SSブログ

了超と休圓(1)-彦根明照寺- [人物]

宍戸景好の次子、元頼は叔母の嫁ぎ先興正寺との縁で近江の彦根明照寺(めんしょうじ)の12世として了超を名乗ったと伝わることが西尾和美氏によって紹介されました[1]。 景好の長子善左衛門元真も彦根に隠棲したと伝わり、その子知真からは彦根藩に仕えていることは前回見た通りです。

一方、景好の墓は山口近郊の小鯖村(現在は山口市の一部)にあり、その名を冠する景好寺が後に開かれています。 寺伝によればこの寺を開いたのもやはり景好の次子、大室休圓と伝わっています[ 史料31 ]。

このように景好とその子等の真宗に関わる縁は深いようなのですが、はっきりしない部分も少なくありません。 そこでまずは明照寺との関わりを見て行きます。

元頼

景好の次子の元頼については、西尾氏は「宍戸家文書」に含まれる系図[ 系図F ]に景好子の元頼について、下記のように毛利就隆に仕えていたが出家し明照寺の12世住持となり良長と号したこと、子は堺の善教寺の住持となったと記されていることを紹介されています。

初仕於毛利日向守就隆賜公暇、出家為江州一国総本寺明照寺住持、号良長、子泉州堺善教寺住職

他の系図でも

出家住于江州明照寺

と伝える『続群書類従』所収の「宍戸系図」[ 系図C ]や

宍戸式部、権少僧都 明照寺別当

と伝える『系図纂要』所収の「宍戸系図」[ 系図D ]などのように式部の名乗りと明照寺との関係は伝わっていますが詳細に記されたものはありません。 また、比較的早期に成立したと思われるこれらの諸系図が一貫しているのが山口近郊にあった景好寺の名前が出て来ないことです。

一方、景好寺の所伝においても景好次子が就隆に仕えていたとする部分は変わりませんが、彦根に隠棲していた兄善左衛門を頼って明照寺で僧となり、小鯖村に戻って景好寺を開いたと伝えています。 また、兄弟の名前も異なり、兄が景昭、弟は式部元頼ではなく右近景治となってきます。

明照寺了超

明照寺は彦根近郊の平田村にある真宗の名刹であり、本願寺直末であり末寺も多数抱えた、当時の彦根藩領内では真宗の有力寺院です[2]。

元頼がこの寺の住持となったのはやはり系図が伝える通り、興正寺門主准尊に嫁いだ叔母長寿院、そして従兄弟に当たる興正寺の新門主准秀との関係であると言えるのではないでしょうか。 明照寺了超の寺務相続が寛永8(1631)年と伝わることから兄元真に先んじて近江へ移っていたと考えられるようです。

また、明照寺の由緒記[3]の記述からは了超について、実名を通元で宍戸景好の子であると記されていることがやはり西尾氏の調査で明らかにされています。 西尾氏は、これらの記録から近江と景好の子らの関わりが確認できたとし、また明照寺の歴代住持の実名に「通」の字が通字として用いられていることを挙げて平岡氏との関係を示唆されています。

先の系図において了超の子が住持を務めたと伝えている堺の善教寺については、善教寺の末寺となる周防の真宗寺院は多く、了超の従兄弟、准円、良重が住持となった清光寺、その背後の興正寺との関係が了超の子を住持として迎える切っ掛けともなっているのかもしれません。

明照寺の立場と宍戸知真の召出し

元々、多くの末寺を抱える興正寺と、その興正寺を含む末寺を抱える西本願寺の間にはいくつもの対立の火種があったと言えます。 清光寺を介した防長の真宗寺院への影響力の行使もその一つでしょうが、承応元(1653)年、教義上の対立から本願寺良如と興正寺准秀の間に争いに発展した「承応の鬩牆(げきしょう)」は隠密理に解決がなされたとは言え、大きな事件となりました[4]。 この騒動の中で、了超も従兄弟の准秀に対して、准秀姉婿の摂津名塩教行寺准超と異見申し入れを行っていますが、准秀が天満に退去するに至ってはその関係も悪化したようです。

