメント 3

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呑舟

このコメントは以前から拝見してますが、板城町では、瀬戸内村上
海賊を信濃村上末裔との前提のようですね。
以前、松本市に在住していた折に村上海賊の痕跡を見つけよう
としたことが有りましたが見つけられませんでした。
決定的な一次史料があれば、瀬戸内、村上家の系図の信憑性も
高まるのですが、今の所は本当はつながりはないとされてますよね。

因島、能島、来島の村上家の出自は未だに分かりません。
この三島村上は能島を本家として他は分家とする系図がありますが
これは後世の仮託と現段階では思っています。

三島村上の出自はそれぞれ別者とされています。
北畠→信州村上を証明する一次史料が見付かりません。

唯一、能島村上武吉の嫡男系(元吉→元武)、所謂、村上図書家に伝わったとされる、村上初代の父親、北畠顕家の文書が屋代島の某家に秘蔵されているが、全く読めない。
文書の真贋と書かれている内容を知りたく、
山口県文書館へ送付して解読を依頼したらしいが
第一人者の先代の館長もお手上げだったらしい。

これが北畠顕家の自筆文書であることが確認されれば
能島村上系図は正しくて、村上師清のの素性も正しいことになるの
ですが・・・・・。

余計なことを書き込みました。ふと感想を・・・。
by 呑舟 (2011-01-11 04:21) 

takubo某

呑舟さま

> 板城町では、瀬戸内村上海賊を信濃村上末裔との前提のようですね。

とのコメントですが、私の文章からそのように受け取られたのであればそのような紹介の意図はありませんので、拙い文章で申し訳ありません。

現地の展示でも信濃との関係を主張する記録もあるが、はっきりしたものではないことは明示されておりました。
あくまで瀬戸内の村上氏の一部は本国信濃を「称して」いたことなどをきっかけに交流されていると認識しております。
信濃村上氏についても史料が少ない状況ですし、海賊村上氏の史料が瀬戸内沿岸以外で展示される機会としてもよい取り組みではないでしょうか。

なお、能島、来島、因島が系図に残るような単なる本家分家の関係ではいという点は、私もそのように思っております。

by takubo某 (2011-01-15 19:41) 

いえね・・・・。

イエイエ、貴方様の文章からそう感じた訳ではありません。
紹介のポスターの「タイトル」からそう感じただけです。

村上宗家(能島)最後の殿様の村上兼助(惟庸)は北畠から連なる
村上系図を信じて疑いません。因島と来島は分家と思っています。
彼は屋代島屋代の住人でした。同じく屋代島島末の住人、民族学者
宮本常一氏は、瀬戸内の海賊関係の古文書を歩いて猟集しての結論
が三島村上は一族ではなく、村上天皇や北畠家を祖とするものではないとしています。同じ島内で二説並立しています。
もちろん、和田の村上武吉の次男坊家は本家の味方です。
こちらの古文書は能島の「水軍博物館」に殆どを寄贈してしまいました。
まだ、両家に未発表の古文書が残っていると思うのですが、機会がありませんし多分見ても私ごときでは読めないでしょう。

散逸する前にすべて「山口県文書館」あたりに寄贈してもらえれば
と思っています。

別件ですが、河野家の質として長曾我部元親の許に送られた
平岡某の名が判明しました。
喫茶室「ゆづき」をご覧下さい。
今後の展開が楽しみです。
by いえね・・・・。 (2011-01-16 21:25) 

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