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刈屋口の戦いと竹原崩れ [合戦]

伊予の戦国時代の終わりを告げたのが天正13(1585)年の羽柴秀吉による四国攻めであるとしたら、 戦国時代の残り火が消えたのが関ヶ原の合戦に連動して起こった刈屋口の戦いなど一連の伊予での合戦ではないかと思います。

当時の伊予には東軍についた藤堂高虎、加藤嘉明の所領がありました。 その他、当初西軍につき後に寝返った小川祐忠、やはり西軍についた来島康親も伊予に所領を持っています。 このような状況下で毛利家が編成した伊予攻略部隊は東軍に属した加藤嘉明の留守部隊が残る松前城の攻略を目標として伊予へ派遣されます。

まずはこの合戦を江戸時代の著名な書物でもあり戦国時代の逸話がまとめられている『常山紀談』の記述に見ていきます。 あわせて『築山本河野家譜』など河野氏の立場からどのように見ていたのかについても併せて見ていきたいと思います。

『常山紀談』に見る刈屋口の戦い

『常山紀談』の17巻、第349話「佃次郎兵衛伊予国松前城を守る事」にこの戦いの様子が描かれています[1]。 以下にその粗筋を紹介します。

まず冒頭では佃次郎兵衛十成の勇猛ぶりが描かれ、そして関ヶ原の場面へと至ります。 加藤嘉明は本領松前城の留守居として城代に弟加藤内記、佃次郎兵衛らを残して会津へと東上しました。 その後、東軍へと属した加藤領を狙って毛利輝元が村上掃部、能嶋内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を送り込んできます。 予州の平岡善兵衛を嚮導役としてその数3千余り。 城の明け渡しを要求された十成は妻子を逃す時間が欲しいと返答し、毛利方もそれに納得した上で三津に上陸、陣を構えます。 この時、大洲の藤堂高虎から援軍を差し向けるとの申し出を断ったと書かれています。 そして、近隣の百姓に酒肴を持たせ、留守居の軍勢がほとんどなく佃十成も病であるとの虚報を三津の毛利軍に伝えさせ、 これにより油断した相手に佃十成率いる加藤軍が9月18日[2]夜襲を仕掛けます。 その結果、十成によって村上掃部が討ち取られ、その他能嶋内匠、曽根兵庫らも討ち死にするなど毛利軍は大きな損害を受けます。 翌19日には久米の如来寺に立て篭もりますが、ここにも佃十成が押し寄せ、毛利軍はさらに道後山へと引きますが、一方、佃十成も深手を負ってしまいます。 毛利軍が反撃の様子を見せたため、加藤内記が道後村に押し寄せ、十成も怪我をおして出陣、これにより宍戸、平岡に従う一揆勢は散り散りになり 敗れた毛利軍は風早の浦から芸州へと撤退することになりました。 戦後、佃十成は大きな恩賞を得て、その後も厚遇を得ながら長く生き、82歳で病のために亡くなるところまでが描かれています。

毛利、加藤両家に残る記録を見ても、少勢の加藤家留守居部隊が数で上回る毛利軍を打ち破ったことに間違いなく、その後についてを含め大筋で正しい内容と言えそうです。 この一連の合戦の顛末が関ヶ原後どのように広まったのかはよくわかりませんが、佃十成の名前と共に知られたのは間違いないでしょう。 ただし、『常山紀談』の逸話としてはあくまで佃次郎兵衛十成の活躍が強調されているはずです。 三津で受けた夜襲の戦いのことをその地名から「刈屋口の戦い」と称しています。

河野家譜に見る刈屋口の戦い

『築山本河野家譜』ではこの伊予での戦いを河野通軌の項目で取り上げています[3]。 河野通軌について、同書では河野通直の死後その跡を宍戸元秀の子が継いだもの、また、元継の弟と記していますので、該当者は宍戸景好あるいは他の兄弟となるのですが、 景好、あるいは他の兄弟を含め、河野氏との関わりを記す古文書や宍戸氏の系図は見られないのが現状であり、河野通軌を名乗った人物の実在も確認されていないと言えるでしょう。

