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得居氏と池原氏の争論 [史料紹介]

史料上の池原氏については、少し紹介しましたが、その一つに「毛利家文書 遠用物」所収の池原内蔵大夫宛の小早川隆景書状[1]が存在します。

同書状を翻刻掲載している『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』の解題で石野弥栄氏は、これを賀島(鹿島)城攻めについてのものとされています[2]が、同じく「遠用物」に所収の書状として紹介されている以下の得居通幸書状[3]が高仙山に触れていることから、これも隆景書状に関連のあるものと考えた場合には多少その見方を変える必要があるように思います。

ここではこれらの書状の内容について考えてみます。

小早川隆景書状の内容

まずは小早川隆景書状です。

今度御方進退之儀至
賀嶋重畳申理納得候段、
如此通幸一通之上者長久
不可有異義候条、先規之姿
無相違可被遂馳走事簡要候、
猶両人可申候、恐々謹言

五月廿八日 隆景(花押)
池原内蔵大夫殿 進之候

「御方進退」つまり池原内蔵大夫の今後について、賀嶋(=得居通幸)の申し分を聞いた上で、これ以降は「先規之姿」に則り「可被遂馳走事」が大事である、と伝えているようです。

ここから読み取れるのは池原内蔵大夫は以前より得居通幸に「馳走」すべき立場にあった勢力であるということになるかと思います。

得居通幸書状

続いて得居通幸書状です。

就高仙之儀度々
御渡海御辛労之
段、不及申候、従隆景様
依被仰聞辻相調
候之条、肝要存候、
条々入組之事互ニ
申談候趣、向後不
可有御忘却候、
恐々謹言、

    得右
六月朔日 通幸(花押)

土源右
進藤右 御宿所

まず、通幸書状の宛先は隆景家臣と思われる「土源右(土倉源右衛門?)」[4]、「進藤右(進藤与右衛門?)」[5]です。 このうち「土源右」については同じく使者としての人名が乃美宗勝、村上武満連署書状にも見えています[6]ので、小早川氏の家臣として使者を務める機会の多かった人物と考えられます。 この両名に、本題と思われる「高仙之儀」に関して一度だけではなく何度も使者が渡海してきたことを謝していることから、継続的に隆景が介在していた入組=トラブルが存在したと言えそうです。 また、「従隆景様依被仰聞辻相調候」ということで、隆景の仲介により高仙との和解が今回の渡海で成立したということでしょうか。

「入組」の背景

日付から見た場合、まず隆景の書状が発給され、その宛先は池原内蔵大夫であり、文末にある「両人」が通幸書状の宛先、土源右、進藤右のことであると考えられます。 使者の両人が伊予渡海後、高仙山の池原内蔵大夫と会った後、その居場所に通幸が書状を送っているということではないでしょうか。 一方、4日後のその通幸書状では隆景の調停で入組(=争論)が納まった事を確認しているように見えますし、隆景書状でも「納得段」という表現から仲介がまとまりつつあった時期の書状のやり取りに見えます。

池原内蔵大夫については他の史料には見えない存在と思われますが、通幸の書状や池原氏に関する伝承などから高仙山城主と考えてよいのではないかと思われます。 背景事情として鹿島城主得居通幸(あるいは来島村上氏)と高仙山城主池原内蔵大夫の間になんらかの「入組(争論)」があり、その解決に隆景が乗り出した、あるいは当事者からの依頼があったということでしょうか。

得居氏に養子に入った村上通康の子、通幸はその本拠を鹿島に移したとのことですが、山内譲氏によれば通幸の鹿島移転は天正6年から8年にかけてであろう[7]としています。 鹿島への移転前、あるいは通幸の家督継承前は、得居氏は警固衆としての存在よりは賀茂別雷社領菊万荘の所務請負人を務めていることが知られています[8]ので、それまでの本拠は野間郡高仙山城であったのではないかと思われます。

一方、池原氏についても16世紀始めには野間郡に存在が確認できます[9]。 ただし、河野家有力庶流河野通生の血を引く通吉が池原氏を名乗ったとする点については通吉実在の確認も含めて検討が必要なのではないでしょうか。

また、この両氏が野間郡においてどのような関係にあったのかは明らかになってはいないようです。

書状の発給時期

この隆景書状が毛利勢の鹿島城攻撃と無関係であれば、この書状がいつのものかということが気になります。 この書状の中では鹿島=得居通幸であると言えそうですので、その上限としては本拠を鹿島に移した天正6~8年以降が考えられます。 一方、下限は、隆景が仲介を行っていることから伊予への関わりが残る筑前転封前の天正15年でしょうか。 この約10年程の期間のうち、天正10年の来島通総離反を境に隆景と得居氏の関係も変わっています。

