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「霧の墓」-織田信長の娘- [人物]

以前にも少し触れましたが、福永タミ子氏が書かれた小説『霧の墓』[1]は、宍戸氏にゆかりのある人々が登場する短編集となっています。 全てが歴史小説という訳ではなく、その中のいくつかの作品には古文書に興味を持ち甲立を訪れたりといった行動を取る現代の女性が現れますが、三丘に育ったと思しきその女性は、著者の姿を投影したものということになるのでしょうか。 表題作である「霧の墓」に登場する「織田信長の娘」については以前から気になっていたのですが、この謎について紹介してみたいと思います。

「霧の墓」

タイトルである「霧の墓」とは、この短編の主人公である女性の墓を示しています。 その女性は、宍戸元続の最初の妻で織田信長の娘と伝わる女性です。 これが少なくとも作者の作り話でないことは 「宍戸系図」[ 系図A ] の元続の項には「妻織田内大臣信長公女 生一女 後離縁」と記されていることから確かめられます。

上記の元続と信長女の間の娘の存在については右田毛利氏の系図からも存在を確認できます。 天野元政の子、毛利元倶に嫁いだ女性がこの「信長の孫娘」であり、右田毛利氏の系図は名を松崎と伝えます[ 系図H ]。

この元続に嫁いだ女性については織田氏に関する史料ではその存在を確認できないようです。 「霧の墓」の中ではこの信長の娘は、美濃の土豪に出自を持つ母から生まれたものとして描かれていますが、この部分については作者によるフィクションの部分でしょう。 物語の中では安芸に来てからは自分の居場所を失い、婚姻生活がうまく行かず離縁に至り、安国寺恵瓊の世話になったこの女性が三丘小松原で生涯を終えるまでが描かれています。

信長娘の墓

「織田信長の娘」についてはこれで終わらず、その墓についての話が今も伝わっています。 その存在は、「霧の墓」の結び近くで紹介されている『防長風土注進案』の内容から確認できます[2]。

その記述によれば、当時の毛利元倶の所領、三丘小松原村に墓があり、「元和4年10月14日に亡くなった蘭室宗□」のものであり、これは元倶妻の知光院(松崎)の母が元続と離縁後に娘の縁を頼ってこの地で亡くなり、建てられた墓であると伝わっているようです。

なお、この墓は今現在も三丘の地に於いて、何故か元倶の実父天野元政の墓と並んで残っています[3]。

小松原のその後

寛永2(1625)年、輝元の死を契機として萩藩領内の知行替えが大々的に行なわれ、右田に居た宍戸氏と三丘に居た元政系の毛利氏の知行地は互いに入れ替わることになり、両家は毛利氏一門の三丘宍戸氏、右田毛利氏と称されます。 また、この結果この信長娘の墓はかつて夫であった元続の子孫の知行地内に位置し続けることとなりました。

なお、元続を除く他の歴代宍戸家当主の墓はこの三丘、小松原の地に2箇所に別れて存在しますが、このうち、元続の子、広匡を始めとする初期の当主の墓地はこの信長娘の墓から指呼の間に位置します。 もう一カ所の墓地も貞昌寺の境内にあり、元続前妻の墓から歩いても10分とかからない場所に位置しています。

一方、歴代宍戸氏当主のうち彼女の夫であり、三丘宍戸氏の初代に位置付けられる元続のみは同じく宍戸氏の給地である周防国佐波郡下徳地(現山口市徳地)の宗円寺で荼毘にふされ、かつての給地と思われる防府市の阿弥陀寺に葬られたとのことです[ 系図A ]。 恐らくは下徳地の宍戸領を隠居地としていたものでしょうか。

史実における婚姻

さて、この婚姻を史実を背景に検討してみます。 まず、年齢的には元続(当時は元孝か)は永禄6(1563)年の生まれとされますので、天正10(1582)年に丁度20歳となります。 元続妻が織田信長の娘であることが事実であれば、元続が成長するまさにその時期に対織田戦争のさなかにあった毛利家で、天正10(1582)年を境としてその状況は一変しているはずです。 また、遅くとも天正11年までには次弟の元盛が母方に当たる内藤氏に婿養子として入っており[4]、これより元続の婚姻が大幅に遅いという事情も考え難いようにも思われます。

対織田戦争に忙殺されていたであろうとは言え、天正6年から8年からにかけての時期には既に元続が隆家の跡を継ぐことが決まっていたようにも見える[5]ことを考慮すると不自然な部分ではあります。

と大きく謎は残るままだったのですが、この問題に対して西尾和美氏がひとつの回答を提示されています。 その内容が掲載されている『西国の権力と戦乱』から「第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」[6]より、その概略を紹介します。

信長娘の正体

まず、結論から入ると宍戸元続の妻とされる信長娘の正体は、毛利氏家臣となった長門内藤氏の娘であろうとのことです。 元続との婚姻に先んじて、輝元の養女として羽柴秀勝へと嫁しており、その父は内藤興盛子の元種と伝わるようです。 これが確かであれば元続からみても、毛利輝元からみても母方の従姉妹に当たる存在となるはずです。

以前より、羽柴秀勝と毛利氏の間に婚姻が結ばれたことは知られていたようですが、西尾先生は右田毛利氏へ伝来した文書、そして毛利家文庫に伝わる史料などから、その女性が宍戸元続へと再嫁している可能性について示されています。 また、その婚姻自体、毛利氏と豊臣氏の間を結ぶ意味合いも深いものではなかったかとの検討もなされています。 一方、残念ながらその婚姻が離縁に至った経緯については不明なままと言えそうです。 その詳細については次項にて紹介したいと思います。

注釈

  1. 福永タミ子『霧の墓』(渓水社、1997年)
  2. 山口県文書館『防長風土注進案』「第7巻 熊毛宰判」小松原村(マツノ書店、1983年)
  3. 天正11年8月13日 吉川元長起請文(『大日本古文書 家分け文書吉川家』1247)
  4. 山口県周南市小松原、仙竜寺跡
  5. 天正6年の上月城攻めに元続が初陣で宍戸勢を率いたと伝える他(等々力不染軒編『宍戸記』、呼坂活版所、1934年)、以下の書状でも祖父隆家と山内氏との間の交渉がみられます(天正8年9月6日、宍戸元孝・隆家連署起請文(『萩藩閥閲録』第1巻、13 山内縫殿))。
  6. 川岡勉、古賀信幸編 「日本中世の西国社会1」『西国の権力と戦乱』西尾和美「第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」(清文堂出版、2010年)

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