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松尾芭蕉と河野家文書 [人物]

江戸時代の俳人として著名な松尾芭蕉ですが、近江の彦根平田村にある明照寺について調べていくと、そこにも芭蕉の句碑や、芭蕉が用いた笠を埋め、その上に立てたと伝わる笠塚など、何らかの関係に行き当たることになりました。 そして、その話は思いもよらず宍戸景好や河野氏とも関わりを見せていくことになります。

李由と河野通賢

明照寺で芭蕉が句を詠んだのは弟子の李由との関係であり、師の死後にその笠を貰い受けて笠塚を立てたのもこの李由です。 明照寺に縁のあるこの俳人李由を調べると、この人物が明照寺の14世、すなわち宍戸景好の子と伝わる12世了超の2代後の住持であっただけではなく、驚くべきことにその名を河野通賢としても伝えられていることがわかります[1]。 少なくとも文学史(あるいは俳諧史)上では明照寺14世で芭蕉の弟子でもあった李由は河野通賢であると理解されているようです。

祖父で景好の子である了超の存命中である寛文2(1662)年に生まれた李由は、芭蕉の弟子とは言え、その関わりがはっきり見えるのは芭蕉の晩年、元禄4年以降のようです。 ただ、李由自身が「蕉門に入て学をつむ事二十余年」[2]と書いていることから、それ以前からの弟子であったとも考えられるようです[3]。

俳人としての李由の事績の多くも芭蕉の死後の彦根の俳壇での活動にあるようで、その動きには李由の親友、森川許六の姿が常に見えています。 そして、李由を河野氏の出身と記すものも、許六が書いた文の中でのこととなります。

森川許六と李由

芭蕉の門人として彦根俳壇の中心にあったと言われるのが、彦根藩の中級藩士であった森川許六でした。 後世、芭蕉の高弟を指して蕉門十哲と呼ばれる人々の一人に挙げられる人物でもあります[4]。

許六が芭蕉の門弟となったのは芭蕉の最晩年、死のわずか2年前の元禄5年のことで、当時江戸詰だった許六は芭蕉の門下に入り深く交流し、その才能を認められる一方、芭蕉は許六を絵画の師としていたとも伝わります。 やがて訪れた許六の帰国が、許六と芭蕉の最後の別れになったようですが、その際、芭蕉が許六に送った言葉が「柴門の辞」として知られています。

その許六と李由は彦根俳壇の中心をなし、『韻塞』『篇突』『宇陀法師』などいくつかの選集を二人で世に出しました。 許六の『本朝文選』の序文も李由は書いていますが、その刊行を待つ事なく李由は宝永2(1705)年、44歳で亡くなります。

李由を河野氏としているのはこの『本朝文選』の許六「断弦ノ文」においてであり、そこには

江東平田の邑、光明遍照寺、十四世の僧、亮隅上人。字は李由、一の字は買年、四梅盧と号す。嘗て律師に任ず。姓は河野の嫡流にて安芸の宍戸を兼ね合わせたり。母はなむ、やむ事なき深窓の娘にして、藤原なりけり。

と書かれており、河野氏というだけでなく宍戸氏との関わりも示されています[5]。

この文章の最後は、李由の死とその後を記すことから、李由の死を受けての思いを許六が綴ったものと言え、その「風雅に交わること二十余年、僧は寺を忘れ、我は家に帰ることを知らず。ひとつ蚊帳にむれ入り。同じ衾に足をつつむ。」といった一節からも、李由と若いころからどれだけの深い付き合いであったかということが伺えます。

また、その李由死後の描写に「和泉なるはらからの御坊も」と記されていますが、これは元頼(了超)の子が継いだと伝わる堺の善教寺の縁で弔いに訪れた僧が居たのでしょうか。

彦根藩森川氏と宍戸氏

森川許六が彦根藩士ということでその詳細を知るために順次翻刻、発刊されている『侍中由緒帳』にあたりましたが、それには現状森川氏分は含まれていませんでした。 しかし、藤井美保子氏によって森川氏分が翻刻されており[6]、その内容を確認することができました。

それによれば、許六は森川百仲、あるいは五助と言い、彦根藩の中級藩士で当時300石の知行を得ています。 彦根藩森川氏は旗本森川氏の一族で、井伊直孝に召し出された許六の2代前の与次右衛門重親が初代となります。 許六の父は同じく彦根藩士である小山氏からの養子でした。

