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もうひとつの「河野家譜」 [史料紹介]

『河野家譜』と言えば、『予陽本』[1]と『築山本』[2]が著名ですが、これらの刊本を探している際に刊行されているもう一つの『河野家譜』に遭遇しました。 この『河野家譜』について、内容的にはほとんど伊予の戦国史とは関連が薄いこともあってか、これまであまり伊予関係の論考上でも取り上げられることがなかったようですので、ここで簡単に紹介してみます。

概略

この『河野家譜』[3]ですが、大聖寺藩に仕えた儒者河野春察(通英)の家系が伝えたものです(以下本項では『家譜』)。 簡単に言えば林羅山の高弟、河野春察の父祖を河野氏に求めており、庶流の通生の家系が伊予から中国に渡り、毛利氏に仕えた後に江戸に出たとするものです。

室町期の有力な河野氏庶流として知られる通生、勝生、明生、通吉の名前が歴代として現れますが、その活動地域を周防や安芸に求めていることや年代の不整合など気になる点も存在します。 その背景には春察が仕えた太田資宗との関わりが大きく影響しているのではないかと推測出来そうです。

資宗は徳川家光から『寛永諸家系図伝』の編纂を命じられており、その作業に資宗に仕えていた春察も加わっていたようです。 また、資宗の娘として稲葉正吉(稲葉正成子)室、一柳末礼室がいたとのことですので、春察が仕えた資宗は数少ない越智姓を名乗る大名家と縁戚関係にあったことになります。 春察がこの時期に数種の河野系図を目にしたことは間違いないのではないかと思われます。

林氏と河野氏

以下、この家譜がどのような歴史を描いているのか、独自の系譜を伝える部分の概要をみていきます。

通生

通直の子で林九郎、兵部少輔、河野を改め林と称する。 永享10(1438)年に生まれ、外祖父林壱岐守高生の養子となり林を名乗るも、父の親愛により家譜證文を授けられる。 応仁元年から文明5年まで洛中で活動し、文明13(1481)年7月3日没、44歳、法名は道林長松院。

この家譜では河野本家からの別れを通直(教通のことと思われます)の子とする通生においていますが、通説に従えば通生は教通の弟としてその守護権力を支えた人物として知られます。 また細川氏との抗争においても高名が伝わりますが、そのような事績はこの『家譜』では触れられていません。

通勝

通生の子で林三郎、兵部少輔、壱岐守、初め勝生。 寛正6(1465)年正月朔日生まれ、明応2(1493)年に弾正少弼通直との間に故あって周防に出奔。 永正4(1507)年8月山口で没、43歳。

その妹に三浦越前守室となった女性がいたとしていますが、この三浦氏は大内氏配下の周防三浦氏を指しているものでしょうか。

明応年間であれば河野氏の当主は教通のはずで、仮に生まれていたとしても幼年で家督継承前の弾正少弼通直が現れるのは不自然です。 周防に逃れたとする以降については、享禄3(1530)年に弾正少弼通直に反逆し周防へと逃れた重見通種の所伝を想起させます。 弾正少弼通直の名前がここに現れる背景はまさにここにあるのでしょう。

周防~毛利氏家臣として

以降、中国地方での活動を伝えます。

通明

通勝の子で初め明生。九郎、民部大輔、壱岐守。 文亀2(1502)年に山口生まれ、大内義隆に属し、防州若山城に在城。 天文21(1553)年、毛利元就に属し、厳島合戦の後は11日に山口へと進軍し大内義長の兵と戦い討死。 享年54歳、法名道傳。

ここにも重見通種の所伝と重なる部分が見えています。 若山城は陶晴賢の居城であり、通種についても若山城滞在が伝わります。 その通明が唐突に毛利氏へと属しているのは、主殺しとして忌避される晴賢に従っていたと書くことを躊躇した為ではないでしょうか。 弘治元年の山口侵攻も事実に反しますが、通明の死に場所を求めての辻褄合わせにも見えてきます。

