葛篭葛城と来島村上氏 [人物]
『玖珠町史』に福川一徳氏の手で記述がなされている来島村上氏に関する内容[1]は、伊予時代を含め、同氏について近年の研究成果が取り入れられた非常にわかりやすいものとなっています。 伊予時代の家臣団について触れた箇所で一族のひとり村上九左衛門が紹介されていますが、九左衛門の子喜兵衛が伝える由緒書を信ずるならば和気郡葛篭葛城(堀江港を抑える要所に当たり、来島村上氏が支配したと伝わります[2])の城主である筑前守、内蔵大夫に繋がる系譜の持ち主であり、筑前守は通康の弟という来島村上氏の当主に非常に近い存在だったことになります。
村上喜兵衛の由緒書
ここで紹介する村上喜兵衛は加藤嘉明、後に岡山の池田氏に仕えた人物です。 その喜兵衛が岡山藩へ提出した由緒書の内容を確認することができます[3]。
それによれば喜兵衛の3代前は村上筑前守といい、村上通康の弟で伊予の和気郡葛篭葛城の城主であったそうです。 子が内蔵大夫、さらにその子で喜兵衛の父に当たるのが九左衛門としています。 九左衛門は、幼い頃に父内蔵大夫をなくし、6、7歳のころには葛篭葛城を下城して父の従兄弟に当たる来島通総に引き取られ、17歳で朝鮮へも従軍し、150石の禄を受けたとのことです。
関が原での敗戦で来島家を召し放たれ、通総弟の彦右衛門(吉清)を頼って広島に居たところを二神瑞庵を通じて加藤嘉明に召し抱えられ、その後は親子共々加藤氏に仕えており、会津転封にも従ってその際に加増を受けています。 明成が改易を受けた際に加藤氏を離れ、正保4年から親子で岡山の池田氏に仕えて喜兵衛の頃に由緒書を提出するに至る……ということです。
由緒書に書かれた内容ですが九左衛門が6、7歳の頃とする葛篭葛下城は来島氏が河野氏を離反した天正10年前後と考えれば、17歳で朝鮮への軍勢の中にいたこととも符合しますし、また喜兵衛が寛文9(1669)年に67歳であるとの記述にも不整合はありません。 加藤家への仕官を仲介している二神瑞庵についても、かつては二神修理進と名乗った二神一族の一人で河野氏ついで来島氏の家臣となり後に加藤家に仕えたことが伝わっています[4]。
会津時代の加藤氏の分限帳からも750石取りの村上九左衛門と150石を受ける村上喜兵衛が確認できます[5]ので、この点も由緒書に書かれた通りであることがわかります。 系図の類いは焼失して手元にないとしていますが、久留島信濃守の所にはあるはずだと書き上げている位ですのでその出自については自信を持っていると言えるのではないでしょうか。 また、喜兵衛の子孫は後に姓を村上氏から久留島氏へと改めたとのことです[6]。
村上筑前守
喜兵衛の3代前に当たるとされる村上筑前守の名前ですが、『河野分限録』[7]などには見当たりませんし、同様の名前を上げつつそれぞれの根拠地を示す『河野家古城并寄合衆附』にも葛篭葛城あるいは和気郡に関わりを見せる者は記録されていません[8]。
しかし一方でより確かな史料である「高野山上蔵院文書」には2通の筑前守吉賢を名乗る人物の文書が残されていますので、この人物を喜兵衛が曽祖父とする筑前守と考えられます。 その書状の一つの内容について川岡勉氏が取り上げています[9]。 それによると、永禄6年と推定されている閏12月3日付の吉賢書状[10]では、上蔵院主が留守の間の高音寺の安全を保証する内容となっています。 高音寺は和気郡に残る真言宗寺院で、同じく上蔵院文書の内容から河野弾正少弼通直が上蔵院に寄進した寺であることがわかるとのことです。 同じく和気郡に属する堀江港近くにある葛篭葛城主と伝わる筑前守がその安全を保証する立場にあることは違和感もありません。
