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織田信長の娘の正体 [人物]

  • 第2版 2012/1/22 杉四郎兵衛について「八箇国分限帳」の内容について言及

前回に引き続いて、織田信長娘と伝わる宍戸元続の妻の正体として見出された内藤氏の娘とその周辺について、『西国の権力と戦乱』から西尾和美先生の「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」[1]をベースに取り上げていきたいと思います。

「司箭伝 付宍戸元続室家之弁」

これは山口県文書館所蔵の文書であり[2]、江戸時代に編まれたと思われる「司箭伝」「司箭伝弁疑」「宍戸備前守元続君[永禄六ノ生]之始之御内室之事」から構成されているとのことです。 宍戸司箭についてもどのように記されたのか興味深い史料ですが、あくまで最後の一編が今回の話題に関するものとなります。 その内容は、当時知られた情報から宍戸元続の婚姻についてまとめたものとなっているようですが、江戸時代、既に宍戸氏の系図に記された内容に疑問、興味を持ち、精査した人物が存在した、ということも大変面白いものです。

西尾先生の論文には、全文の翻刻が掲載されていますが、ここでは概要を説明して行きます。 これによると当時、系図上、信長娘と宍戸元続の縁組について以下のような伝説が伝わっていたとのことです。

内藤左京某ノ姉妹ニ而

輝元公御養女、織田城介信忠[信長嫡子也]之嫡於次丸へ御縁談、於次丸卒去之後元続君へ入輿後離縁也、在京終身ト云々

このように同誌は、その伝承のうち於次丸を信忠嫡子とする誤りを指摘し、これは丹波中納言秀勝に対して輝元との縁談が発生したものを指しており、信長の(子の)嫁に当たるものであろうと、的確な指摘がなされていることがわかります。

また、於次丸との縁組という視点では、

輝元公ノ御母妙寿様ノ御弟内藤少輔七郎元種女ニテ、輝元公御従弟なるを御養女ニして遣ハさる処ニ~(中略)~古き系図ニも元続君ノ御室ハ内藤少輔七郎元種女又口羽通良女とあり~(以下略)

という形で、やはり内藤元種の娘が輝元養女として羽柴秀勝へと嫁いだ後に宍戸元続へと嫁いだことが掲載されているとのことです。 また、さらには元倶の妻となったこの元続娘(松崎)は寛永3年に38歳で亡くなったと伝わることから、天正17年の生まれとなり、前年の輝元上洛で成立した婚姻ではないか、としています。

以上、西尾氏の研究により、江戸時代の毛利家中において宍戸元続と「信長娘」の婚姻がどのように捉えられていたのかを知ることができました。

さらに、西尾氏は右田毛利氏へ伝来している「安芸の五もし」宛の書状が元続妻の可能性が高いことを指摘の上、江戸時代に入り、豊臣秀吉との関係を示すことがはばかられ、文書についても宍戸家には残されず、その娘が婚家へと持ち込んだものが残ったのではないか、と考察されています。 また、同様に宍戸氏の系図に元続の妻が織田信長娘と記された理由も同じところにあるのではないかと結論づけられています。

系図に見る内藤元種

西尾氏は特に触れられていない部分ですが、以下、系譜類から内藤元種とその妻について確認できるものを探してみました。

内藤氏の系図[3]では元種について勝九郎、勝左衛門尉とし、母親は毛利隆元室、内藤隆春と同じく山内直通女である、としています。 元種娘の兄弟と伝わる左京ですが、興盛嫡子で隆世の父に当たる隆時について左京大進と記していますが、元種子との関係は不明です。

また、他の系図としては江戸時代に編纂されている「長陽重臣略系」[4]の内藤氏の項では元種について以下のように記載されています。

内藤勝九郎
娶 福原下総守廣俊女 元種死後嫁口羽伯耆守道良

勝九郎の名乗りは変わりませんが、その妻が毛利氏の重臣福原氏の出身であり、後に口羽通良へと再嫁した旨が記されます。 その妻が毛利氏の重臣福原氏の娘であることを考えれば、この婚姻、そして元種娘の出生も毛利氏が防長を収めて以降のものと考えられそうです。

一方、福原氏の系図[5]では、この元種へ嫁いだ女性について、福原広俊の娘として以下の記載があります。

前嫁内藤少輔九郎元康 後嫁口羽刑部大輔通良
天正二年甲戌二月十日卒 法名花岳寿栄

ここでは元種でなく元康となっていますが、少輔九郎の名前からも元種と同一人物を指していると思われ、その死後、口羽氏へ嫁いだとする記述は先の内藤氏のものと一致します。 また、少輔九郎は先にあった少輔七郎という伝承との関連も考えられます。 毛利氏の重臣福原氏との婚姻であること、毛利元就(あるいは隆元)から与えられたと思われる「元」の字からもその婚姻の時期は弘治年間以降と考えてよいのではないでしょうか。

つづいて、口羽氏の系図[6]ですが、通良の妻を福原下総守広俊の娘とし、その子供のうち、男子2名、女子6名をその母であるとしています。 ただし、永禄7年に亡くなった広通についてもその母とし、さらに広通の上に姉2人を置いています。 この場合には広俊娘は少なくとも天文年間末期には通良に嫁いでいたこととなりますが、これは元種との想定される婚姻時期と整合しません。

