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正岡休意と宮内休意(1) [人物]

伊予の関が原、刈屋口の戦いの前後に、河野氏関係者と見られる2人の「休意」を名乗る人物のわずかな記録が今に残っています。

特にわずかな数の文書に姿を見せるだけの正岡休意とその残された書状から見える当時の状況を見てみたいと思います。

正岡休意

そのうちの一人、正岡休意は河野旧臣と思われる人物です。 伊予の正岡一族の出身であると思われますが、現時点で具体的に比定されている人物がいるわけではないように思われます。

関が原後と思われる時期の村上景房宛の書状[1]では景房の祖父村上吉継を始め、村上水軍縁の人物の名前を挙げていることから、彼らとの間に親交が有った人物であることは確かです。 また、宍戸掃部こと景好の消息にも言及があることから景好とも面識があった可能性が高いと考えられます。

その景房宛の書状の内容には弱気な記述も見られ、休意本人はそう遠くない時期に訪れる自身の死を意識しているようです。 既に入道していることと合わせて既に老齢であったのかもしれません。

このほとんど政治的な意味合いの薄い書状が代々村上氏の許に残されていたのは休意が関が原の際の景房の伊予での働きに触れているからではないでしょうか。 実際、この後、休意がどのような生涯を終えたのかを知ることのできる史料は今のところ確認されていないのではないかと思われます。

この書状では「大坂町に去冬以来有之事候、此三四年無足之奉公故」との記述があり、また、前後の内容からはこれが関が原後であることは明らかです。 これは毛利氏の防長移封により備後三原、安芸竹原といった河野氏、小早川氏関連の地が福島氏の所領となったことか、あるいは伊予にあって西軍に与したため加藤氏の追求を受けたためと考えられます。

大坂では乃美甚右衛門[2]と会っているようですが、甚右衛門を介してその姉(妹)婿の景房についての近況を知ったのでしょうか。

三原にて

正岡休意についての詳細は不明であると述べましたが、生前の休意自身の活動は意外なところで確認することができます。

小早川氏縁の米山寺に残る「小早川泰雲隆景寄進往生講式装束目録写」[3]は文禄年間のものであり、これに包久次郎兵衛(景相)、河井惣右衛門と共に連署しているのが正岡休意です。 経緯は別として、この時期に三原で隆景の奉行人であった包久次郎兵衛等との連署であることから、やはり休意もまた三原周辺の小早川領の統治に関わる活動を行っていたと考えられそうです。

河野氏が伊予を失った後、伊予拝領後の隆景に従っていたものか、あるいは通直に死後も竹原に在ったものが隆景に用いられたのでしょうか。

隆景の伊予拝領以降、小早川氏の家臣となった伊予の国人が存在しなかったとは思えないのですが、現在その状況がはっきりしているのは、来島村上氏の重臣村上吉継、吉郷の系統であったり、河野氏とは関係の薄い曽根氏位しか見当たらず、正岡氏についても詳細は不明と言えそうです。

また、書状が書かれた時点で3、4年の間、「無足の奉公」であったとのことですので小早川氏から何らかの給付があったものが、慶長2(1597)年の隆景の死後の混乱の中、毛利氏に仕える事なく牢人となったとも読めそうです。 「奉公」自体は河野氏復権や伊予回復を目指した動きへの協力を指すものかもしれません。

伝聞として書かれている刈屋口での様子から休意はそこから離れた場所で戦っていたかあるいは直接伊予に在国していた訳ではないのではないでしょうか。

休意書状に現れる人物達

休意が景房に送った書状には非常に多くの人名が現れます。 恐らくは年老いた休意とまだ年若いであろう景房の間でも共通の知人の名が上がっていると言えるのではないでしょうか。

以下に正岡休意書状に現れる人名について、その書状の中での表記とその内容から書状が書かれた当時の生死、その正体についてわかる範囲でまとめてみました。

表記 生死正体
完掃 宍戸景好
村掃 × 村上元吉、三津刈屋口で討死
乃甚右 乃美甚右衛門、宗勝子、姉妹が景房の妻
河州さま × 村上河内守吉継(景房の祖父)
仁三郎殿 × 村上一族か、関が原時の景広麾下に村上仁三郎[4]
天右殿 × 天野右衛門[5]か
上次郎兵さま × 村上氏か?
武満さま × 村上刑部大輔武満
甚右さま 前出の乃甚右とは同人か
正岡休意 伊予の正岡一族か、書状の差出人
村上助右様 村上助右衛門景房、河内守吉継の孫、書状の宛所

休意の正体

この書状の内容から正岡休意を伊予正岡一族の一人であると考えることは妥当であるように思われます。 しかし、実際に正岡氏の家系の中でどこに位置付けられる人物かということに触れられていることはないようです。

休意の書状に現れる人名などを考えれば、世代的には河野氏改易時には現役であった少なくとも城主クラスの人物、あるいは河野家当主の近くに居た人物のいずれかと推定しても大きく間違いはないように思います。

関が原の戦いの際の正岡氏の動きとしては、河野新宮職を継いで居た正岡重氏は南通具らと挙兵するも敗れ、重氏は新宮館で自刃と伝わるものがあります[6]。 重氏の弟出雲守は生き延びたようですが同書が伝える内容からも、また伊予で神職にあったという点からも休意とはまた別の存在であるように思われます。

年代的には正岡氏本家の幸門城主正岡経政、その甥で南明禅師の祖父に当たる常貞、鷹取山城主の紀伊守経長らが休意の候補者でしょうか。 常貞の子で、南明禅師の父常元が、福島正則に次いで毛利秀元に一時仕えたと伝わること[7]や、実際に長府藩に伊予正岡氏の後裔を名乗る家[8]が確認できます。 このような正岡氏と長府毛利家の関係には小早川隆景時代の正岡休意との関係が影響しているのかもしれません。

注釈

  1. 「村上小四郎蔵文書」6月5日 村上景房宛 正岡休意書状(『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編)
  2. 系図上では甚右衛門の名は景尚ですが、「乃美文書」に残る口宣案などからこれに疑念があることは以前提示しました。
  3. 「米山寺文書」小早川泰雲隆景寄進往生講式装束目録写(『広島県史 古代中世資料編4』豊田地区 433、1978年)
  4. 慶長5年9月12日 尾張国野間内海合戦頸注文(『大日本古文書 家分け 毛利家文書』)において村上景広麾下の一人に村上仁三郎の名が見えます。
  5. 「小早川隆景公御家中名有侍付立」(「豊浦藩旧記 第27冊」)(『下関市史』の資料編1、1993年)に天野右衛門佐の名前が見えますが詳細は不明です。
  6. 「水里溯洄録」(『予章記・水里玄義』伊予史談会編、1982年)
  7. 『正岡一族』「正岡氏の起源」(正岡系族研究会、2004年)
  8. 「藩中略譜」正岡氏の項(山口県文書館所蔵資料)では丹後守を祖とし、その曾孫通貞が秀元に仕えたと伝えます。「水里溯洄録」では丹後守の子、右近通高の次男通成が秀元に仕えるもその子源右衛門は民間に落ちると伝えています。

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