通家

通明の弟で林次郎左衛門尉、落髪して意竹と号す。 永正5(1508)年山口生まれ、天文16年の遣明船に乗り義隆没後は和泉堺に。 天正19(1591)年7月没、享年84歳。

優れた学者として描かれ通家の役回りは河野(林)氏が代々学問に優れた家系であると示すことにあるようです。

通吉

通明の子で九郎、民部大輔、壱岐守、落髪して良庵と号する。 初名は忠一。 天文22(1554)年正月3日、防州若山で生まれるが3歳のときに父が戦死。 元亀元(1570)年、小早川隆景に三千貫で招かれ、慶長2(1597)年6月12日の隆景逝去後、落髪して民間に落ち、寛永12(1635)年2月17日没、83歳。

神童であったとの話が紹介され、小早川氏の家臣となりますが、具体的な事績は出てきません。

就通

通吉の子で林清兵衛、豊後、初め通定、妻は河野伊賀守元次女。 天正7(1579)年正月27日長州志多麻呂城で生まれ、毛利輝元、秀就に仕える。 秀就に偏諱を受け名を改めるが、正保3年病となり萩から関東に、落髪し意休と号し、万治2年7月7日没、81歳、照光院殿月峰浄心居士。

具体的な毛利氏との関係が見え、河野伊賀守も毛利家中に実際に存在しています。 また、於鶴という娘が内藤次右衛門尉の妻で、内藤茂右衛門(寛永12年長州萩で生まれる)、内藤弁の助(寛永19年生まれ)、娘(正保3年生まれ)らの母であるとしています。 この内藤氏については萩藩が遺した『譜録』から該当者を確認できる可能性はありそうです。

就通になると実在感が出てきます。 生地は長門内藤氏に関連のある信田丸城のことでしょうか。

通英

就通の子で通忠、犬千代の弟。 小字自然、喜平次、益庵と名乗り、林を改め河野と称する。 母は河野伊賀守元次女。 慶長17(1612)年10月26日、長州阿武郡萩で生まれ、寛永3年父に従い上洛。 寛永8年、江戸で落髪し益庵と号し、その後春察と号する。 寛永10年に太田備中守資宗に仕え、万治2年の資宗没後は加賀大聖寺藩の松平(前田)飛騨守利明に300石で招かれ、延宝3年4月8日没、享年64歳。

この人物こそ『寛永譜』編纂にも関わった林春察となります。 提示される挿話は春察が優れた人物であることを示すものとなっています。 春察の実在は当然ながら疑いも少なく、その父就通の所伝が確かなものとなっているのもうなづけます。

大聖寺藩へ

先に述べたとおり春察の太田資宗、前田利明と仕えた経歴からも一定の評価を得た儒者であったことは確かでしょう。 河野氏は大聖寺藩士として続いたようですが、他に伊予を本国とする出淵氏の存在が確認できます[4]。

出渕氏は寛文3年に酒井雅楽頭の伝手で初代十郎右衛門を前田利明が召し抱えたとしています[5]。 元禄4(1691)年に72歳でなくなっていますので、元和6年の生まれとなります。 幕末まで代々江戸在府の家系であったようです。

春察系である河野喜平次の記事[6]では、牢人の後、寛文4年に利明に召し抱えられたとありますので、出渕氏に1年遅れてのこととなります。 家譜では春察は万治2年に太田家を去り、利明に召し抱えられたとありますが、その時期は示されていません。 延宝3年に63歳でなくなったとあり、こちらも家譜とは1年のずれがあります。

また、家譜では就通の子、すなわち春察の弟である通貞は寛永5年に長州萩で生まれ、明暦2年、本多能登守忠義から200石で召し抱えられ、能登守娘の嫁入り時に松平飛騨守利明の家臣となったとしています。 大聖寺藩の記録では初代玄東という医師として記されており[7]、家譜にあるとおり、本多氏の元からの婚姻の際に前田氏に召し抱えられとしており、その時期を寛文11年と記しています。

