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石井村での合戦 [合戦]

重見氏の居城、近見山城の麓に位置するかつての越智郡石井村には一つの戦国期の合戦にまつわる伝承が残されています。 ただし、ほとんど公には取り上げられていないもので、近世の地誌にすら姿の見えないものです。 その虚実を確かめる術は今のところないのですが、まずはこの戦いを紹介してみます。

石井村での戦い

かつての石井村(現今治市石井)の大山祇神社には松の大木による扁額が残っており、その謂れが氏子の手により記されています。 そこに石井村近隣で近見山城主重見氏が関わった合戦があったと伝えていますが、まずは下記の写真でその内容を示します。

石井村大山祇神社

これによれば、天正11(1583)年3月16日、重見氏の軍勢が長宗我部氏に敗れます。 多くの兵が石井村で亡くなり、村人はその兵を埋葬した後に松の木を植え、寛政年間、祇園牛頭天王を祭ったそうです。 明治になり、松の木を伐採するよう命じられたため、その一部を扁額とし、この説明文が記されたのが明治4年ということのようです。 現代の個人名を含むため、写真の説明板の左端部分は割愛しましたが、その部分から明治4年に記載されたものを昭和60年に当時の氏子が書き改めたものと思われます。

大山祇神社の他、同じく旧石井村内の須賀神社にも同じものがあったはずですが、こちらが牛頭天王を祭ったとあるその社でしょうか。 また、明治4年の氏子中世話人としては石井村、大新田村から名前があがっているため、恐らくはこの両村の各社に同様に扁額が奉納されたのでは、と考えられます。

合戦の虚実

この石井村に伝わる合戦について確認してみます。 まず、天正11年3月前後に限定した場合、考えられるのは長宗我部軍の侵入ではなく、毛利、河野連合軍と織田方に走った来島村上氏との間の合戦ということになります。

天正10年4月、毛利氏からは沖家と称される来島衆の河野氏離反が決定的となって以降、両者は伊予国内で戦闘を開始します。 5月には近隣の大浜を毛利、河野連合が焼き払い、檜垣孫兵衛を討取った旨が毛利輝元の書状に見えます[1]。 また、6月24、25日付けの書状でも河野通直が道前へ出馬する旨が記されています[2]。

乃美宗勝と村上武満が道後、すなわち河野氏の本拠で残した覚書[3]にも通直が符(府)中表へ出陣する旨が記されています。

  覚 於道後御相談之辻、
一、至符中表、通直御出張之事、
    付、平遠・黒河馳走之事、
    付、正岡衆大略被調事、
一、今度警固数難出事、
    付、見合不及一戦之由、武吉被申事、
一、村河之申事、重而矢野被上進事、
    付、七郎進退言上之事、
    付、所帯之事、
一、能美左馬允事、
    付、村河被申事、
一、三嶋左太被申事、
    付、甘崎半之事、
    以上       宗勝
             武満

宗勝と武満が道後へと向かい、そこで村上武吉、村上吉継やその他有力な伊予の武将との調整がなされたものと思われます。 ここでは平遠(浮穴郡の有力国人平岡遠江守通倚)、黒河(周布郡の有力国人黒川氏)が協力すること、正岡衆に対する交渉が整ったことなどが記されており、河野方に残留した村上吉継、能美氏らについても記されますが、重見氏の動静は見えません。

そして、まさに天正11年3月は「来島城攻撃は「一着」したとして「逆意の仁」たる得居通幸を攻めるべく、その居城鹿島表へ陣替えを行った」と山内譲氏が取り上げられているとおり[4]、状況に何らかの変化があったことが河野氏支援のため伊予に援軍として派遣されていた井原小四郎に宛てた3月13日づけの小早川隆景書状から伺えます[5]。

来島城の村上通総は来島城を捨て、逃亡したとされます。 久留島氏に伝わる史料でも、このあたりの経緯には諸説あるようですが、いずれにせよ来島城が先に河野氏らの攻略目標となったことは確かなようです[6]。

