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高き塔の下で [人物]

「大日本史料」の元和8(1622)年の記事中で毛利氏家臣堅田元慶の卒伝として多数の関連資料が活字化されています[1]。 また、この掲載に関連して、宮崎勝美氏が論考をまとめられています[2]。

堅田元慶は毛利輝元の出頭人の中でも特に若年でありながら、輝元の奉行人として活躍した人物です[3]。 天正末年頃には既に家中で一門、国衆を覗けば最大の給地を有しています[4]。

一方、関ケ原合戦後は証人としてそのほとんどを江戸で過ごした事は筆者も今回の資料と論文を読むまでは把握していませんでした。 上記の論文では、元慶の関ケ原合戦以降の境遇や史料から読み取れる逸話など、興味深いものが紹介されていますが、それ以外の部分で気になるところをとりあげてみました。

元慶の出自

粟屋氏

元慶は粟屋元通を父、宍戸氏家臣江田元周娘を母として、その二男として永禄11(1568)年に生まれます[5]。 兄元定が父元通の跡を継ぎ、弟元宣も別家を建て、他に姉妹もいたようです。 妻は益田元祥娘で寛永13(1635)年没、49歳[6]と伝わり、元慶との年齢差からは元慶の継室である可能性が高いのではないでしょうか。 子は跡を継いだ就政の他、5人の娘はいずれも毛利一門の当主か秀就期の重臣に嫁いでいます。

   粟屋元通(縫殿允、備前守)
     |——元定
     |——(堅田)元慶
     |——元宣  |—毛利元任室
江田元周—女 (和智) |—宍道元親室
            |—井原元良室
            |—就政
            |ー梨羽就云室
       益田元祥 |—毛利元包室
         |——女
    吉川元春—女

堅田氏

堅田氏自身は堅田姓を輝元より与えられたと記します。 一方、「長陽従臣略系」[7]は、堅田氏の項で元慶を三郎左衛門養子と記載するものの、同書自体は三郎左衛門の詳細を述べません。 しかし、奉行人として堅田三郎左衛門尉元乗の活動を知られており[8]、関連資料が下記のように存在します[9]。 このうち、元亀元年とされる書状については国司元相と共に、後年裏書したのが元乗と思われるため、その活動時期は天正10年前後の周防に限られる可能性が高いのではないでしょうか。

期日内容備考
(元亀元年)1月23日「防府天満宮文書」 42 円楽坊隆恵•大専坊慶雄連署書状 裏書に「11月23日 堅田源□ 元乗 国司飛騨守 元相」
(天正9年)2月9日『閥閲録』「巻77 粟屋理源太」20 堅田元乗•綿貫元重連署書状
(天正9年)7月18日「防府天満宮文書」117 堅田元乗書状
天正10年4月18日『閥閲録』「巻21 柳沢靭負」67 羽仁加賀守外三名連署御料所充行状
(天正11年)12月18日「国分寺蔵文書(周防国分寺文書)」 59 毛利輝元袖判同氏奉行人連署書状
天正13年6月11日「国分寺蔵文書(周防国分寺文書)」41 防府国分寺寺領坪付

分限帳からは天正末頃に堅田を名乗る家臣は下記4人が確認できますが[10]、その中に三郎左衛門の名もみえます。

  • 堅田兵部(元慶) 約7400石、周防玖珂郡、熊毛郡など
  • 堅田三郎左衛門尉(元乗?) 約430石、周防玖珂郡、吉敷郡など
  • 堅田越後守 約17石、長門豊東郡
  • 堅田四郎兵衛 約17石、周防玖珂郡

上記の通り、給地の多くが周防にあり、特に玖珂郡に全体の過半が集中しますが、元慶初期の活動もまた周防で見られます[11]。 元慶が堅田元乗を継ぐ形で輝元側近としての地盤を固めた可能性は十分にあるのではないでしょうか。 この場合、元慶は元乗の婿であったのかもしれません。

