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たけのこ山を探せ(2) [合戦]

引き続き、道前平野近隣のどこかに存在するはずの「たけのこ山」について考えてみます。

道前を巡る争い

そもそも伊予の「道前」とは「道後」と対をなす言葉であり、当初は伊予14郡のうち、下7郡が道前、上7郡が道後であったようです[1]。 その後、道後が道後平野、さらに狭義には河野氏の本拠湯築城、道後温泉周辺などを指すようにその範囲を狭め、道前もまた道前平野を指すようにその範囲を狭めていきます。

道前平野は室町期には河野氏の勢力圏にありながらも、隣接する新居郡の分郡守護権を細川氏に奪われたことにより、境目地域のひとつとなっていました。

黒川氏の存在と騒乱

戦国末期、周布郡の有力国人黒川氏は河野氏との縁戚関係を結んだり、越智一族でやはり河野氏との縁戚関係にある正岡氏から養子が入るなど、河野氏との深い関係が見られます。 一方では、長宗我部氏に従属した新居郡の金子元宅とも交渉をもっていたようです[2]。

道前地域での騒乱に目を向けると村上彦右衛門の覚書では新居郡の石川氏と結んで来島村上氏と争っている存在でした。 この他にも壬生川氏との争いが伝わり、壬生川摂津守通国の猿楽に招かれた黒川通長が通国を殺害し、逆に壬生川氏から反撃を受けて通長も死ぬと言った伝承も残ります[3]。

これらの記録、伝承に対して、実際に年不明の黒川通博書状[4]には

去年者就私領得居
及違乱総劇候処。湯
月以下知即令和平候、

との記述があり、当時黒川氏と得居氏(当主は彦右衛門実兄の通幸)に争いがあり、湯月(河野氏)により黒川氏側の主張を認める裁定がなされたようです。 これが具体的にどのような争いであるかは不明ですが、黒川氏が他地域へと進出した様子はありませんので、道前地域での争いについてのものである可能性が高いのではないでしょうか。

一方、壬生川氏についても、行元の出奔という事態が知られており[5]、その本拠地北条はかつては細川氏の被官多賀谷氏のものであったためか、金子氏がその領有を長宗我部元親に対しても強く主張していたようです[6]。

地名にみる竹子山

肝心な「たけのこ山」ですがここまでの史料からは、どこに位置するのか、はっきりしませんが、その場所について検討を行ってみます。

推定において参考となる情報は以下のものでしょうか。

  • 壬生川(鷺森城)から周布郡へ進出する途上
  • 街道筋近くの高所で古塚(墳)がある場所
  • 毛利軍の本陣を置くことが可能であった

これらの条件を考慮しつつ、たけのこ山を探してみます。 「東予市誌」には旧桑村郡内の地名が掲載されてはいますが、竹子山そのものはみつかりません[7]。 ただし、いくつか竹の字を用いた地名がありますのでこれを確認してみます。 この竹の字が現れるホノギは下記のように吉岡地区に目立ちます。

  • 広岡 竹屋敷、竹谷、竹山
  • 石延 竹之下、竹元、塚原
  • 安用 北竹ノ下、南竹ノ下、佐々久
  • 新町 寛永18年に松山藩により作られた商業町で竹の町と呼ばれる

「竹の町」新町は松山藩により興された3つの町にそれぞれ松竹梅を割り当てたものひとつのようで[8]、それ以前の地勢との関係は不明です。 このため、これらの周辺の竹の字を用いたホノギも同様に中世のより続いたものか、近世以降のものであるかどうかは確認できません。

佐志久原へ

地図上でこの吉岡地区を見て行くと、ひとつの独立丘陵の存在が目に止まります。 これは現在、佐々久神社が立地する、およそ標高60mの独立丘陵佐々久山で、他の条件からもここが「たけのこ山」である、と言えるでしょう。

上記の地図で中央の緑が残る箇所がその佐々久山です。 「たけのこ山」たる条件を以下に見ていきます。

まず、この地は佐志久原ともいい、室町時代の伊予守護職河野通堯が康暦元(1379)年に細川頼之に敗死した場所でもあります[9]。 細川軍を迎えるにあたって、本陣を置いた場所であり、やはり軍事的な要衝であると言えるでしょう。

また、程近い円海寺地区[10]には鷺森城主壬生川摂津守通国の墓と言われるものが残ります。 先程、通国が黒川通長に殺されたとする伝承を紹介しましたが、一方では黒川通博との戦いで鷺森へと退却する際に通国がここで落馬し討ち取られたとも言われます[11]。