このように、いずれにせよ天正11年3月、あるいはそれ以前に来島城は落城しており、隆景の書状は掃討戦を含め府中方面の制圧が終わったことを意味するものでしょうか。 ここから16日の段階ではこの地域の戦闘は収束していた可能性が高いのですが、その最後の大きな戦いが3月頃であったとも受け取れ、石井村に残っていた伝承はなにがしかの真実を含んでいる可能性も十分に考えられます。

その後、この書状の内容を裏付けるように鹿島城に篭もる得居通幸を対象に、風早郡での戦いが続いていくことが史料からも伺えます。

長宗我部軍襲来の伝承

一方、これを伝承としてみた場合には、来島氏と河野氏の争いは、伊予の人々の記憶から忘れ去られる中、長宗我部氏が伊予奥深く、土佐の真裏にあたる越智、野間郡へと侵攻していたという認識が生まれていたことになります。

これと同様な事例としては四国八十八ケ所第54番札所の近見山延命寺の伝承にもみられます。 侵攻してきた長宗我部軍が延命寺の鐘を奪い去ろうとしますが、兵士が鐘を船に載せたところ、鐘が自ら海へと沈んでいったというものです[7]。

延命寺は、その山号のとおり江戸時代に現在地に落ち着くまで近見山山上にあり度々兵火にあったと伝えます。 この通りならば、まさに延命寺から鐘を奪うということは近見山城を攻めるということでもあり、石井村の伝承とも共通の背景を持つものかも知れません。

天正10年の沖家騒動(来島村上氏離反)で厳島が騒然としたことや、小早川隆景により備後へと持ち去られた「大般若波羅密多経」[8]の事例などをみるに、船で鐘を運ぼうとしたとすることと合わせ、この延命寺の鐘についても実際には海賊衆来島村上氏や毛利、小早川系の誰かの手によって鐘が奪われたと考えるの方がより妥当かと思われます。

こうした伝承に引きづられた訳ではないのでしょうが、『大日本史料』では、天正12年の野間郡での合戦を長宗我部軍と河野氏を支援する毛利軍との間のものと誤認してしまったようです[9]。 これにより長宗我部系研究者の間でも誤解が広がるという副作用を見せることともなりました。

注釈

  1. 2309 5月9日 毛利輝元書状(「村上文書」)(『愛媛県史 資料編 原始・中世』、1983年、以下『県史』)
  2. 2315 6月24日 小早川隆景書状、2318 6月25日 毛利輝元書状(いずれも『県史』収録「村上文書」)
  3. 「乃美文書」133 乃美宗勝・武満覚(『新熊本市史』史料編 第2巻 古代・中世 、1993年)
  4. 山内譲『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』「第1章 安宅船が攻撃した海城―伊予鹿島城―」(平凡社、1997年)
  5. 「2372 (天正11年)3月13日 井原小四郎宛 小早川隆景書状」(「萩藩閥閲録 井原藤兵衛」)(『県史』)
  6. 『玖珠町史(上)』「第4編 森藩と天領(近世編)」(2001年)
  7. 54番 近見山 延命寺梵鐘伝説・四国昔話八十八ヶ所巡りなど
  8. 御調郡久井町江木 稲生神社「大般若波羅密多経」(『広島県史 古代中世資料編IV』、1978年)はその奥書から天正13年に小早川隆景が伊予大浜八幡宮のものを持ち帰って奉納したものです。この他にも因島椋浦観音堂に残る大般若経は伊予の新居郡にあったもので、これも天正の陣の折に備後へ移ったのではないかとされています(片山清「大旦那石川通昌中興大般若経由来 ー新史料備後国因島椋浦観音堂蔵版本大般若経等ー」(『伊予史談』300、301号、1996年))。
  9. 「毛利氏四代実録考証論断」の記載を採用したことようですが、沖家騒動についても豊富な資料を持っていた毛利家でこのような誤解に至ったのは不可解ではあります。

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