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正岡休意と宮内休意(2) [人物]

伊予の関が原、刈屋口の戦いの前後に存在が確認出来る2人の「休意」のうち、今回は宮内休意を見て行きます。

刈屋口の戦い

宮内休意は、関が原の戦いの折、伊予に進攻した毛利軍が味方になることを要求する宍戸景世らの書状[1]において武井宗意と共にその宛先となっていることで知られる人物です。 残念ながら、この毛利軍からの書状に対して彼らがどのような態度を取ったのか、はっきりした記録はないようです。 景世らが同様の書状を他の河野旧臣にも送った可能性は当然考えられますので一概には言えないのでしょうが、武井、宮内の両人の動向が加藤領内での動静に大きな影響のある存在と認識されていたのかもしれません。

毛利軍からの誘いについて、宮内休意はこれに応じたようだと光成準治氏は書かれています[2]が、この点については後ほど取り上げみたいと思います。

武井宗意

武井宗意については土居聡朋氏によって詳しくまとめられています[3]。 それによれば、武井宗意は河野旧臣で元は武任氏を名乗り、通親、信通、貞通と続いていたようです。 河野氏の滅亡後、天正15年に父信通を亡くした貞通は剃髪して宗意と名乗ったとされます。 また伊予に所領を持った豊臣系大名の親交が知られ、戸田勝隆の代官職を務めたり、あるいは福島正則との関係も確認でき、後年にも会津転封後の加藤嘉明との音信が知られていることから、関が原の戦いに際しても毛利軍には味方しなかったのではないかとのことです。

宗意の事績としては加藤氏時代に行った松前での開拓により「宗意原(そいばら)」の地名が今もその名残を伝えている[4]ことや酒造業を営んでもいたとのことからも、河野氏滅亡後は純然たる武士として生きていたわけではなさそうです。 その後、宗意は宗意原に今も残る妙寛寺を創建し、墓も同寺に残っています[5]。 ただ、墓碑には延宝3(1675)年没とあるそうですがこれが事実であれば、天正15(1587)年には戸田勝隆の代官を務めている以上100歳を越える大往生であったことになるわけで、その真相はどのようなものでしょうか。

宮内休意

上記のように武井宗意については史料が多く残ることからこれまでも言及がなされてきました。 しかし、宮内休意については河野旧臣であろうというのみで具体的な事績ははっきりしないようです。

休意についての記録としては「二神家文書」に含まれる「河野通直年忌覚書」にその名が残っています[6]。 この中で文禄2年の通直七回忌の際に集まった施物を今後の年忌や毎年の施餓鬼に使うための管理をする人物として名が記されているのが升屋朗老、宮内休意老の2人です。 このことから、河野旧臣として信望もあり、この当時の伊予国内にある程度安定した立場をもち、経済的にも困窮してはいなかった、そのような人物である可能性が考えられます。

宮内休意の動静

光成氏は関が原の戦いに際して宮内休意が戦後大坂に逃れたと村上景房宛正岡休意書状[7]を挙げて書かれていることから正岡休意と宮内休意を同一人物であるとしているようですがその根拠ははっきりしません。 私はこの2人は別人であり、宮内休意も毛利軍には与しなかったのではないかと思うのですが、これに関して先の覚書の該当部分を示します。

一 文禄ニ癸巳年 七月十四日 七周忌
  此段御弔各緒侍之奉公衆高下共ニ出銀出来致、
  為御年忌毎之御弔ニ集置、歳々之施餓鬼ニモ
  被加御弔勤申シナリ、施物預之蔵元者
              升屋朗老
              宮内休意老
一 慶長四巳亥年 七月十四日 拾三周忌
  是モ右出銀出米施物以御弔勤也
一 慶長八癸卯年 七月十四日 拾七遷忌
  是迄者右同断也
一 慶長十六辛亥年 七月十四日 二拾五遷忌
  為此御弔重而改テ出銀出米ヲ以テ勤者也

この年忌覚書を信ずるなら文禄2(1593)年に集まった施物により慶長4(1599)年、慶長8年と2回の年忌を賄うことができているようです。 次の慶長16(1611)年の二十五周忌では再度「出銀出米」を行ったとわざわざ記しているあることからも、文禄年間に集めた資金が関が原後の慶長8年までは維持できていたと考えられます。 それはすなわち宮内休意が関が原後に伊予を逃れて大坂へ移るようなことはなく、その後も伊予国内で無事に過ごせていたということではないでしょうか。 このことからは宮内休意が毛利軍に呼応した可能性は低いように思われます。

注釈

  1. 9月15日 村上武吉・村上元吉・宍戸景世連署書状(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』愛媛県今治市教育委員会)
  2. 光成準治『関ヶ原前夜』「第3章 「西国の統括者」毛利輝元」(日本放送出版協会、2009年)
  3. 土居聡朋「関が原合戦における四国侵攻と武井宗意」(『地方史研究』328、2007年)
  4. 『松前町史』「第2編 歴史 第8章 新田開発 4 新田の開発形態」(1979年)
  5. 『松前町史』「第6編 宗教 第2章 寺院 14 妙寛寺」
  6. 「二神家文書」242 河野通直年忌覚書(景浦勉『大山積神社関係文書 付 二神家文書』、伊予史料集成刊行会、1977年)
  7. 「村上小四郎蔵文書」6月5日 村上景房宛 正岡休意書状(『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編)

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