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伊予史談355号、山内譲氏の「元亀年間における来島村上氏と河野氏(上)」について [資料]

平成21年10月発行の『伊予史談』355号は「小特集 伊予戦国史研究の現在」と銘打って冒頭に下記の3つの記事が掲載されています。

  • 戦国期伊予の国成敗権と領主権 ―高野山上蔵院文書を手がかりに― 川岡勉
  • 天正期伊予国喜多郡における戦乱について -曽根宣高の動きを中心に- 桑名洋一
  • 元亀年間における来島村上氏と河野氏(上) 山内譲

ここではその中でも山内譲氏が元亀年間の河野氏と来島村上氏について言及しているものについて、感じたところをまとめてみました。 山内氏は「近年の伊予戦国史研究の進展にはめざましいものがある」とも書かれていますが、まさにそれを象徴するのが当該時期の来島村上氏を巡る情勢かもしれません。

本題に入る前に他の2編についても簡単に紹介してみます。

川岡勉氏の「戦国期伊予の国成敗権と領主権 ―高野山上蔵院文書を手がかりに―」

新出のものというよりは上蔵院と伊予の関係についてをまとめたサマリ的な内容となっています。

河野氏と上蔵院の師壇関係について、そしてそれがどのように河野氏の伊予支配に作用したか、あるいは河野氏の傘下の諸豪族に及ぼした影響や彼らの行動などがまとめられています。

2009年度発行の研究報告書の内容[1]をベースとしているようです。

桑名洋一氏の「天正期伊予国喜多郡における戦乱について」

従来、大野直之が長宗我部氏に通じて反河野勢力の中心となったと伝わってきた郡内(喜多郡)について一次史料からその実態を追う取り組みです。

平成18年に香川県立文書館に持ち込まれた喜多郡の平出雲守(田平氏)宛の長宗我部元親書状から、郡内で方角衆を組織して反河野氏として長宗我部氏に与同した勢力についての動向が述べられています。

同様に喜多郡での河野氏側と反河野氏側勢力の動向を読み解く研究としては山内治朋氏のものがあり[2][3]、こちらも併せて再度読み込んでみたいところです。

山内譲氏の「元亀年間における来島村上氏と河野氏(上)」

伊予の戦国史研究において「研究者間で違憲の相違がもっとも多く見られるように思われる」永禄末から元亀年間に絞って、その中心にある来島村上氏と河野氏の関係を取り上げるとされています。

2回に別れての掲載のようですが、冒頭に章立てが示されており、今号には「来島村上氏の反発」までが掲載されています。

  • はじめに
  • 新居・宇摩郡の返還
  • 来島村上氏の反発
  • 重見氏の反乱
  • 飯盛城の合戦

元亀年間の出来事

今回扱われている、河野氏と来島村上氏を巡る当時の事件として以下のものがありますが、それらを簡単に取り上げてみます。

  • a 元亀元年7月 河野牛福の家督相続
  • b 元亀元年11月26日 新居・宇摩郡の返還についての通達
  • c 元亀元年12月1日 上意(河野氏)に反したことでの村上牛松への対面禁止
  • d 元亀2年7、8月 日吉郷梅仙軒霊超分の押領

aの牛福による河野氏の家督相続に関連するものとしては、西尾和美氏が指摘した河野通宣の逝去を永禄13年の5月6日とする点[4]や、中平景介氏が指摘した通宣から牛福への代替わりを元亀元年の7月とする見解[5]について、山内氏も同意のようです。 それぞれ根拠となる「河野家過去帳」の記述、足利義昭の将軍就任時期と花押による年代比定といった背景もありますので、これらの点については今後見解が統一されていくものと思われます。

bは長らく細川氏が分郡守護となっていた新居・宇摩両郡についての問題です。 河野氏側の働きかけで元亀元年の末に足利義昭から返還に向けた御内書が出ますが、その背景には三好氏を追い込みたい将軍足利義昭の意向があったようです。

cの村上牛松への対面禁止については、元亀元年12月の河野氏奉行人の連署書状から河野氏が二神氏に対して対面を禁じたことが知られていますが、その前後の状況についてははっきりしてはいません。

dは、将軍の近い位置にあり度々河野氏との仲介役を務めていた梅仙軒霊超の持つ越智郡日吉郷の所領が来島村上氏によって押領されたものですが、この所領は元々河野氏から梅仙軒霊超に給付されたものです。

