杉原春良の子供たち [人物]
杉原春良の子については譜録によれば跡を継いだ景良の他に4人の娘がいたとされます[1](ただし、『長陽従臣略系』(以下『略系』)[2]では景良の他に娘一人しか記されていません)。 その子供たちについて、関わりのある人物について伝わるものを他の資料からも調べてみました。
杉原景良
春良の男子で与七郎、太兵衛。 慶安3(1650)年4月28日に70歳で亡くなったと伝わります[3]ので、そこから逆算すると天正9(1581)年の生まれとなります。
隆景から偏諱を受けていることから、西尾和美氏は河野氏内部での杉原氏の立場について、旧来からの河野氏家臣とは違う位置付けにあった[4]とされていますが、伝わっている生没年が確かであれば偏諱を受け景良を名乗ったのは通直死後、河野氏滅亡後の可能性が非常に高くなりますのでこの指摘は当たらないように思います。
関が原では宍戸元続の組下で活動し、慶長10年に遠縁でもある熊谷元直等が誅殺された後の毛利家臣団の連署起請文[5]にもその杉原与七郎の名が見えます。 ただし、寛永2年の毛利輝元の葬儀[6]や寛永3年の給地帳[7]にはその名前を確認できません。 一方で、『略系』では春松院の妹に当たる輝元妻清光院の側にいたとしています。
『閥閲録』では、寛永9年に加増200石がなされたものの、正保3年、益田無庵(元堯)御改めの際に暇を出され、その後、松平大和守(直政)の口添えで毛利氏に帰参したとしています。 この一下級藩士の帰参に大身の譜代大名の名前が出てくる件について、『略系』では加増は後に述べる甥の武田道安の推挙で、召し放たれた後の松平大和守の口添えも道安を通してのものであったとしています。
妻は宮与左衛門元在女で、子がなかったために跡を宮与兵衛の子が継いでいます。
熊谷直重妻
直良の娘の一人は熊谷又右衛門直重に嫁いだと伝わっています。 春良の母方の祖母は熊谷氏の出身ですので、当然そうした縁で繋がった婚姻と考えられるものですが、熊谷直重とはどのような立場の人物でしょうか。
『略系』の中に熊谷氏の系図もありますが、ここに直重の名前を見つけることができました。 それによれば信直の子で吉川元春の妻となった女性の次弟に当たる直清が父親にあたり、その末子に位置していますが、朝鮮で戦死と記されています。
又右衛門の箇所には杉原氏との関わりが記されていない一方で、同人の兄である九郎右衛門直之には杉原太郎左衛門を継ぐと記されています。 同書の杉原氏の項では、これを春良の父太郎左衛門某が福屋合戦で亡くなりその跡を春良が継いだとしており、春良の母の系譜との整合性から『略系』も疑問を呈しています。 しかし、実際には福屋合戦でなくなったのは父ではなく兄の直盛であり、これは春良と父直良、兄直盛がいずれも太郎左衛門を名乗ったがための混乱と思われます。
以前も紹介した直盛討ち死に直後の熊谷信直書状[8]では、信直は直盛の2人の娘に触れ、そのうちの一人に誰か婿を取り、家が続くように配慮すると春良に伝えています。 この直盛の娘と結婚することで中国に残った杉原氏を継いだのが直之ということなのでしょう。
後家の春良母が伊予へ渡海したと伝わること、春良宛の書状で直良について触れていないことから、福屋合戦時には直良が既に亡くっている可能性が高いのではないかと西尾氏が指摘されています。 それに加え、信直が直盛の跡目を気にかけていることもそれを裏付けると言えるのではないでしょうか。
その場合、直盛が備後にあったであろう杉原直良の本領を継いでいたと考えられますので、信直は直盛の跡を継ぐ人物として自身の孫の一人である直之を選び、直盛の遺児も育てていたのでしょう。 ただ、直盛の遺した娘もその夫として杉原氏を継がせた直之も当時はまだ幼く、結果杉原氏を代表する存在が理興の家老と言われる杉原盛重に取って代わったという可能性もあるのではないでしょうか。
そのような経緯で直盛の跡を継いだと思われる直之ですがやはり朝鮮で討ち死にと『略系』には記されています。
武田修理妻
『略系』の杉原氏の系図では春良の娘としてただ一人挙られている女性です。 そこには浅野紀伊守に仕えた武田修理の妻で、修理の子は後に道安と名乗ったと書かれています。
この武田修理については子の道安に繋がるところから情報を得ることができました。 武田道安はその名を信重と言い、将軍家や天皇の治療にも当たった高名な医師で、法眼を与えられ『寛永諸家系譜』にもその系図が収められています[9]。 それによれば安芸武田氏につながる系譜でその父が武田修理大夫信治と言い、伊予で河野通直に仕えたとされています。
信治の事績としては仙石秀久に従って九州攻めに加わり、敗戦の責めを負わされたところを高野山に逃れ、後に伊予に下向した織田信雄を介して許しを得たとしています。 妻子をこの時に竹原に隠したとするところは、杉原氏との関係を想起させますが、信治の妻即ち道安の母については触れられておらず、道安の側の記録からは杉原氏の名前は見えません。 系譜には長期の脱落も見られ、この武田氏がどのような形で河野氏と関わりを持っていたのかは不明です。