この時、将軍家綱が幼かったことや興正寺が有力親藩の一つ高松藩主松平頼重と親密であったこと[5]などから隠密理での解決を目指して井伊直政と西本願寺の間の古い縁から、江戸幕府では彦根藩主の井伊直孝を事態の収拾に当たらせています。 このトラブルは直孝の介入によって、承応3(1655)年、准秀が越後で蟄居することなどの条件でひとまず解決に至ります。

彦根領内の有力寺院ですあった明照寺、即ち了超は本願寺と彦根藩の間に立つことがあったようです。 本願寺側に課せられた学寮の取り壊しに当たっては、井伊直孝は在京の藩士や関係の深い京の商人らとともに、明照寺の関係者にもそれを確認し、報告するよう在国の家老に命じています。 これを受けて実際に明照寺関係者が京で取り壊しを見届けそれを直孝へと報告しています[6]。 また、本願寺の下間仲弘へ宛てた直孝書状[7]では何かあれば彦根城下の明照寺を通して連絡をするようにと伝えています。

宍戸元真の子で了超の甥でもある知真が彦根藩の中小姓として召し出されたのがこれら一連の事件の直後、明暦2(1656)年ですので「平田明照寺と遠縁之由」[8]という知真召出しの背後にはこのトラブルを含む彦根藩内外での了超の動きが強く関わっているのかもしれません。

関が原後の景好

景好と真宗との関係を見るために、ここで関が原直後に話を戻します。 西尾氏は、正岡休意書状[ 史料13 ]の内容から宍戸掃部が関が原後に生存のために毛利氏を離れていたのではないかと指摘されており、さらに、関が原から数年後に景好の下国に触れている佐世石見守書状[ 史料14 ]を見いだされています[9]。

西尾氏は景好が在国していなかった理由について踏み込まれてはいませんが、これが事実なら一つの可能性としては戦傷を負ったための療養目的が考えられるかも知れません。 慶長5年の伊予での合戦について『明公秘録』[ 史料12 ]は三津での夜襲で加藤勢が宍戸善左衛門を討取る寸前であった様を描き、直後に傷を負った善左衛門は伊予での戦闘が続く中、帰国したとしています。 これが事実かどうかは不明ですが、同じく在陣していた村上元吉、曽根景房が揃って討ち死にするほどの戦いであったことを考えれば有り得る話と言えるでしょう。

ただし、佐世石見守の書状はその宛先が興正寺の端坊であることから興正寺が関が原以降の景好の居所にも関係していたのではないかという指摘がなされていますが、この書状に現れる景好については比定し得る別人の景好が確認できます。 この”もう一人の景好”については別項で取り上げます。

景好と真宗

改めて見返すと景好と真宗の関係についてはあまり見いだすことはできないように思います。

景好と真宗との関係を挙げると、

  • (a)景好の名前がつけられその墓も存在する景好寺は景好次男の右近景治が開いたと伝わること
  • (b)景好次男元頼が彦根明照寺の住持となったと伝わること
  • (c)景好妹が興正寺門主准尊に再嫁したこと
  • (d)景好の叔母で輝元の正室南の方が真宗に帰依していたこと

などでしょうか。 しかし、これら4つのうち、最初の2つは矛盾する話であり時期的にも、景好隠居後の最晩年あるいは死後の話と思われるものです。 また、時期が不明な最後のものを除けば皆、関が原後の話でもあります。

景好の周辺では、三男良春も出家したと系図にはありますが真宗ではなく密教の僧となったようですし、末娘が嫁いだ松平采女正忠節も日蓮宗との関係が深く[10]、真宗門徒ではないようです。 また、景好との関わりが伺える寺院としての小鯖村の春松院も泰雲寺の末寺として禅宗ですし、通直母子を弔った竹原の長生寺も真宗ではないようですので、景好にとって近しい伯母(叔母)の春松院も真宗に帰依した訳ではなさそうです。