そして、ここから南へ進んだ周布郡願連寺から円海寺、壬生川と通っていた通路が、近世に入り、新たな往還により廃れるとありますので[12]、裏を返せばこの地が中世には桑村郡と周布郡の間の主要な道路のひとつであったと言えます。これは来島村上氏が黒川氏と戦うとすれば、その際に利用する通り道としての条件を満たしています。

最後に、この佐々久山からは古代の墳墓が発見されており[13]、中世にも「古塚」と認識されていた可能性は高いものと思われます。

このように佐々久山、あるいは佐志久原は歴史的にも地理的にも「たけのこ山」の立地条件を満たしていると言えるのではないでしょうか。 佐々久神社が江戸中期に復興したとのことであり[14]、それ以降「佐々久山」が定着するも、それ以前には竹子山とも呼ばれていたのではないか、とここでは考えてみたいと思います。

まとめ

戦国伊予の合戦に度々現れる「たけのこ山」を探求してみました。 結果、その場所はかつて河野通尭が討ち死にした佐志久原と同じ場所を指すのではないかと推定しました。

戦国期においては主に黒川氏との対陣を想定しうる立地とは言えますが、この時期の関連諸氏の状況がはっきりしている訳ではありません。 現状では以下に、関連する注目すべき事項をあげて置く事に止めます。

  • 吉岡の地にある得能保が河野氏庶流得能氏の本貫地であり、その支流重見氏とも関わりのある地です。
  • 同じくこの地に河野教通の弟通生以下、勝生、明生と続いた河野氏有力庶流の関わりが知られます。明生による府中地域への安堵状発給なども確認できますが、以後その系譜は姿を消しています。
  • 来島村上氏の菩提寺大通寺、安楽寺の住職、永廓和尚は道前の宇野氏の出自でその母を河野明生の娘と伝えますが、一方で、この女性は村上通康の妹とも伝わります。

注釈

  1. 川岡勉『中世の地域権力と西国社会』「第4章 中世の道前・道後と地域支配」(清文堂出版、2006年)では道前、道後の区分について論じた上で、元は伊予14郡のうち東部7郡が道前と称されと考察されています。その中では中世、野間郡でも道前と呼ばれた事例が紹介されるとともに、時代と共にその対象範囲が変化したことが紹介されています。
  2. 桑名洋一「天正期伊予における「境目」領主についての一考察―新居郡国人領主金子氏の動態について―」
  3. 景浦勉編『予陽河野家譜』巻之五(伊予史料集成刊行会、1975年)
  4. 「上蔵院文書」2月27日 黒川通博書状(『愛媛県史 資料編 古代・中世』2163)
  5. 川岡勉『中世の地域権力と西国社会』「第10章 戦国・織豊期の東伊予と河野氏権力」((1)に同じ)では黒川氏と壬生川氏、黒川氏と得居氏の争いが見られることを指摘され、壬生川行元の出奔は天正10年に村上通総と行動をともにしたためではないか、とあります。
  6. 「金子文書」5月18日 長宗我部元親宛金子元宅書状(『愛媛県史 資料編 古代・中世』2460)
  7. 『東予市誌』「民俗編 第6章 地名と方言」
  8. 『東予市誌』「歴史編 近世」
  9. 河野通堯は父、通朝が細川氏に攻められて討死したため九州に逃れ南朝に帰順します。その後、伊予を奪回し、細川氏が将軍義満と関係悪化した際に北朝へと帰順、伊予守護職を安堵されますが、細川頼之の攻撃により、手薄になった本陣佐志久原を攻撃され討死するという波乱の生涯を送ります。その死後に新居、宇摩2郡の分郡守護権を細川氏に渡すことで和睦が成立します。
  10. 『東予市誌』「宗教編 第3章」「円海庵」境内入り口に「竹林山円海律寺」の石が残るとのことで字として残る円海寺の山号にも「竹」の存在を見て取れます。
  11. 『東予市誌』「民俗編 第4章 民話と伝説」「大曲りの首なし」
  12. (8)に同じ
  13. 『東予市誌』「歴史編 原始・古代」で確認すると壬生川周辺の古墳としては北川の北岸、世田山の麓近くにいくつかの古墳群が広がる他、甲賀原、佐々久山といった独立丘陵に近いものも存在するようです。
  14. 『東予市誌』「宗教編 第2章 神社」では佐々久神社は享保12(1727)年奉遷とのことです。

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