また、河野通直について、摂津に出て有馬で湯治をし、竹原で病没したと触れていますが、西尾氏が指摘されるように通直がそのような行動を実際に取ったとは思われません。 恐らく道安は母を通し、『予陽河野家譜』[10]の内容を知っていた、と考えることもできそうですが、その場合には寛永年間には既にそのような記述で成立していたということになります。
いずれにしても、道安の地位から言えば、杉原氏が家譜で伝えるように、伯父に当たる景良の毛利氏への帰参の働きかけを松平直政に依頼することがあったとしても不思議ではないと言えそうです。
友安安右衛門妻
春良の娘の一人は友安氏に嫁ぎ、安右衛門が大坂で討ち死にしたため、後に伊予の村上某に嫁いだとされています。
友安氏については詳しいことが分かりませんが、安芸の平賀広相の家老に友安越中守光久がいたと伝わります[11]。 平賀広相は小早川隆景と親しかったようですし、村上通総の妻は平賀氏の出身と(広相の娘とも)されています。 このような関係から杉原氏の娘が嫁ぐ先として平賀氏の家臣である(あった)友安氏ということは考えられそうです。
再嫁したとする伊予の村上氏としては、元和年間以降と想定すれば加藤氏に仕えていた村上九左衛門、喜兵衛親子(かつての葛籠葛城主村上内蔵大夫の子、孫と伝わる)や因島村上氏と伝わる野間郡佐方村村上氏などが考えられるでしょうか。
忽那新右衛門妻
この忽那新右衛門は天正16年の高野山登山時の宿坊証文[12]に春良と共に署名している忽那新右衛門通保の可能性が高いのではないかと思われます。
また同時代の忽那新右衛門通恭の名前は『予陽河野家譜』で伊予を離れ竹原へと向かう河野通直に従う一人としても描かれている名前となりますが、一方で同書では通恭を弾正少弼通直の婿としています。 しかし、忽那氏に残る系図では花瀬合戦で討ち死にした通著の跡を継いだ弟の新右衛門通恭は秀吉の四国攻めに際して新居郡の金子氏を支援して討ち死にしたと伝わっているようです[13]。
さらに、河野通宣の娘の嫁ぎ先としても春良と並んで忽那新右衛門の名前が挙がることは春良の妻について触れた際に取り上げました。 新右衛門の名乗りは忽那氏に代々見られるため記録にも混乱が見られるようで、これに河野氏に多い通直、通宣の名乗りが混乱に拍車をかけているように見受けられます。
これらの所伝を見ると実際に春良の婿に忽那新右衛門がいたかどうかははっきりしないところです。
注釈
- 『萩藩譜録』杉原伊織定良
- 山田恒嘉編 山田恒通跋『長陽従臣略系』(東京大学史料編纂所公開用データベース)
- 『萩藩閥閲録』杉原与三右衛門
- 西尾和美『戦国期の権力と婚姻』(清文堂出版、2005年)「第5章 戦国末期における芸予関係と河野氏大方の権力」
- 慶長10年12月14日 福原廣俊外八百十九名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1284)
- 寛永2年 天樹公御葬式御備附(文庫「祭祀」26)『毛利三代実録考証』(『山口県史 史料編近世1下』、1999年)
- 「寛永3年 給録御配郡別石高名付附立」(『山口県史 史料編近世3』、2001年)
- (永禄5年)3月2日 杉原内蔵丞宛 熊谷信直書状(『閥閲録』杉原与三右衛門)
- 『寛永諸家系図伝』武田(医者)(第15巻、1994年)
- 景浦勉編『予陽河野家譜』(伊予史料集成刊行会、1975年)
- 太田亮『姓氏家系大辞典』「友安(トモヤス)」の項。『芸藩通志』豊田郡名家條によるとのこと
- 「高野山上蔵院文書」天正16年4月27日 河野通直母等宿坊証文写(土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(中)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』12号、2007年)
- 桑名洋一「伊予における天正の陣についての考察 -河野氏家臣団の動きを中心に-」(『四国中世史研究』第7号、2003年)で、河野氏に従わず四国攻め軍勢に抵抗した例として挙られていますが同合戦についての伝承はまだ再検討すべき部分も多くあるように感じられます。
中世史関係のブログ興味深く読ませて戴きました。私は、広島県福山市在住で、杉原氏関係の研究をしているものです。戦国期の杉原氏と毛利氏の関係に関心があり、西尾先生の論文をみて、杉原氏と毛利氏を繋ぐ女性として春良の母にも興味を持っています。さて、東大史料編纂所データベースは知っているのですが、このブログに記載されている『長陽従臣略系』はどのカテゴリーにあるのか教えて戴ければ幸いです。宜しくお願いします。
by 木下和司 (2010-12-28 21:51)
木下さま
