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原筑後守と観音寺(1) [人物]

はじめに

「高野山上蔵院文書」からは河野氏、あるいは伊予に関連する多くの(しかも実在の可能性が高い)人名の手がかりを得ることができますが、 「河野家御過去帳」の中に天正18(1590)年10月18日付けで「柏堂重意居士」の慰霊を依頼している「豫州原筑後守殿」の名前があります[1]。 同時に「奥院常燈明」も寄進したようで「同右取次南谷玉蔵院 」と書かれています。

正明山観音寺

伊予の国府がありかつて府中と呼ばれた地域が越智郡ですが、その日吉郷、さらにその中心部に位置する日吉村(現在の愛媛県今治市)に正明山観音寺という臨済宗の寺院があります。 この寺は永禄年間に河野氏の流れとされる原筑後守房康という人物が、宝鏡梵知を開山とし、同じ越智郡の朝倉村から「十一面観音像」を海地古川に移し堂宇を創建したと伝わっています[2]。 日吉村を一望できる位置に、城山として伝わる(大正時代の地図では城台山と記載されている)標高40mほどの小さい山がありますが、 原筑後守は日吉村へと来て、この山にあった城の城主となったとのことです。 また、明治の初めまで原筑後守が来島より移したと伝わる三十番神が祭られていたそうですが、現在は近隣の姫坂神社へと奉遷されています[3]。

なお、記録によっては「御城山城」ともされている原筑後守がいた城ですが、この城についても特に伝わっていることもなく、その名前も正確にはわかりません。 近世以降の地誌などにもほとんど取り上げられておらず、残念ながら現代の学術調査でも特に城跡としての確認はなされていないようです。 わずかに観音寺に関わる伝承以外では「城山」「城台山」といった呼び名や小字としての「御城山」といったところにその名残りがあったのみだったようです。 来島村上氏が「日吉之城」を有していたとも伝わっています[4]ので、それがこの日吉之城のことを指していると考えられる位でしかありません。

原氏と来島村上氏

戦国時代の伊予では原豊前守興生や原四郎兵衛が来島村上氏の家老として知られています[5]が、来島から来たとする伝承の内容と合わせて原筑後守もこの一族であると考えられます。 年代から言えば村上通康そして村上通総に仕えていたのでしょうが、「河野分限録」などにも筑後守の名前は見つけられません。 これまでその名を観音寺関連の資料以外ではその名前を確認できないままでいましたが、 この原筑後守房康と「河野家御過去帳」に現れる原筑後守は同一人物あるいは親子のような近親者であると考えてよいのではないかと思っています。

日吉郷と来島村上氏との関わりについて言えば、村上牛松(元服して通総)による日吉郷海会寺分の押領が知られており[6]、 これについては川岡勉氏が足利幕府との間の新居、宇摩2郡の河野氏への返還問題と関連付けて論じられています[7]。 それによれば、通康存命中の永禄年間の初期から、かつて河野氏が将軍の近臣である梅仙軒霊超に給付した日吉郷の一部について公用の滞納がなされていることも将軍御内書や梅仙軒霊超書状などから明らかとされています[8]。

これらの滞納や横領が一貫して来島村上氏の手によるものと考えれば、その現地での実行者が永禄年間に観音寺を創建したとされる原筑後守であったとも考えられるでしょう。 寺領を押領されたとされる海会寺は江戸初期には荒廃していたとされ、寛永年間に復興されて海禅寺と名を改めます[9]。 その後、寛文年間に入って観音寺の訴えにより海禅寺と観音寺は本末を争うことになり、寺社奉行の裁定により海禅寺を本寺、観音寺を末寺とすることとなりました。 さらに元禄年間に観音寺は現在地でもあるかつて原筑後守が居城としたとされる城山の中腹へと今治藩の命で移転することになりますが、 移転前に観音寺があったとされる地名からは、まさに海禅寺の門前に位置していたことが伺われます[10]し、 原筑後守の居城があったとされる城山からも数100mという目と鼻の先に位置しています。 こうした状況からも原筑後守による観音寺の創建には来島村上氏による日吉郷への進出という目的があったのではないかと推測したいところです。

注釈

  1. 土居聡朋 山内治朋「資料紹介 高野山上蔵院文書について(下)」(愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』13号、2008年)
  2. 今治市教育委員会『市制60周年記念 今治の歴史散歩』によれば「観音寺縁起」では永禄年間に日吉御城山城の原筑後守房康が朝倉村から「十一面観音像」を海地古川に移し、堂宇を創建したと紹介されています。また、「日吉村郷土史」(『今治郷土史 資料編 近・現代3 今治地誌集』1987年)での村内の寺院の解説で「海禅寺」の記事がその内容から観音寺のものとわかりますが、そこでは文禄2(1593)年10月14日建立と記しています。ただし、「今治拾遺」(『今治郷土史. 資料編 近世 1』1987年)の観音寺の項では「開祖由緒記」の記すところとして房康を河野氏の末葉として永禄年間の創建とあり、なおかつ開山の宝鏡梵知大和尚を文禄元年5月22日寂と記していることから、「日吉村郷土史」の文禄は永禄の誤りであると考えられ、その場合は建立されたのが永禄2(1559)年10月14日であるとも考えられます。
  3. 前出の「日吉村郷土史」では古老の伝説として来島より原筑後守が日吉の城に移った際に三十番神を奉遷したものと紹介されています。その後、天正13年に原氏が四国征伐で滅ぶものの、免租地を持ち後裔の信仰厚かったものが明治5年の太政官布告で姫坂神社に奉遷され境内末社となったとのことです。
  4. 「伯方能島村上家系図」(松岡進『瀬戸内水軍史』掲載)では来島義忠について「来島村上家の祖なり、村上三郎、後出雲守と号す。来島城、添之城、日吉之城、弓杖之城、怪島之城、尭多殿之城、高仙山城、鹿島城以上八ヶ所の城主」と記されています。弓杖、怪島、高仙山、鹿島などは来島村上氏との深いつながりが知られていますが、それ以外にもいくつかの城が知られていたことがわかります。
  5. 原豊前守興生については発給文書類から天文10年頃には来島村上氏の重臣であったことが知られています。また、原四郎兵衛については『予陽河野家譜』において主君通総の河野氏離反を諫止したために通総の命で誅殺されたと伝わります。
  6. 8月13日一色藤長書状写(『愛媛県史 資料編 古代・中世』2142、以下『県史』)、8月14日梅仙軒霊超副状写(『県史』2143)
  7. 川岡勉『中世の地域権力と西国社会』「第10章 戦国・織豊期の東伊予と河野権力」清文堂出版、2006年
  8. 将軍義輝の時代に公用の滞納がなされていたこと(9月20日足利義輝御内書写『県史』1891、11月1日梅仙軒霊超書状写『県史』1959、11月26日梅仙軒霊超書状写『県史』2149)、義昭の時代にも知行確保の厳命がなされていたこと(7月4日足利義昭御内書写『県史』2138、7月9日一色藤長副状写『県史』2140)が知られています。
  9. 『日本歴史地名大系 愛媛県の地名』海禅寺(平凡社、1980)
  10. 明治13年の「伊予國越智郡地誌」(『今治郷土史 資料編 近・現代2 今治地誌集』1987年)に当時の字名が記録されています。これに明治末頃の地図(『今治郷土史 写真集 近・現代 5』1990年)と照らし合わせると移転前にあったとされる古川は現在の海禅寺の門前と村内を横断する浅川を挟んですぐの位置にあたることがわかります。ただし、往時の海会寺が現在の海禅寺と同じ場所に位置していたかどうかは不明です。

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