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たけのこ山を探せ(1) [合戦]

今回は伊予の合戦の記録に現れる「たけのこ山」を取り上げます。 位置的には中世風には府中の南の境目とも言える世田山よりも南、すなわち周布、桑村二郡のどこかであることは確かかと思うのですが、まだ該当する場所を筆者は確認できていません。

たけのこ山

この山について触れている史料は以下の3つです。

一つは紀州藩士となった村上彦右衛門吉清の没後に記録された「村上彦右衛門義清働私共覚候分書付上申事」であり、この中に「竹の子合戦」の文字が見えます[1]。

上記、彦右衛門についての覚書とも関わりが考えられますが、彦右衛門の兄村上通総についての記録で、久留島藩内で成立した「来島通総一代記」[2]にも「竹之子」の地名が現れます。

最後は吉川元長が天正13年の四国攻めの折りに、国元の僧周伯惠雍へと送った書状であり、ここには「竹子山」に陣を敷いたとの記載が出てきます[3]。

以下、まずは「たけのこ山」で何が起こったと伝わるのかをみていきます。

村上彦右衛門の活躍

村上彦右衛門についての覚書では、「竹の子合戦」は敗軍となった来島衆の中でまだ年若い彦右衛門が戦場に踏みとどまり、味方を勝利へ導いたとするもので、以下の通り記されます。

与州とうせん竹の子合戦の時彦右衛門十四歳にて御座候敵は黒川同為加勢石川勢張出申候久留島勢纔にて指むかひ候處に敵待伏候を味方の先手不心得にて被追立総敗軍仕壬生川のかこひまて引取候處に彦右衛門壱人道より少脇に古塚御座候高所へ上りこれにて討死可仕とふみ留下知仕候付味方之内村上三右衛門見付候て引返し一所に居申候敵大勢参り候中より八九人程進出さしむかひ候處に則彦右衛門鑓合申候三右衛門も同前に合せ申候其内に味方の者共引返しつきかかり申故敵敗軍仕候事

ここから得られる重要な情報を抜き出すと下記のようになるでしょうか。

  • 「竹の子」はとうせん(道前)に存在
  • 天正4(1576)年(彦右衛門14歳 → 寛永15(1538)年76歳没)の合戦
  • 来島村上氏(と壬生川氏?)が伊予国人黒川氏と加勢の(新居郡)石川氏と戦う
  • 鷺森城(「壬生川のかこひ」)への退却の過程で発生

肝心な「竹の子」がどこであるかは明示されていませんが、彦右衛門が踏みとどまった「古い塚のある高台」がそれであるのでしょう。 「壬生川のかこひ」は、壬生川氏の本拠、鷺森城であると考えられるため、そこからさらに南に位置する黒川氏の所領に向かうどこか、と言えそうです。

来島通総一代記

これは久留島藩に伝わる文書の一つで、二神長右衛門(之慶)、二神五左衛門(著勝)が記したものとのことです。 長右衛門は玖珠森入部直後の家老の一人ですので[4]、天正年間の合戦とすれば、やはり早くともその数十年後にまとめられたものでしょうか。 以下、この記録に現れる天正年間の府中、道前地域に関する来島村上氏の動向を要約しますが、この部分については他には殆ど知られないものとも言えます。

  • 天正3年、道前いと口で重見勢と戦う
  • 天正8年、桑村郡竹之子でしけみと合戦
  • 天正10年、重見の執事、めみた助之進が重見から来島へ離反
    • 八町の土居城を重見、河野父子(霜台、通宣)に水攻めされるが後詰めして撃破

この記録では天正年間に度々重見氏と戦ったと伝わっている点が特徴的で、その重見氏の勢力も府中から道前に広がっていると認識されていることになります。 これは黒川氏などの存在が記録から抜け落ちていると考えられますが、あるいは天正年間まで府中近隣に重見氏が広く力をもった可能性も否定はできません。

記録に残る3回の合戦は「道前いと口」「桑村郡竹之子」「八町」で行われたとします。 このうち、「八町」は伊予府中(越智郡)内にあり、こちらについては後程とりあげます。 残る一つの「いと口」についてはこちらも場所が不明です。

この中では天正8(1580)年の合戦が桑村郡「竹之子」でのものと記されています。 村上彦右衛門の記録とは4年の開きがあり、その相手も異なりますが、来島村上氏が依然として毛利、河野方にあったこの時期に道前地域で合戦があったとの共通認識を持っていたことは確かなようです。