お尋ねの件ですが、データベース選択画面の左上、「所蔵史料目録DB」をクリックした先の検索画面で「長陽」などで検索すれば該当史料が出てきますので詳細と画像が閲覧可能です。
お役にたてば何よりです。
杉原氏についてご研究とのことですが、神辺の杉原氏は理興から盛重へと権力が移る中、熊谷氏と姻戚関係にありながら没落?した直良系の実状がよく理解できておりません。
実際に理興の子の系統であったのか?……などなど。
ご存知のことがあればご教示いただければ幸いです。。
by takubo某 (2010-12-28 22:41)
tukubo某様
データベースの件、有難うございました。
杉原理興・盛重については、ここ六年くらい調べています。昨年、理興についてまとめたものを『芸備地方史研究』に投稿しました。来年の二月号に掲載予定です。私の研究した範囲では、理興は山名氏の一族で、山名祐豊に異母弟ではないかと考えています。現在の通説は『福山市史』・『広島県史』の河合先生の記述がベースになっていると思います。しかし、山名理興を杉原姓としている根拠は、『山名家譜』と『三備史略』で何れも江戸末期から明治初期の成立であり、理興が杉原姓から山名姓に改姓した具体的な記述があるわけではありません。理興を杉原姓としているのは『安西軍策』ですが、山名姓との関係は書かれていません。杉原理興と山名姓を結びつけているのは『陰徳記』で、「山名師氏の末裔」としているだけです。理興を杉原姓とする根拠が岩国藩系の軍記物にあることから、現存史料からの再検証を行いました。理興に関する現存史料は、五通程度しか確認できず、いずれも山名姓であったことを示しています。これらの史料から山名理興は天文元年から同十七年頃まで、その官途は宮内少輔であったことが確認されます。山名理興は杉原豊後守と同一人物とされていますが、『浦家文書』の「大内氏奉行人連署書状」から天文十五年にその存在が確認できます。従って理興と杉原豊後守は別人ということになります。現在の通説では天文廿三年に理興が神辺城主に帰りざいたとされていますが、これは杉原豊後守が毛利方として神辺城主となったことを誤認したものと推測されます。杉原豊後守が神辺城主であったことは、一次史料では確認されませんが、『毛利家文書』にある「毛利弘元女子系譜」に興元の娘に関して「杉原殿に御座候、同盛重に御座候」とあることから、杉原豊後守は毛利氏の准一族となって神辺城主となったと推測しています。また、豊後守の没後に、興元娘は盛重に嫁しており、盛重と豊後守は同族ではあるが直系ではなかったことになります。杉原氏にはいろいろな一族がいますが、現時点では豊後守と盛重がどの一族に属していたかは明確ではありません。弘治三年以降の盛重に対する元就の信頼ぶりから、『萩藩閥閲録』「杉原与三右衛門」にある通り、直良(春良の父)の弟だと考えています。盛重については、来年中にはまとめてみたいと思っています。理興に関する『芸備地方史研究』の抜き刷りに興味があるようでしたら、メールアドレスを教えて戴ければ、二月になればPDFにして送らせててただきます。最後に理興を山名祐豊に近い一族と考えている理由は、大永八年五月に」「山名彦次郎」なる人物が備後に下向していること(『萩藩閥閲録』「井原藤兵衛)、また、同じく大永八年五月に備後での山名方の軍事指揮官として「(山名)宮内少輔」が現れることです(『萩藩譜録』「磯兼求馬」)。
by 木下和司 (2010-12-29 12:02)
木下さま
早速のご返答ありがとうございました。
理興が杉原氏出身ではないというお話にはいきなり驚かされました。
また、その上で盛重系も直良系も理興を祖に置いているということであれば、そのあたりの背景にも興味が沸きます。
理興についての論考の抜き刷りはぜひ拝見させていただければと思います。
次のコメントにメールアドレスを掲載いたしますので、年末年始でご多忙の中、お手数ですがご確認いただけましたら一度ご連絡いただければ幸いです。
杉原氏と言えば別系で後に木梨氏を名乗った杉原隆盛についても興味はあるのですが、ここで長々と続けるのもご迷惑かと思いますので私の方でも再確認した上で、別の機会にご教示いただければと思っております。
by takubo某 (2010-12-30 23:26)
tukubo様
ご無沙汰しております。
昨日、お約束していた山名理興に関する拙稿をメールで送付させて戴きましたが、エラーで帰ってきました。メールアドレスを変更されましたか。変えられたようでしたら、アドレスを連絡ください。私の方のアドレスは、変わっておりません。
木下
by 木下和司 (2011-05-10 20:57)
木下さま
ご無沙汰しております。
お返事が遅れておりますが、メールの方、到着しております。
PDFをお送りいただきどうもありがとうございました。
お返事は一読の後、と思っている間に遅くなってしまっておりすみません。
by takubo某 (2011-05-13 19:48)