末永良昧の記 [人物]
ふとしたきっかけから、小早川隆景の旧臣の一人、末長七郎左衛門景直(良昧)と子孫の行方が見えてきたので、今回はこれを紹介してみます。 その情報を掴むきっかけとなった奇跡的な経緯についてはといきんさんの「戦国覚書」内の 「広家の初陣@児童向け読み物」にて紹介いただいていますので是非こちらもご覧ください。
末永良昧
吉川家に伝わる文書類の中に残されたものの一つが末永良味書状です[1]。 時期は不明ながらその内容は黒田長政の命を受けた末永良昧なる人物が吉川広家へと使者にたった際のものであるようです。
この黒田氏家臣とみられる良昧の姿を慶長から元和にかけての各種分限帳で確認[2]すると、当初は田代半七組に属し、200石から300石ほどの禄を得ている「新参」の人物、そして元は「刑部景直」を名乗ったことなどが記されています。 景直の名前などからこの良昧は小早川家中にあった末長七郎左衛門景直と同一人物であろうと推定できます。 黒田家中で「新参」は関が原合戦後の召抱えを指すこと、慶長7年の分限帳には名前が見えること、が良昧が黒田家臣となった時期などを見る上で意味がありそうです。
隆景の死と三原衆
小早川隆景は慶長2(1597)年6月に亡くなりますが、その死は急死であったといい、その時点で「三原衆」と呼ばれる家臣団がなお隆景の下に残されていました。 その三原衆の井上春忠ら有力家臣7名がおよそ半年後の12月6日に毛利元康宛へと差し出した起請文[3]が残されています。 その内容から彼らの扱いが微妙なものであったことが伺えますが、そこに連署している一人が末長七郎左衛門景直です。 隆景の下で活躍した、同族と思われる磯兼(末長)景道が多数の史料に名を残しているのと対照的に、実のところこの起請文以外には小早川家臣時代の姿は確認できない人物でもあります[4]。
その後、三原衆は基本的には毛利本家の家臣団として編成されたようですが、こうした中で起請文に連署した人物達は毛利輝元あるいはその家臣団と軋轢を起こしたものか、慶長4年に鵜飼元辰が切腹(誅殺とも)、その他の面々も関が原合戦後には早々に毛利家を離れていることが確認できます[5]。 この時期、慶長4(1599)年ともされる「広島御時代分限帳」[6]では「末永七郎左衛門」 として270石ほどの所領を与えられている姿が見えます。 黒田家中での「新参」であることから、景直についても毛利氏を離れたのは慶長5年の関が原合戦での西軍敗北以降ではないかと言えそうです。
景直の行方
良昧関連文書
ここでは福岡県史に掲載されている史料から、福岡藩での良昧の動向を見てみます。
まず一つは忠長(忠之)の名前で福岡城の各門の門番について命じたもの[7]で、「末永了眛下之門 末永了眛(景直)」と良昧も一つの門の番を命じられており、そもそも門の側に屋敷地を持っていたようです。 大坂の陣に際しての長政から国元の家老衆へ出兵を命じる書状[8]ではその詳細な指示の一つに「大筒共ニ仕かけ候矢蔵も、良眛預之蔵ニ可有之間、出させ候て不残可持上事」と記されており、良昧が蔵の管理という役割を与えられていたらしきことがわかります。
その他、長政から「末永朗眛」に「けんさんの天目」「かう箱(香箱)硯」などを船で手配するように命じた書状[9]があり、これは末永氏の下に伝来していたようです。 舟手である松本家が伝える小河之直からの切紙も慶長20年の江戸への廻船時に米と共に運ばれた「御蔵より出ル御道具」の入った箱についてのものとなっています[10]。 これらの史料からもやはり蔵や道具の管理に当たっていた良昧の姿が見えてきます。
時期は不明ですが三奈木黒田家に残る黒田長政からの書状[11]では「松平右衛門佐(忠之)の所へ末永良昧を差下す」旨が記されていることから長政の意を受けた使者となることもあったようです。
これらは、当然ながら良昧が為した仕事の極一部分が伝わっているものでしかないでしょうが、良昧は初期の福岡藩で官僚的な仕事を任されていたのではないかと考えられそうです。 黒田氏での召抱えもそうした能力を評価されてのものだったのでしょうか。
景直の系譜
後述する通り、微禄となりつつも末永氏は幕末まで福岡藩士として続いています。 恐らくはその系譜を伝える史料が福岡に残されている可能性は高いとは思いますが、ここでは刊行されている史料から確認できる範囲で、末永氏の系譜関連を取り上げてみます。