許六に関して注目すべき点は、許六の跡を継いだ百親は実子ではなく、許六の娘が彦根藩の宍戸家に嫁ぎ、そして生まれた子の一人が養子となっていることです。 許六の娘の嫁ぎ先は宍戸四郎左衛門家の2代目とありますので、彦根藩に召し抱えられた知真の子で元真の孫に当たります。

この許六の娘が宍戸氏に嫁いで生まれた許六の孫から2人が宍戸氏、森川氏をそれぞれ継ぎ、他にもう一人の男子三太夫はやはり彦根藩士で許六の父の実家である小山氏を継いだようです[7]。 このうち宍戸氏を継いだ知勝は文六を名乗っているようですが、これは外祖父許六にちなんだものかもしれません。 また、後に知勝の子で宍戸氏4代目知昭[8]、百親の子で森川氏5代目氏仲の記事にはそれぞれ従兄弟小山武兵衛に暇を出されるとありますが、この武兵衛は三太夫の子ということになりそうです。

古くは昭和初期頃の評伝においても、許六の娘が宍戸氏に嫁いだことは知られていたことがわかります[9]が、そこで「李由の宍戸氏は安芸であり、彦根藩宍戸氏は長門の出身としていることから別族である」としているのは当然ながら誤りです。 裏を返せば、李由の出自について許六が残した「河野氏嫡流」に比べ、李由あるいは明照寺と彦根藩宍戸氏の間柄を示すものがほとんど存在していない、或いは知られていないことを示しているとも言えそうです。

許六と李由の縁

許六を中心とした彦根俳壇を構成していたのも多くの中級彦根藩士だったようです[10]。 彦根藩宍戸氏もまた当時200石の知行を受ける中級藩士でした。 森川氏は真宗門徒ではないようですし[11]、許六の親友となった李由との繋がりも彦根藩での同僚である宍戸氏、そしてその縁戚に当たる明照寺住持の縁で繋がったと考えるのが自然かも知れません。

このように彦根藩宍戸氏、明照寺双方と深い関係にあった許六ですから、その系譜について隠された事情も深く知っていたと考えることもできるかもしれませんが、その実を確認することは今となっては難しいでしょう。

宍戸氏、森川氏、明照寺住持河野氏関連系図

            =百親―氏仲―……
  森川重親=重宗―百仲―女子
         (許六)├―百親(森川)
             ├―③知勝-④知昭―……
             ├―三太夫(小山)―武兵衛?
宍戸景好―元真―①知真―②□□(四郎左衛門)
    ―12元頼―13通仁―14通賢―15通惠―女子
     (通元)    (李由)(自蹊)|
     (了超)           16通玄―明曜(千羅)
  • 丸つき数字は彦根藩宍戸氏
  • 数字は明照寺住持

その後の彦根俳壇

李由、許六らが世を去った後も、彦根俳壇の活動は続きますが、彼らの血縁にあたる俳人についてもその動向を伺うことができます。

例えば、彦根俳壇における許六の後継者の一人が森野冶天ですが、その同世代に許六の孫三太夫もいました。 宍戸氏に生まれた三太夫は先に見た通り許六父の実家小山氏を継ぎますが、陀鸞と名乗って彦根俳壇でも活躍します。 しかし、風土病で急死してしまい、これは彦根俳壇にとっても大きなショックだったようです[12]。

また、李由の子孫も代々自蹊、錦坡、李蹊と号して俳人としての活動が見られます[13]。 さらに堅田の真宗寺院、本福寺への河野氏関連文書の伝来について、西尾氏が16世亮淳子の次男が入嗣したことを取り上げられていますが、俳諧の世界から見るとこの本福寺15世明曜(俳号千羅)の先代14世明髄(俳号未角)も俳人であっただけでなく、その系譜を辿ると許六や李由を蕉門へと導いた俳人千那(本福寺11世明式)に行き当たるようです[14]。

本福寺5世明宗が河野氏出身と伝わる[15]ように本福寺への入嗣は千那と李由の関係が全てではないでしょうが、河野文書の本福寺への伝来の背景を辿ると松尾芭蕉の存在があったとするのも全くの間違いではないと言えるかもしれません。