平岡氏とのつながりで見ても、屋代島に残る平岡直房の系統の菩提寺は禅宗であり[11]、伊予でも真宗との関係は見えません[12]。

このように景好自身が深く真宗に帰依していた様子を示すものは何も見えません。 景好寺自体も景好の死後の創建であるため、むしろ、叔母の清光院や妹の長寿院の存在が景好の子元頼に影響した(あるいは明照寺後継者として白羽の矢が立った)と言えるのではないでしょうか。

まとめ

経緯は別として景好の次子元頼が明照寺の住持となったことは、毛利氏、宍戸氏と興正寺との関係を見ても確かなように思われます。 また、そこに河野氏に関する文書が伝わっていたのは、河野通直の母、春松院から宍戸景好を介したものと理解してよいのではないでしょうか。

そうした場合に宙に浮いてしまう景好寺の問題や、もう一人の景好、そして河野氏に関する伝承について続いて見ていきます。

注釈

  1. 西尾和美「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(『四国中世史研究』第10号
  2. 『新修 彦根市史 第2巻』「第7章 近世の宗教・文化・社会 第1節 宗門改めと本末制」(2008年)
  3. (1)において、『後谷 光明遍照寺由緒記并伝』(彦根市妙厳寺本多深諦氏所蔵写本)の記述として。
  4. 平田厚志『彦根藩井伊家文書 浄土真宗異義相論 (龍谷大学仏教文化研究叢書20)』(法藏館 、2008年、以下「異議相論」)
  5. 松平頼重の父で水戸藩主徳川頼房の側室の一人が准秀の姉である縁と思われます。頼重の弟で准秀姉の子の一人が以前紹介した松平頼隆です。また、(4)によると頼重の他にも准秀らの蟄居先となった高田藩主松平光長や松江藩主松平直政、騒動初期の京都所司代板倉重宗の対応など総じて興正寺寄りあるいは寛容な対応が目立つようです。
  6. 「浄土真宗異義相論」4-14 (明暦元年)7月13日 木俣守安、庵原朝真、木俣守明宛 井伊直孝書状、4-74 (明暦元年)7月23日 木俣守安、木俣守明、庵原朝真宛 平田明照寺内祐古、奈里清右衛門、長浜文蔵、大河権右衛門書状、4-73 (明暦元年)7月24日 脇豊重、宇津木久重、木俣長介宛 木俣守安、木俣守明、庵原朝真書状(「異議相論」)。直孝の指示を受け、実際に明照寺から祐古が在彦根の家老へと報告を行っています。
  7. 「浄土真宗異義相論」5-14 (明暦2年)8月26日 下間仲弘宛 井伊直孝書状(「異議相論」)
  8. (1)において、「御家中先祖記録」(『長久寺文書』)の記述として取り上げられていますが、西尾氏は叔父甥の関係にあるはずのものを遠縁としたことに「齟齬が残る」と指摘されています。
  9. (1)において、同書状をその内容から、景好の帰国に触れた慶長11年以前のものと推定されています。
  10. 景好娘の嫁ぎ先松平忠節の生母日安尼の草庵を寺としたのが当時は日蓮宗の了俒寺です(天台宗東京教区 了俒寺
  11. 『防長寺社由来』第1巻(1982年)によれば、萩藩平岡氏の菩提寺で和佐村の心月院は禅宗です。
  12. 「平岡氏」(岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1999年)によれば通倚の石塔が浄瑠璃寺(真言宗、現愛媛県松山市)にあるようです。また、先祖の戒名から取ったとする心月庵の名は通倚の戒名と伝わる「耕雲尉殿種月英心大居士」から取られたものでしょうか。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 

nice! 0

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 1

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。