出自
先の起請文を見るに良昧は間違いなく小早川家中の奉行人クラスの人物であったかとは思われますが、小早川時代の動向はみえません。 内容の信頼性について不明な小早川家臣団の「侍付立」[12]でも、侍大将の一人に「末近」七郎左衛門と見えている人物が景直でしょうか(小早川家臣団には末近氏も存在しています)。 黒田家の分限帳に残る刑部の名乗りもいつのものか不明です。
末長氏自体は小早川氏庶流とされ、常陸介景盛、左近太夫景道の名前が知られます[13]が、景道は末長から磯兼と改めています。 その後、磯兼氏は乃美宗勝の子、景綱が継ぎますが、その母は常陸介景盛の娘とのことです。
一方、末長氏としては、永禄年間に毛利氏家臣の末長源七郎の名前が確認できます[14]。 七郎左衛門景直の名や、後に末長源七を名乗る人物も福岡藩に見られることから、むしろこちらとの関連を考えるべきかもしれません。 何らかの事情で毛利氏家臣となっていた末長一族が存在したのか、あるいは景直が全く別系の末長氏に由来を持つ可能性もありそうです。
景直の後継者
黒田長政による家臣団観察の記録(?)「家中間善悪之帳」[15]に末永七郎左衛門の名前が見えます。 久野外記(重綱)と「よく候」と挙げられる一人です。 また、元和9(1623)年、分知を受けた黒田高政へとつけられた家臣35人の中にも、末永七郎左衛門が含まれます[16]。 200石取であるその人物は、七郎左衛門の名乗りと時期からみて良昧の後継者といえそうです。 寛永元年の知行割帳[17]では御牧郡楠橋村の内で200石を宛行れていることが確認できる他、代官村付帳[18]により同村での蔵入11石余の代官であることがわかります。
七郎左衛門にはいずれも「元忠」と註が入っていますが、これは系譜史料あるいは、署名の残る史料が存在するということでしょうか。 「元」の字は毛利輝元からの拝領と思われますが、景直と共に毛利氏を離れ黒田氏へ仕えたと解釈できそうです。
その後の末永氏
後に福岡本藩に復帰したらしき末永氏の名前は幕末に至るまで福岡藩の各分限帳で確認できますが、そのうち、主なものを紹介してみます。
「寛文官録」[19]に見える末永伊右衛門景利は「若殿様衆」に名前を連ねています。 この「若殿様」とは年次から光之の子、綱之でしょうか。
屋敷地割の記録としての性格が見える「宝永分限帳」[20]では末永源七の名前が見えます。 禄高の記載がないようですが周辺の屋敷割から見る限り、100石から300石取程度の階層だったのではないかと想像できそうです。 この後、「享保分限帳」[21]に残る末永七郎太夫が100石取なのを最後に、分家への分知もあったのか末永氏の家禄は減少しつつ、存続していたようです。
そして「明治初年分限帳」[22]では6家の末永氏を確認することができ、うち2家は長政以来として記録されています。 その2家はそれぞれ当主が七郎、良昧(!)を名乗っていますのであるいは2人は親子関係にあり、良昧分は隠居料としてのものかもしれません。 また、最後の藩主長知以来とする家の末永茂一郎が後に平景賢を名乗ったらしく、これら3家は良昧に繋がる家と見て間違いはなさそうです。 なお、この時点では、末永七郎の「御切米弐拾石六人扶持」が末永氏では最大の家であったことがわかります。
まとめ
小早川隆景の下でなんらかの役割を果たしていた末長景直が末永良昧として黒田長政に仕え、その子孫が幕末まで福岡藩士と続いたことを確認してみました。
なお、原史料により「良」「了」「郎」の差異が、掲載資料(翻刻)により「昧」「味」の差異がそれぞれ見られますが、いずれが正かは未確認です。 ここでの本文中では「良昧」で統一することとしました。
注釈
- 「吉川家文書」7月16日 末永良味書状(大日本史料 家わけ文書 吉川家 157)
- 「慶長年中士中寺社知行書附」(福岡地方史談話会『黒田三藩分限帳』、1980年)で「田代半七組 弐百石 新参 末永了味(始刑部景直)」。各種分限帳でその名を確認できますが、先のものが、元の名や新参といった立場も確認できるものとなります。
- 「毛利家文書」1191 慶長2年12月6日 毛利元康宛 井上紹忍春忠外六名連署起請文(『大日本古文書 家わけ 毛利家』)