李由と河野氏の縁

明照寺に伝わる『後谷 光明遍照寺由緒記并伝』[16]においては了超以降の歴代住持について河野氏の文言が見えないのではないかとも思われるのは、西尾氏が伊予との関係についてこの系譜の歴代の諱を上げて「通」の字を用いることを「看過できない事実ではないだろうか」書かれているのみであることから伺えます。

唯一、許六のみが李由あるいは明照寺の系譜を指して河野氏と書いたのではないでしょうか。 それが広まり俳諧史上においては李由が河野氏と紹介されることとなったとも考えられますが、明照寺にあった河野氏に関する文書が採録された際にも見落とされたのか、未だに指摘がなされていないのは不思議でなりません。

「河野の嫡流」が、現に祭祀などを引き継いだ実態のあるものであったのか、それとも李由の系譜の事情を知った許六が話を膨らませたものかも今のところ不明と言えそうです。 ただ、彦根藩宍戸氏が「知」の字や「四郎左衛門」の名乗りから宍戸氏の遠祖八田氏を強く意識しているように見える一方で、明照寺の元頼の系譜が河野氏に繋がる「通」の字を用い、山内氏、西尾氏の言われるように河野氏に関する文書類が伝わっていた事実は残ります[17]。

まとめ

山内氏、西尾氏の研究により、近江の明照寺、本福寺に伝わった合わせて10通以上の河野氏関連文書は河野通直あるいは通直母の春松院から宍戸景好を介して伝わった可能性が示されたと言えるのではないでしょうか。

春松院の死後、もし景好の元に河野氏に関連する文書や什器の多くが伝わったていたのだとすれば、これらが明照寺だけでなく、萩藩河野氏や広島藩築山氏にどのような経緯で伝わったのか、今後再検討されていくのではないかと思います。 そして、そうした研究を通して景好自身の出自と、河野氏との関わり方についてより一層知見が深まることを期待したいところです。

注釈

  1. 河野李由(kotobank、デジタル版 日本人名大辞典+Plus)、河野李由(芭蕉DB)
  2. 森川許六『本朝文選』李由「笠塚ノ碑」(大磯義雄、大内初夫校注『蕉門俳論俳文集』古典俳文学大系 10、集英社、1970年)
  3. 尾形仂「河野李由」(『俳句講座』第3巻 俳人列伝 下、明治書院、1959年)
  4. 尾形仂「森川許六」(『俳句講座』第3巻)
  5. 森川許六『本朝文選』森川許六「断弦ノ文」
  6. 藤井美保子「森川許六家の由緒帳--史料翻刻・解題『侍中由緒帳』(48)森川五介家」(『成蹊人文研究』16号、2008年)
  7. 藤井美保子「彦根蕉門の系譜・中村逸丸の存在-平田町町代中村家文書から-」(『成蹊人文研究』17号、2009年)
  8. 「宍戸四郎左衛門家」4代宍戸四郎左衛門書出(『侍中由緒帳』第6巻、1999年)
  9. 各務虎雄「李由・千那・智月・乙州・正秀」(『続俳句講座』第1巻、改造社、1934年)
  10. 藤井美保子「森川許六と彦根俳壇」(『成蹊国文』39号、2006年)
  11. 石川柊『孤高の才人五老井許六』(朱鳥社、2005年)に、許六の墓が彦根の曹洞宗長純寺にあることが記されています。
  12. (7)の記述より。
  13. 西村燕々編『近江俳人列伝』(近江史料シリーズ3、滋賀県地方史研究家連絡会編、1978年)
  14. 千葉乗隆『本福寺史』(同胞者出版、1980年)
  15. (14)より。同書には河野氏の系図の写真もありますが、明宗の父とされる宣高が晴通、通宣の兄弟として書かれていることがわかります。天文9(1540)年に72歳でなくなったと伝わる明宗の系譜の位置付けとしては不適当に思われます。
  16. 『後谷 光明遍照寺由緒記并伝』(彦根市妙厳寺本多深諦氏所蔵写本)、(1)の記載より。
  17. 山内譲『中世瀬戸内海地域史の研究』「第三部 地域権力の形成と展開 第四章 河野氏関係史料の研究」(法政大学出版局、1998年)では本福寺に残る文書を実見された山内氏はそれらを正文であると記されています。

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