この後、慶長4年頃と思われる分限帳[12]では元慶以外の堅田氏は確認できなくなります。 慶長10年の家臣団起請文[13]にも元慶以外は見えず閥閲録、譜録いずれも堅田氏は元慶系の1家のみです。

江田氏

元慶母の出身と伝わる宍戸氏家臣江田氏は、その系図で確かに元周の娘が粟屋縫殿の妻と記されています[14]。 元周は63歳で天文8(1539)年没とありますが、元慶弟元宣は天正5(1577)年の生まれです。 元慶、元宣などの生年と比べた場合、江田氏系譜の情報に脱落が可能性があるかもしれません。 元周の父に置かれる荘原元重は、いわゆる「後の宍戸」元家の弟として常陸から来住した一人と伝わる存在であり、これについては改めて考えてみたいところです。

小早川氏、三原と堅田元慶

元慶については、小早川隆景から小早川継ぐ事を求められるもこれを辞退、代わりに輝元から堅田姓を与えられ、天正13(1585)年に三原城を預かる、として知られます。 しかし、これには輝元側近としての立場と矛盾があり、また、三原支配に関連する、あるいは小早川家中との具体的関わりがみえません。 これを述べるものの一つが『閥閲録』での堅田氏の記載[15]ですが、裏付けとなる記録類は提出されてはいません。

一方で、元慶200回忌を目前とした享保5(1720)年に肖像が作成されています[16]が、その賛文には小早川氏との関係について全く触れられていません。 この享保5年は『閥閲録』の編纂開始時期であり、先の堅田安房による閥閲録掲載の記述もこれ以降のものと思われます。 堅田家が隆景との関係を再認識したのが享保5年以降、となりますが、小早川氏関連文書を保有していたという事以外、その典拠は不明です。

この他、三原城についての記載には『閥閲録』の草苅氏の下記の記録が紹介されています[17]。

関ケ原御陣之後茂、堅田大和守暫三原ニ在城之故、(草苅)重継三原江罷越

ただし、これも伝来の輝元書状を根拠とした草苅氏による後世の記述です。 草苅重継は隆景死後も秀秋家臣として小早川家中にありますが、関ケ原合戦に際し秀秋の寝返りを察知し大坂の輝元へと注進したとします。 実際の前後関係は裏付けられませんが、戦後の12月12日付の元慶宛知行附立[18]に、元慶組中として500石の記載があります。 この時までには毛利家中へと移り、元慶組に属したことになります。 ここには同じく高尾、神保など小早川系とも思われる名前も小禄ながら並びます。

この元慶三原在城の根拠と思われるのは輝元書状[19]中にある「惣別各三原衆無覚悟之儀候処」という記述でしょうか。 このときに重継を元慶の下へ差下しているのは確かですが、それが三原かは不明です[20]。 この「三原」は井上、粟屋ら隆景遺臣を指すもので、元慶の居場所とは無関係に思われます。 ただし、隆景死後の三原支配に元慶が関わっていた可能性はあり得そうです。

関ケ原合戦

関ケ原合戦の戦後処理については領土交渉についてのものが取り上げられるばかりで、安国寺恵瓊の処分について東軍と毛利家の間にどういった交渉が持たれたのか述べられることはないようです。 戦犯との疑いをもたれる中、江戸へ向かった元慶の他、輝元の近くで行動していた毛利元康は慶長6年初頭に病没しています。 同じく慶長6年中に輝元出頭人である張六左衛門元至が秀就乳母との密通を疑われるという形で自刃すると伝わる事件も起こります[21]。 毛利家中内部での争いが原因であるのか、あるいは戦後処理の一つであった可能性はないのでしょうか。

もうひとつ、『大日本史料』が『指月山待宵物語』という資料を掲載しています。 これには、関ケ原合戦に際して元慶が同じ西軍の大谷刑部の館に押し入って略奪を働いた、と記されているようです[22]。 その性質や内容の信憑性など何も触れられていませんが、「近代ノ阿曽沼(就春)、国司(主計)共カ風情ニ」とあり近世に入って権勢をふるった籠臣と並んで書かれるところから、元慶についても一定のそうした評価があったものと思われます。