毛利軍の侵攻

最後の史料は天正13年の羽柴秀吉の四国攻めへ動員された毛利軍の動向と関わります。 事態の発生当時に書かれたものであり、3つの史料の中では最も信頼性も高いものと言えそうです。

伊予へと渡海した毛利軍の主目標は、新居郡において長宗我部元親に与同していた金子元宅らを攻略することにありました。 そのため、小早川隆景、吉川元長らが率いる大軍が上陸します。

この状況下で吉川元長が下記のような内容の書状を周伯惠雍へと送っています。 そこでは吉川軍が上陸後最初に陣を敷いた場所を「竹子」と記しています。

(前略)去五日□□津着岸候而、則隆景令対談、竹子と申所迄而山陣、又中陣仕、十四日高尾城并丸山一ツニ取巻候處(以下略)

吉川軍は7月5日に伊予へ上陸、小早川隆景との協議の上、まずは「竹子と申所」へ陣を敷いています。 この史料からは、当時の越智郡については毛利軍への敵対勢力との認識はなくその動向を問題視していなかったと考えられるのではないでしょうか。 竹子への布陣の意味は、かつての竹之子を舞台とした合戦を考えれば、来島村上氏がそうであったように毛利軍は黒川氏ら周布、桑村二郡の国人勢力の動向を警戒していたということであると考えられます。

八町での戦い

竹の子山を検討する前に「来島通総一代記」にも現れる「八町」を考察してみます。 「八町」は伊予国越智郡に位置し、伊予国府の有力候補地のひとつでもあります。

戦国期には享禄3(1530)年に河野氏を離反した重見通種を村上通康が攻めた際に、八町で通康が重見勢を打ち破ったとする記事が『河野家譜』予陽本、築山本いずれにも見えます。 ただし、享禄3年には通康は未だ12歳に過ぎず、合戦の当事者とは考え難く、しかも、当事者足り得る通康の父については、そもそもその正体が不明であるという不思議な状況です。

「来島通総一代記」では八町を舞台とした天正10(1582)年の合戦として、重見氏を目見田氏が離反したことを契機と掲げます。 この時の構図は、村上通総・目見田氏に対峙するのが河野霜台(通直)、通宣父子・重見氏というものでしょうか。 目見田氏自体は河野氏の奉行人として府中との関わりが知られ、一次資料ではありませんが『河野分限録』等でも正岡、得居、中川など府中と縁の深い諸氏の配下に名前が確認できます[5]。

現実には、天正10年という年は、既に河野父子は没後であり、一方で村上通総が織田方へ走った年でもあります。 そして、来島村上氏離反後の来島村上氏への攻撃に際して、当時の当主河野(牛福)通直が府中へ進出することが計画されています[6]。

通直は実際に出陣し、八町へと陣を敷いたようで[7]、八町が府中の要地として意味があったのも事実でしょう。 水攻め云々はともかく、村上通総の離反以前、府中地域は来島村上氏の勢力が主導していたと考えられ、河野通直が毛利氏の支援を受け、来島城以外についてもその拠点を攻略したことは当然考えられます。 ただし、この調整に乃美宗勝、村上武満が当たっていること自体が来島村上氏抜きでの河野氏の府中への影響力の限界と見ることができるのかもしれません。

以下、「たけのこ山」に話を戻しての展開は続編にて。

注釈

  1. 『南紀徳川史』 巻之四十六 名臣傳第七 村上義清(『南紀徳川史』第5巻)
  2. 『旧記集』「来島通総一代記」(『玖珠郡史談』26号 福川一徳、甲斐素純「久留島家文書(7)」、1991年)
  3. 「吉川文書別集」76 (天正13年)7月27日 周伯惠雍宛 吉川元長書状
  4. 福川一徳「伊予二神氏と二神文書」(『四国中世史研究』6号、2001年)
  5. 『河野分限録』(伊予史談会編『予章記・水里玄義』、1982年)
  6. 「乃美文書」133 乃美宗勝・武満覚(『新熊本市史』史料編 第2巻 古代・中世 、1993年)。「道後に於ける御相談の辻」として始まり、「府中表、通直御出張の事、平遠(平岡遠江守通倚)黒河(黒川)馳走の事」と記されます。この他の項目には「矢野」(河野通直正室、吉見正頼娘)あるいは「村河」(来島家臣村上吉継)などの名前も見えます。
  7. 「萩藩閥閲録 粟屋縫殿」(天正11年)7月18日 毛利輝元書状(『愛媛県史 史料編 原始・中世』2401)。「道後河野殿、至八町被陣取之由」とあります。県史の比定は天正11年ですが、実際には天正10年のものでしょうか。

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