口羽氏の系譜自体、口羽氏の嫡流が途絶えたこともあってか、通良の出自も志道広良の子であるのか、弟に当たるのかすらはっきりしないようです。 「長陽重臣略系」では通良を広良弟とし、刑部大輔、下野守、妻を福原下総守貞俊女、内藤勝五郎元種女とし、さらにその子の位置に伯耆守道良を置き、こちらの妻を福原下総守広俊女とするなど混乱が見られます。

ここで口羽氏との関係においては重大なものが一つ存在します。 それは、宍戸元続が前妻と離縁後に再婚した相手が口羽通良娘であると伝わることです。 口羽氏の系図上ではその母を家女と記しますが、通良へと再嫁した福原広俊娘が実母である可能性についても決してゼロではないのではないでしょうか。 口羽通良の活動時期からも、元種妻が再嫁しているのであれば、その姉が通良先妻であった可能性もありそうです。

福原氏系図にあるとおり天正2年にこの女性が亡くなっていたとしても年代的には元続後妻の母としても符合しますし、そもそも元種の死没年代によっては「信長娘」と伝わったこの女性が母とともにあり、口羽氏の元で育ったのかもしれません。

婚姻の周辺

もう一人の娘

この女性の兄弟と目される内藤左京は不明ですが、もう一つ、「萩藩閥閲録」にもこの内藤元種に関連する家の存在が見られます。 内藤権兵衛家[7]はほとんど証文類を伝えていませんが、その出自を以下のように記しています。

私先祖内藤庄左衛門元種 内藤隆春弟 娘、杉四郎兵衛と申者に嫁、私父権兵衛を出生仕候、四郎兵衛妻は隆春姪に付て化粧免六拾四石被遣、此化粧免を父権兵衛に被下置之御奉公仕候故実父之称号を不用、母方之称号内藤に罷成候、杉少輔四郎に被下置候御判物致所持候得共、杉家之続申伝迄にて不分明候

ここでは元種は庄左衛門として現れますが、これは勝左衛門尉とする内藤氏の系図からも同一人物と言えます。 この杉四郎兵衛については、恐らく大内氏家臣の杉八家と称された一族のうちの誰かではないかと考えられます。 吉重と伝わるその名が正しければ、比較的杉重矩に近いのかもしれませんが、詳細は不明です。 ただ、天正末から文禄初期を反映していると思われる「八箇国分限帳」では杉四郎兵衛の名前が見えており、長門豊田郡で100石余りを給付されていることが分かります[8]ので、四郎兵衛が実在し毛利氏家臣であったっことは間違いないようです。 防長経略後も毛利氏の家臣として生き延び、かつての大内氏家臣時代のつながりから元種の娘を妻としたとも考えられます。

閥閲録編纂当時の内藤権兵衛義之から見て祖母の姉妹が元続妻に当たるということになりますが、それに関する情報は何もありません。 あるいは元続との離縁後、さらに当人が杉四郎兵衛へと嫁した可能性もあるのでしょうか。

離縁後の「信長娘」

元続との離縁の理由など、今となってははっきりする可能性も殆ど無いと思われますが、離縁後の動きについても不明なままです。 風土注進案が伝える通り、娘と共に三丘の地にあったのか、あるいは「司箭伝 付宍戸元続室家之弁」にあるように「在京終身」であり、あくまで三丘に残るのは供養塔であるとも考えられます。 その死が墓塔に残る通り元和4年であれば、恐らくは50から60歳での死没であったものでしょう。

関係略系図

系図に残る「信長娘」の正体は意外なものでした。 最後に本項での関係者の略系図を示してこの「信長娘」の話を終わりたいと思います。

     毛利元就―隆元―輝元
         ―元政
          :
     天野元定=元政―――――――――元倶
                     |
   口羽通良―――――――――女子   |
     |          |―広匡 |―元法
     |    宍戸元秀――元続   |
     |          |    |
福原広俊―女子         |――――松崎
     |―左京?      |
     |――――――――――女子(「信長娘」)
     |――女子      |
内藤興盛―元種 |―内藤権兵衛 |
       杉四郎兵衛吉重  |
                |
        羽柴秀吉====秀勝
                :
   織田信長―――――――――秀勝

注釈

  1. 川岡勉、古賀信幸編 「日本中世の西国社会1」『西国の権力と戦乱』西尾和美「第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」(清文堂出版、2010年)
  2. 「司箭伝 付宍戸元続室家之弁」(山口県文書館所蔵)
  3. 田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』「35 寄組内藤家」(マツノ書店、1980年)
  4. 山田恒嘉編 山田恒通跋『長陽従臣略系』(東京大学史料編纂所公開用データベース
  5. 『近世防長諸家系図綜覧』「14 永代家老宇部福原家」(3に同じ)
  6. 『近世防長諸家系図綜覧』「55 寄組口羽家」(3に同じ)
  7. 『萩藩閥閲録』第3巻「巻129 内藤権兵衛」(マツノ書店、1995年)
  8. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)

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