以下に河野通久以降の関係略系図を示します。

  (教通)
通久―通直―通宣
     ―通生
      :
  林高生=通生―勝生―明生―通吉―就通
                 ―通知
                 ―通仲
就通―通忠
  ―女子 木村総兵衛妻
  ―犬千代 早世
  ―通英――通門
  (春察)―通智―通成―親辨―親賢
            ―親由
            ─公裕
  ―――――――――於鶴
  ―通周―女子   |―内藤茂右衛門
      |    |―内藤弁之助
     =貞通   |―女子
  ―通貞―通春 内藤次右衛門尉
     ―女子
     ―女子

系譜上の注目点

今回は取り上げていませんが、逆に他の家譜類と大きく外れることがないであろう、通生以前の部分については他の『河野家譜』『予章記』『水里玄義』といった諸本の成立との関係を見る必要がありそうです。 この河野家譜を刊行している『未刊軍記物語資料集』には同じく大聖寺藩に伝来する『予章記』についても掲載されており、解説部分で臼杵藩稲葉家伝来本等との関係についても触れられています[8]。

春察に繋がる中世末期以降の系譜以外で一点だけここで取り上げるのは稲葉氏についての部分です。 河野通治の子、通朝弟である壱岐守通遠から続くとしている点は注目できます。 現状、美濃の河野一族の出自は謎と言えるようですが、世代感から言っても教通以降の出自に通高を置く系譜よりは現実感があると言えるのではないでしょうか。 なお『寛永譜』では稲葉氏は塩塵から始まる系図を提出しており、『寛政譜』では塩塵を刑部大輔通直の子としています。

河野通治―通貞
    ―通朝               (塩塵)
    ―通遠―通高―通行―通昌―通勝―通成―通高―右京進
    ―通時   ―通正            ―備中守 
                         ―通武(一鉄)―貞通―典通―一通―信通―景通
                                ―重通―道通―紀通
                         ―女子(道三室)

この『家譜』の内容自体は既存の河野家の事績と伝わるものに、林家の系譜を繋げ、その過程で河野氏庶流通生流の系譜を活用したものと言えそうです。 少なくともその事績の内、通生、勝生、明生の3代については明確に伊予での活動が確認できる人々の存在を利用しています。

付言するならばこの、宗家(対州家)、予州家に次ぐ兵部家とでも呼ばれるべき通生に始まる存在についてはこれもまた謎が大きいままとなっています。 その実在が確認できる最後、明生については道前、府中での活動が確認できますが、以後その存在は消えます。 その後、唐突にその後裔は野間郡高仙山城主池原氏として、あるいは村上通康の家老原興生として語られますが、どのような形で来島村上氏傘下に入ってしまうのかそれを裏付けるものもありません。 かつて、牛福通直の実父とされた池原(河野)通吉については、個人的には実在すら疑念を持っている状態ですが、その名前をどのような経緯で河野春察が河野明生に繋げたのかは非常に興味深いところです。

注釈

  1. 景浦勉編『予陽河野家譜』(伊予史料集成刊行会、1975年)
  2. 景浦勉編『河野家譜 築山本』(伊予史料集成刊行会、1984年)
  3. 『河野家譜』(『未刊軍記物語資料集』第8巻(聖藩文庫本軍記物語集 4)、クレス出版、2005年)
  4. 『大聖寺藩士由緒帳』出渕 束(『加賀市史料』第2巻、1981年)
  5. 出渕重雄『出渕家の系譜』(1981年)によれば、出渕氏には平岡氏らと共に結城秀康に仕えた者もいたようです。
  6. 『大聖寺藩士由緒帳』河野喜平次(『加賀市史料』第3巻、1983年)
  7. 『大聖寺藩士由緒帳』 河野範((6)に同じ)
  8. 『河野家譜』解題((3)に同じ)

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