来島村上氏の離反後

まず、その後半部分、隆景と得居氏の関係が協調関係になくなった期間から考えてみます。

天正10、11年は、来島通総の離反によって毛利、河野両氏が鹿島を攻撃している時期です。 天正10年には離反が明らかになって早々に来島系の諸城に攻勢をかけていますし、織田軍との対峙状況が解けた後の天正11年には来島城から通総を追い落とし、攻略目標を鹿島に移して繰り返し攻撃を仕掛けていますのでこれの2年は明確に除かれます。

また、天正11年から12年にかけて菊間(菊万表)、あるいは高仙山城自体が戦闘の舞台となっていたとする史料も存在することから[10][11]、この時期に隆景が仲介に乗り出すようなことも高仙山の立場に関わらずなさそうです。

それ以降、天正15年の初夏、隆景は九州に在陣中で島津氏との戦いが終盤を迎えている時期で、戦いの終結後の筑前転封で伊予との関係は失われます。 天正13、14年いずれかの可能性はあるのかもしれませんが、この時期には独立した大名となった来島陣営の仲裁に隆景が立つ必要があったのかという点を考えることが必要に思えます。

離反以前

一方、天正6年から離反が起こる10年春までの隆景、通幸が同陣営に属した期間ですが、4回の5月末から6月の時期の隆景、あるいは通幸の動静を確認する必要がありそうです。 当時、隆景としては当面の対織田戦に力を割かれた時期ですが、尚更のこと伊予国内での毛利氏与同勢力内での争いには気を配る必要があったのではないでしょうか。

この時期のこととして『予陽河野家譜』[12]には天正7(1579)年に、来島通康が鹿島城代の二神豊前守に命じて高仙山城の池原兵部大夫通成を攻めたがこれには失敗したとする記事が見られます。

当然実際には通康は既に没していますし、この時期鹿島に在ったのも得居通幸であるなど、一見してわかる誤りも含まれますが、現実に高仙山の池原氏と通康の子が家を継いで鹿島に移った得居氏の間に何らかの争いがあったことを反映しているとも考えられます。 ただ、家譜の信憑性という点だけでなく、この時期の来島村上氏関連の記事として、正岡氏、中川氏、南氏など他にも多くの伊予国内の勢力との戦いを伝えているだけに、それらの内容がそれぞれどういった意味を持つのか検討する必要があるのではないでしょうか。

まとめ

来島村上氏と言えば能島村上氏と並ぶ瀬戸内の支配者としての面の他に、伊予国内の陸地部での活動についても、越智郡、野間郡、風早郡、和気郡、桑村郡、喜多郡と広範な活動が知られますが、その実態は不明な点も多いままであるようです。

その支配の中心にあった野間郡では来島村上氏の他、得居氏、池原氏の2氏の勢力が大きかったのかも知れませんが、その動静が明らかとなっているわけではないようです。

注釈

  1. 「遠用物」所収文書 年未詳5月28日 小早川隆景書状(『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書―古文書編―』、2002年、以下『しまなみ報告書』)
  2. 石野弥栄「「遠用物」所収文書解題」(『しまなみ報告書』)
  3. 「遠用物」所収文書 年未詳6月1日 得居通幸書状(『しまなみ報告書』)
  4. 「小早川隆景公御家中名有侍付立」(「豊浦藩旧記 第27冊」)(『下関市史』の資料編1、1993年)に土倉源右衛門の名前が見えます。
  5. (4)に同じく進藤与右衛門の名前が見えます。
  6. 「乃美文書」61 年未詳5月7日 村上吉継宛 乃美宗勝、村上武満連署書状(『新熊本市史』史料編 第2巻 古代・中世 、1993年)
  7. 山内譲『海賊と海城 瀬戸内の戦国史』「第1章 安宅船が攻撃した海城―伊予鹿島城―」(平凡社、1997年)
  8. 『菊間町史』「第2編 歴史、第2章 古代・中世、第5節 室町時代、3 得居氏」(1979年)
  9. 「遍照院文書」4 文亀元年 池原親安寄進状(『今治郷土史 資料編 古代・中世』、1989年)
  10. 『萩藩閥閲録』「三吉与一右衛門(山田太郎左衛門)」(天正11年)6月3日 山田中務丞宛 毛利輝元感状(『県史』2389)、「飯田七郎右衛門」(天正11年)6月14日 飯田弥七郎(元覚)宛 毛利輝元感状(『県史』2391)、「沓屋市之助」(天正11年)6月14日 沓屋源四郎(元綱)宛 毛利輝元感状(『県史』2392)はいずれも菊万表での戦いについての感状となっています。
  11. 『萩藩閥閲録』「世木九郎右衛門」 天正12年4月15日 中間与三兵衛宛 井原元尚書状(『愛媛県史 史料編 原始・中世』2411、以下県史)は高仙固屋口での戦いについてのものとなっています。
  12. 景浦勉編『予陽河野家譜』(伊予史料集成刊行会、1975年)

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