来島村上氏にとって葛篭葛城近くの堀江は単に湯築城など道後の外港というだけではなく、周防方面の支配においても重要な拠点であったようです。 周防屋代島近くに浮かぶ平群島には河野氏一族である浅海氏の勢力があったことが知られています。 永禄元年の浅海四郎左衛門等に宛てた村上通康書状[11]では「島中惣劇」について触れ、その件に関して筑前守から知らせがあったことが記されており、この筑前守も同一人物と考えられそうです。 また、屋代島松尾寺は村上通康からの安堵状で半斉米を堀江へ運ぶように申し渡されています[12]。 現在でも松山から屋代島を経由し柳井へと向かう航路がありますが、当時から周防に面した海の玄関口が堀江だったと言えるでしょう。
上蔵院へは永禄9(1566)年8月21日づけで命日が5月1日である「前筑州太守固獄正堅居士」という戒名を持つ人物の慰霊が依頼されていることが「河野家御過去帳」[13]からわかりますが、これが筑前守吉賢ではないかと思われます。 この脇書には「久留島御舎弟使者二神又次郎」とあり、過去帳の次の項目には同日付で「華顔宗桂童子」のために「久留島出雲守殿御建立」とあります。 そうであれば村上通康が弟と早世した我が子の供養の慰霊に二神又次郎を派遣したものと考えられますので、吉賢は兄の死の前年、永禄9年5月1日に亡くなったと推定できます。
村上内蔵大夫
葛篭葛城主としてむしろ知られているのは村上内蔵大夫吉高でしょう。 この人物が村上喜兵衛が祖父と伝える内蔵大夫と考えられます。 伯父である通康が40歳近くまで男子に恵まれなかった様子から、通総や通幸といった従兄弟より年長であったのではないかと思います。
広く流布する内蔵大夫の事績は『予陽河野家譜』に伝わるもの[14]ではないかと思われます。 伊予を織田氏の軍勢に攻められた際に葛篭葛城から逃れたとされるだけであったり、通直の叔母婿でありながら来島村上氏に通じて寝返りの気配を見せたため、機先を制した河野氏の軍勢に攻められて自害したとするものなど、芳しいものではありませんが、これらを単純に事実と捉えることはできません。
吉高の出自については、『河野分限録』などで因島村上氏の配下であるとされているためか、はたまた別の所伝があるのか不明ですが、因島村上氏の一族と紹介されることも少なくないようです[15]。 しかし、やはり実際には喜兵衛が語るように通康にも近い来島村上氏の一族と考えた方がよいように思います。
吉高が実際に居城を攻められて自害したのかは定かではありませんが、毛利輝元の書状で来島村上氏が離反した時期に葛篭葛城への付け城について言及がなされていること[16]や、村上蔵人大夫のものとされる「府中東条分」が村上源八郎(景親)に与えられている[17]ことなどからは、葛篭葛城が来島村上氏方であり、内蔵大夫が没落したことを想起させます。
『伊予の古城跡』[18]の葛篭葛城の項では小陰の光明寺に吉高の墓があり末裔を名乗る宇和島藩士桧垣助三郎 三浦平八が碑を立てたこと(『伊予古蹟志』)、吉高の命日は15日と伝わり、7月14日に毎年村中で施餓鬼を行い、その墓は3町ほど離れた「おたち」と伝わる(『二名島古蹟集』)などとしています。
さらに、二神氏にあてた通直母の書状[19]について「葛篭葛城に預けおいていた」ために困難になった屋代島久賀での年貢の回収を二神氏に依頼するものであると西尾和美氏が取り上げています[20]。 これも吉高の代に至っても堀江を拠点に葛篭葛城主の村上氏が、周防、屋代島方面との強い関係を維持していた証とも言えそうです。
まとめ
喜兵衛の書き出しの内容には、村上三家について「久留島は予州、野島(能島)犬之島(因島)は周防」とするなどと誤っている箇所もありますが、来島氏の系譜については混乱する系図も多い中で出雲守通康、出雲守(通総)、右衛門市(康親)、丹波守(通春)、信濃守(通清)と正しくその流れを伝えています。 それ以前についても本国を信濃とはするものの、久留島氏本家同様に不明であるとしているなど、同時代の人物であることを割り引いても、正確な情報に基づいて書き上げていると感じられます。