さて、その河野家譜では伊予へ侵攻した武将として村上掃部元吉、平岡弥右衛門尉(孫右衛門が正か)、平岡善右衛門(善兵衛が正か)、曽根孫左衛門をあげています。 また、三津での戦いで田坂弥五助、東右近ら村上氏の家臣は登場しますが、伊予と縁の薄い毛利家臣の名前は終始現れません。 ここで加藤勢の荒川甚左衛門、安達半右衛門、黒田九兵衛、井之上加之助らを討ち取り佃次郎兵衛にも手傷を負わせる一方で味方の曽根は討ち死にとしていますが、元吉の討ち死については触れられていません。 三津での戦いの後、通軌は荏原城に平岡は久米如来寺に篭もったとしますが、関ヶ原の敗報を聞いて三津浜へ逃れて中国へ戻り、通軌は後に山口で没したと書かれています。 確かに宍戸景好は山口近郊の小鯖村で隠居しそこで没したとされていますが[4]、景好が通軌を名乗っていたとするだけの根拠は見当たりません。 河野氏の視点で描かれている以上、全体としてはあくまで伊予の旧領回復を目的に戦ったものの関ヶ原本戦での西軍の敗北によって撤退したのであって、伊予侵攻軍が大敗を喫したわけではないと主張したいのだと思われます。

河野旧臣の動き

伊予侵攻にあたって活発に活動し、刈屋口で討ち死にしてしまった曽根孫左衛門ですが、曽根氏はかつて喜多郡曽根城主であり河野氏の旧臣とは言い難いものがあります。 この伊予での合戦では、河野氏の旧臣としては平岡氏の動きが活発で系図上では孫右衛門、善兵衛の兄弟の名前が知られています[5]。 平岡氏は末期の河野氏を支えた有力国人だったというだけではなく、彼らの姉妹が村上景親に嫁いでいることから能島村上氏の姻戚にもあたりました[6]。 彼らの伊予での本拠地であった荏原城の名前も出てきますが、荏原城は堀はあるものの平城であるため守るには難しいことから味方の劣勢を受けて久米の如来寺へと移動した上での攻防になったのかもしれません。

一方、正岡氏の歴史を記した「水里溯洄録」(すいりそかいろく、本来、「溯」の位置は「㴑」となります)[7]でもこの合戦が取り上げられています。 正岡氏の庶流で河野氏の本貫地、風早にある河野新宮の祭司を勤めていた正岡式部大夫重氏が河野一族の南彦四郎通具と蜂起したとのことです。 同書は伊予に討ち入った河野太郎と宍戸、村上、曽根、能島らが興居島に渡り、それに呼応した譜代の一族が一揆を起こし、その中でも平岡孫右衛門尉兄弟は荏原城に立て籠もったと説きます。 彼ら同様立ち上がった正岡重氏は9月20日に佃次郎兵衛に本拠地新宮を攻められたために重氏は自刃したと伝えます。 「水里溯洄録」もやはり当然ながら河野氏の旧領回復を目的とした戦いという視点で語っていますが、どの程度の一揆勢が放棄したのか事実については不明です。 実際に河野氏の旧臣の中には蜂起したものもいたのでしょうが、その動きは少数の加藤家の留守居部隊に鎮圧されてしまう程度のものであったとも言えるでしょう。

おわりに

少数の留守居が残るだけの加藤嘉明領の占領を狙った毛利軍でしたが留守居の佃次郎兵衛十成らの活躍により緒戦の「刈屋口の戦い」で村上元吉、曽根景房の両将を失います。 伊予国内での戦闘は続きましたが、関ヶ原本戦の決着がついたことにより、毛利軍は伊予を撤退します。

西軍総大将としての積極的な関与を咎められ毛利氏は防長2ヶ国へと減封の処分を受けます。 秀吉の死後、瀬戸内に面した安芸国竹原へと戻った能島村上氏でしたが、当主元吉と新たな根拠地を失うことになりました。 村上元吉と河野氏最後の当主河野通直の2人が眠る竹原の地を去ることになり(「竹原崩れ」)、周防屋代島へと移動した能島村上氏は萩藩船手組を率いる2家が幕末まで続くことになります。

注釈

  1. 『常山紀談』(菊池真一編、和泉書院、1992年)によりました。
  2. 加藤家側の記録では18日ですが、毛利家側では16日もしくは17日に討ち死にと伝わっています。この点については改めて取り上げます。
  3. 『河野家譜 築山本』景浦勉編、伊予史料集成刊行会、1984年
  4. 「宍戸氏系図」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)
  5. 「平岡氏系図」(岡部忠夫編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1999年)
  6. (5)に同じ
  7. 「水里溯洄録」(『予章記・水里玄義』伊予史談会編、1982年)

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