- 村井良介「芸備国衆家臣団一覧表」(大阪市立大学日本史学会『市大日本史 』2号、1999年)で纏められた一覧中にも末長景直の名前が出る史料は一通も取り上げられていません。
- 包久内蔵助(1) -小早川氏庶流包久氏の戦国時代-にて簡単に触れました。
- 「広島御時代分限帳」(東京大学史料編纂所公開用データベース)
- 「菅家文書」慶長20年5月5日 黒田忠長門番定書写(『福岡県史 近世史料編 福岡藩初期(上)』(以下『県史 上』)358)
- 「菅家文書」(慶長20年)4月25日 黒田長政印判状写(『県史 上』362)
- 「末永家文書(筑女蔵「黒田御用記」末永利左衛門分)」 3月8日 黒田長政黒印状写 (『県史 上』626)
- 「松本家文書」慶長20年7月10日 小河之直切紙(『福岡県史 近世史料編 福岡藩初期(下)』(以下『県史 下』)1094)
- 「三奈木黒田家文書」 8月7日 黒田長政書状写(『県史 下』1279)
- 「豊浦藩旧記 第27冊」小早川隆景公御家中名有侍付立(『下関市史』「資料編1」、1993年)
- 「磯兼氏」(岡部忠夫編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1999年)
- 「毛利家文書」403 毛利元就父子雄高山行向滞留日記(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』)、永禄4年3月26日からの元就、隆元父子の小早川氏訪問の記録。この中で隆景の家臣に末永左近大夫、末永源次郎が、そして元就父子に随伴した家臣に末長源七郎の名が見えます。
- 「黒田家文書」77 「家中間善悪之帳」(『黒田家文書』第二巻)。如水による文書と伝来していたようですが、元和期の家臣の名前が含まれるため長政の時代のものであるという指摘がなされているようです。末永七郎左衛門の記載もこれを裏付けるのではないでしょうか。この他、小早川旧臣の包久藤兵衛も松山偽兵衛と「よく候ハ」とする中に挙げられています。
- 「吉田家文書」元和9年閏8月23日 黒田高政付人数知行取之帳(『県史 下』1395)
- 「吉田家文書」寛永元年7月吉日 馬乗衆知行割帳(『県史 下』1402)
- 「吉田家文書」寛永元年12月20日 代官村付帳(『県史 下』1405)
- 「寛文官録」(『黒田三藩分限帳』)
- 「宝永分限帳」(福岡地方史研究会『福岡藩分限帳集成』、1999年)
- 「享保分限帳」(『福岡藩分限帳集成』)
- 「明治初年分限帳」(『福岡藩分限帳集成』)
たまたま本ブログを拝見しまして驚愕しました。末永了味(刑部景直)の子孫です。幕末から明治を生きた良味景道は、小生の曽祖父にあたります。本当によくお調べになられましたね。当家の家譜を見ていてもよくわからない部分にまで光を当てておられ、本当にびっくりしました。よく、こんなマイナーな一族に着目されたものです。感動いたしました。
by 33代目 (2013-05-29 14:05)
33代目さま
遅くなりましたが、コメントをありがとうございます。
調査の中で、明治の分限帳でも「良昧」を名乗られている方を確認できたことが印象的でしたが、この方が曾祖父に当たられる方にご覧いただくことになるとは……記載した中に、もしお気づきの点などありましたらご指摘ください。
末永氏については「小早川隆景の家臣」という切り口で見た際に、毛利氏以外に仕えた中でその後がはっきりわかるという点で非常に貴重ではないかと思っております。
また、いただいたコメントから(33代というお名前からも)景直公以前の系譜も伝来されているとお見受けいたしました。
本文をご覧頂いてもわかりますとおり、小早川時代の末永氏の系譜について、私自身は把握できないままとなっております。
無躾なお願いではありますが、寄託、寄贈されている史料など、公的に閲覧できるものがございましたらご紹介いただければ幸いです。
by takubo某 (2013-06-13 23:50)
私も黒田藩の末永の子孫です。
祖父から聞いているのは、門を任されていたことと。祖父の父が伊三郎、その父が伊助と、「伊」の字を使っていること。何かつながりがあるのだろうと想像しました。大変、勉強になりました。ありがとうございます。
by 末永子孫 (2016-09-14 14:49)