まとめ

毛利輝元の側近、堅田元慶についてみてみました。 近世、堅田氏が小早川氏に関する文物を所有していたことは間違いないようです。 しかし、堅田元慶が小早川隆景生前に三原城に関わった、あるいは小早川家中で何らかの権限を行使した事は確認できないのではないかと思います。

一方、若年から毛利輝元からの厚い信頼を受けていた事は確かです。 輝元が元慶を取り立てるために周防堅田氏を継がせ、後には奉行人の地位を得たものと推測したいと思います。

ところで表題の「高き塔」ですが、これは今現在の堅田元慶の境遇から採用しました。 証人として江戸で後半生のほとんどを送る事となった元慶は元和8(1623)年9月27日に55歳で没します。 その墓は、現在、東京タワーのほぼ直下、元慶自身が開基となり、山口瑠璃光寺より祐田秀山和尚を江戸へと招いて開いた瑠璃光寺[23]に現存しています。

最後にもう一つ、『大日本史料』収録の吉川広家書状についてのアレコレが、前回も紹介した 戦国覚書 にてまとめられています。 是非こちらも。

注釈

  1. 『大日本史料』「第十二編之五十九」(東京大学史料編纂所、2009年、以下『大日本史料』)
  2. 宮崎勝美「毛利家臣堅田元慶の生涯と堅田家伝来小早川家文書」(『東京大学史料編纂所研究紀要』21号、2011年)
  3. 光成準治『中•近世移行期大名領国の研究』「第六章 毛利氏行政機構の進展と給人統制」(校倉書房、2007年)
  4. 岸浩編『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ書店、1987年)
  5. 『譜録』「堅田安房広慶」「粟屋新左衛門通知」(『大日本史料』)
  6. 『近世防長諸家系図綜覧』「永代家老益田家」(マツノ書店、1980年)
  7. 山田恒嘉編 山田恒通跋『長陽従臣略系』(東京大学史料編纂所公開用データベース
  8. [3]に同じ
  9. 『閥閲録』は『萩藩閥閲録』各刊(マツノ書店、1995年、以下『閥閲録』)、その他は『山口県史 史料編 中世2』(以下『県史』)より
  10. [4]に同じ
  11. 「三家本家文書」2 堅田元賀書状 天正14年正月6日 三家(本)宗右衛門尉(『県史』)など
  12. 「 広島御時代分限帳」(山口県文書館所蔵、デジタルアーカイブより)
  13. 慶長10年12月14日 福原廣俊外八百十九名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』1284)
  14. 『宍戸家文書』複写史料「江田家系」(山口県文書館)
  15. 『閥閲録』「巻10ノ6 堅田安房」
  16. 「堅田元慶畫(画)像」(『大日本史料』)
  17. 『閥閲録』「巻34 草苅太郎左衛門」
  18. 『閥閲録』「巻10 堅田安房」264 (慶長5年)12月12日 堅田元慶組衆知行割符
  19. 『閥閲録』「巻34 草苅太郎左衛門」37 1月30日 毛利輝元書状
  20. 『閥閲録』「巻87 林勘兵衛」12月18日 毛利氏奉行人連署書状(『大日本史料』)では、在国する佐世元嘉へ新たな知行割と合わせ、吉川領となる地域に屋敷を持つ者に早急に移動を命じる指示がなされています。また、福原、榎本と連署している元慶はこの時点では上方へ居たのではないでしょうか。
  21. 『橘町史』「第2編 橘町の歴史 第4章 近世前期 第6節 張六左衛門のこと」(1983年)
  22. 『指月山待宵物語』(『大日本史料』)
  23. 「堅田彌重郎家老充江戸瑠璃光寺役者由来書上」(『大日本史料』)

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御幡正章

境内に供養塔があり関心を持ちました。さらにいろいろなお話があることを楽しみにしています。彼には影武者がいたとかいうお話がありますか?
by 御幡正章 (2016-10-25 08:20) 

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