状況の整理

先の4つの事象に対して、それぞれの因果関係は

  • a → c
  • b → d

であろうという点で中平氏、山内氏両氏の見解は一致しています。 ただし、中平氏は当時の来島村上氏が河野氏から離反状態にあったとしていますが、山内氏の見解では両者の関係はさほど悪化はしていないのではないかということです。

来島村上氏が梅仙軒霊超領の押領に動いた原因が2郡返還問題にあったことは、当事者である霊超の書状から明らかになっていますが、それに過敏な反応を示した理由がさまざまに解釈されていることを以下の3者の主張を取り上げて紹介されています。

  • 平岡、垣生両氏が河野氏政権の中心となったことに加え、従来からの三好氏との良好な関係が作用した(川岡勉氏[6])
  • 幕府に協力し三好包囲網に協力していたにも関わらず、離反相手の河野氏に2郡を返還した(中平景介氏[7])
  • 来島を圧迫しようとする平岡氏の意図に反発した(山田康弘氏[8])

こうした議論を取り上げた上で、山内氏自身はこれらの主張に見られる対外的な関係が強く作用したものではなく、より直接的な関係を来島村上氏が新居・宇摩郡に持っていたのではないかとしていますが、具体的なものは見えていないようです。

少なくとも来島村上氏は、三好氏が浦上氏や能島村上氏、大友氏と結んで反毛利氏に動く中で親毛利の立場を崩していないことを改めて紹介されています。

個人的には来島村上氏が河野氏政権下で府中、あるいは道前という単位に対してどのような立場にあったのか、再度検討されることが必要なのではないかと感じています。

次号へ

まずは、次号掲載予定の内容にある「重見氏の反乱」が気になるところです。 来島村上氏との関わりで言えば重見通種の河野氏に対する謀反劇がすぐに思い浮かびますがこれは享禄3(1530)年の話で、「元亀年間」の話としては少々そぐわないものが有ります。 この時期、郡内(喜多郡)での攻防に関連する書状に度々「重見衆」「重見表」といった言葉が出てきますのでこちらに関するものとも考えられそうです。

今号掲載分が越智郡、新居・宇摩郡を舞台とするのであれば、次号掲載分が喜多郡、宇和郡を舞台とした話になるのでしょうか。 楽しみにしたいと思います。

注釈

  1. 川岡勉「高野山上蔵院と伊予」(川岡勉 編『高野山上蔵院文書の研究 : 中世伊予における高野山参詣と弘法大師信仰に関する基礎的研究』、2009年)
  2. 山内治朋「戦国期の肱川下流域について-須戒・横松地域を中心に-」(『研究紀要』14号、愛媛県歴史文化博物館、2009年)
  3. 山内治朋「天正前期の喜多郡騒乱の地域的展開?天正七年前後の争乱と予土和睦をめぐって」(『四国中世史研究』10号、2009年)
  4. 西尾和美「左京大夫通宣の時代と来島通康」(川岡勉・西尾和美『伊予河野氏と中世瀬戸内世界』愛媛新聞社、2004年)
  5. 中平景介「河野通直(牛福)の家督相続について-代替わりの時期の検討を中心に-」(『伊予史談』344号、2007年)
  6. 川岡勉「戦国・織豊期の東伊予と河野氏権力」(『中世の地域権力と西国社会』清文堂出版、2006年)
  7. 中平景介「元亀年間の伊予-来島村上氏の離反と芸予交渉-」(『四国中世史研究』10号、2009年)
  8. 山田康弘「戦国期伊予河野氏と将軍」(『四国中世史研究』10号、2009年)

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