このように喜兵衛の伝える内容と当時の書状などの内容を合わせて考えると、やはり葛篭葛城主であった村上筑前守吉賢は通康の弟で、死後は子の内蔵大夫吉高が城主を務めた可能性は高いと考えられます。 伊予の重要な港湾の一つである堀江を村上通康が抑えていたことは知られていますが、そこには近しい身内を置いていたということにもなりそうです。 吉高は従兄弟の村上通総に従って河野氏を離反した後に亡くなったのか、あるいは吉高没後も通幸、通総兄弟に近い武将を置いて来島村上氏の離反にも従ったかのいずれかと言えるでしょう。
なお、喜兵衛は由緒書の中で筑前守、内蔵大夫をいずれも病死であると断っていますが、わざわざ言及があるのは河野氏を離反して敗死したことを隠すためなのか、あるいは事実こそが病死であったのでしょうか。 江戸時代初期の戦国を知る、あるいは当事者から話を伝え聞いた人々が残っている頃において、先祖が戦国時代に謀反を起こしていた人物であることは当時の子孫に対してのどのような評価に繋がっていたのか、興味のあるところです。
そして、個人的には道後を支える港のひとつである堀江とそこを抑える位置にある葛篭葛城、そしてその地に在ったとされる村上吉賢、吉高についての検討が、伊予の戦国史のカギを握る次の存在ではないかと感じています。 系譜上、通康以前について不明の点が多い来島村上氏の謎を解く上でも重要な点ではないでしょうか。
注釈
- 『玖珠町史(上)』(2001年)第4編 森藩と天領(近世編)
- 山内譲「中世の堀江」(『伊予史談』319、2000年)
- 「家中諸士家譜五音寄」村上喜兵衛(倉地克直編『岡山藩 家中諸士家譜五音寄』岡山大学文学部、1993年)
- 福川一徳「伊予二神氏と二神文書」(『四国中世史研究』6号、2001年)
- 「加藤家分限帳」(『会津若松史』第8巻 史料編1、会津若松市、1967年)に鉄砲組頭として750石を得ている村上九左衛門が確認できます。
- (1)の『玖珠町史』村上九左衛門の所で紹介されています。
- 『河野分限録』(伊予史談会編『予章記・水里玄義』、1982年)
- 『河野分限録』の類書とされ、玖珠町史に来島村上氏分が掲載されています。丹原町(西条市)田野、綾延神社蔵とされています。
- 川岡勉「高野山上蔵院と伊予」(川岡勉編『高野山上蔵院文書の研究 : 中世伊予における高野山参詣と弘法大師信仰に関する基礎的研究』、2009年)
- 「高野山上蔵院文書」(永禄6年)閏12月3日 村上吉賢書状(愛媛県教育委員会『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編、2002年)
- 『萩藩閥閲録』浅海清六 3月27日 浅海四郎左衛門尉、浅海勘解由左衛門尉、浅海吉三郎宛 村上通康書状(『県史』1984)
- 「周防松尾寺文書」永禄9年10月3日 屋代島三蒲郷松尾寺宛 村上通康安堵状(『県史』1969)
- 「高野山上蔵院文書」河野家御過去帳(土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(下)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』13号、2008年)
- 景浦勉編『予陽河野家譜』(伊予史料集成刊行会、1975年)
- 『愛媛県史 古代・中世編』においても、中世城郭分布図で葛篭葛城と思われる和気郡の城が因島系と記されています。
- 「屋代島村上文書」(天正10年)5月9日 毛利輝元書状(『県史』2309)
- 「村上文書」天正12年12月21日 村上源八郎宛 河野通直宛行状(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』愛媛県今治市教育委員会)
- 長山源雄『伊予の古城跡』(伊予史談会双書 第4集、改訂版1993年)
- 「二神家文書」8月24日 二神左馬助、二神修理進宛 したし書状(景浦勉編『大山積神社関係文書』伊予史料集成5、1988年)
- 西尾和美『戦国期の権力と婚姻』(清文堂出版、2005年)「第7章 小早川隆景の伊予支配と河野氏」
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