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小早川隆景家臣の諸大夫についての補足(1) [史料紹介]

小早川隆景家臣の諸大夫成についてはいくつか取り上げてきましたが、その後、包久氏と裳懸氏に関するいくつかの史料の見落としを確認できたので、今回はこれらを紹介します。

包久氏に関するもの

まずは、直接包久内蔵丞に関するものではありませんが、包久景勝、包久因幡守について補足してみます。

豊前蓑島合戦

永禄4年、北九州の支配を巡って対立関係にあった毛利、大友両氏は門司城の争奪戦を行うこととなり、この際に海戦も発生しています。 以下、山内譲氏の著作で紹介されているその合戦について取り上げてみます[1]。

北九州を巡って両氏が争ったこの時期にいくつかの戦いはあったものと思われますが、その中でも門司城を巡る戦いで勝利した毛利軍が撤退する大友勢を追撃して戦果を上げたものが11月2日の豊前簔島合戦です。

大友勢の撤退を支援するための水軍勢力を毛利側が撃破したものですが、この合戦を記録した屏風絵「豊前今井元長船戦図」[2]が作成されています。 山内氏によれば作成年代は江戸時代と考えられるものの、そこに記載されている名が「武慶」ではなく「武吉」と正しく標記がなされていることや、その他の人名についての官途や仮名の正確性から何らかの史料を元に描かれたものではないかとのことです。

以下にこの屏風絵に記されている諸氏の人名を示します。

  • 村上掃部頭武吉
  • 村上新蔵人吉充
  • 村上源三郎武満
  • 村上越後守吉郷
  • 村上河内守吉継
  • 乃美兵部丞宗勝
  • 末永常陸介景盛
  • 木谷孫四郎景忠
  • 包久五郎景勝
  • 生口孫三郎景守
  • 財満新右衛門尉就久

能島、来島、因島の村上三氏と小早川系の水上勢力の連合の様相を呈していますが、上記のとおり包久五郎景勝の名も見られるようです。 この人物は後に木津川口の戦いにも参戦している包久少輔五郎景勝とも同一人物であると思われます。 毛利氏にとって意義の大きいこれら2つの海戦にその名前が見えることから、包久氏を代表して軍事行動を行っているのは以後天正年間まで包久景勝であると考えられそうです。

ただ、この時期の包久氏としては「座配書立」に現れる包久左馬がおり、また、蓑島合戦と同じ永禄4年に元就、隆元父子が沼田を訪れた際の記録にもやはり包久左馬助の存在のみが確認できます[3]。 その名乗りから左馬助と五郎景勝が別人であることは明白ですが、このことはどのように見るべきでしょうか。

瀬戸因幡守

もう一つ、軍記物の記載ではありますが『陰徳太平記』では隆景死の前後の様子として迫門(せと)因幡守が上洛のため三原で隆景に謁した直後に急死したとする描写がなされています[4]。 迫門因幡守は音戸瀬戸の領主と説明されていることからも、迫門=瀬戸であることは明らかで、また、包久因幡守の名前は瀬戸島にあった城の城主として名が伝わっているものでもあり[5]、これらにより瀬戸因幡守は包久因幡守を指しているものと思われます。

ただし、包久氏が瀬戸を称した様子は他の史料からは伺えません。 元来、瀬戸と呼ばれたのは包久氏ではなく、音戸の瀬戸に築かれた瀬戸城に入った乃美氏であったようです。 これについては『音戸町誌』[6]にその経緯が示されています。

それによれば沼田小早川氏を離れ竹原小早川氏についた乃美員平が瀬戸城に入り、瀬戸を称したようです。 これについては小早川弘景の置文[7]にも弘景の後継者弘平にとっては「瀬戸」が従兄弟にあたるとあることから、竹原小早川氏の女性が乃美氏に嫁いでいたものでしょうか。 また置文には「瀬戸」について「草井・包久・小梨子が上をば得仕候はず候」とあることから、ここでは草井氏、包久氏、小梨子氏等と対比されていることからも包久氏とは別個の存在であることもはっきりします。

その後、乃美氏の本貫地乃美郷に入った小早川是景の系統が別途乃美氏を名乗っており、乃美宗勝や毛利元就の側室乃美大方も系譜としてはこちらの出身にあたります。 「乃美文書」に伝わる文書には瀬戸新四郎あるいは瀬戸兵部少輔に宛てたものが存在しますが[8]、双方の乃美氏は統一され乃美宗勝の時代にも瀬戸に在城していたことの証左でもありましょう。

包久氏と「瀬戸」の関わりとしては天正年間、来島城攻撃の報告を受けた小早川隆景からのさらなる軍事行動についての書状[9]の中に「瀬戸四人之者共、包宮へ弥談合事」という表現が見えます。 「瀬戸」と称される4人との連携について包宮(包久宮内少輔景勝か)との相談を指示しているようです。 この書状の宛先は白縫殿(白井縫殿助)、内 伊(内海?伊賀守)、南四兵(南四郎兵衛?)となっていますがこの書状にある瀬戸は誰を指すものでしょうか。 乃美宗勝は瀬戸から忠海に根拠地を移していますので、この後に「瀬戸」の地に包久氏を含む他氏が入ったことは考えられそうです。

村上喜兵衛元吉と包久因幡守

また、包久因幡守の名前は別のところでも確認できます。

村上喜兵衛元吉は戦国時代の因島村上氏の当主吉充の弟、隆吉の子であり、その子孫は萩藩舟手組として続いています。 より一般には「武家万代記」の作者として著名でもあります。 この子孫が残した記録「譜録」村上喜兵衛勝之[10]では、この初代元吉の妻について包久因幡女と伝えています。

寛永19(1642)年に77歳で亡くなったと伝わる村上元吉の生まれは永禄9(1566)年となります。 包久因幡守を「藩中略譜」[11]において長府藩包久氏が伝えるように宮内少輔景勝と同一人物であるとすれば、その活躍時期は永禄初期の簔島合戦、天正期の木津川口の戦いや鹿島城を巡る戦いなどであり、元吉が景勝の娘を妻とすることは年代的には整合性があると言えそうです。 同じく元吉系の系譜では元吉の母は乃美賢勝の娘、またその子元包の妻は磯兼景綱娘とされていることから小早川氏庶流の各氏との深い関係が伺えます。

  包久因幡ー―女子
   (景勝?)|
村上尚吉―吉充 |―――――元包
    ―隆吉 |     |
     |――元吉    |
乃美賢勝―女子       |
    ―宗勝―景継―元種 |
       ―景嘉 :  |
       ―景綱―元種 |
       (磯兼)―――女子

裳懸氏について

裳懸氏についても弥左衛門盛聡、後の高山主水を宛所の一人とする文書が残存していたことを見落としていたようです。

神原文庫 毛利氏関係文書

香川大学が所蔵する神原文庫に毛利氏関係文書として収録されているもののうち12月16日付の小早川隆景書状[12]が裳懸弥左衛門に関するものとなっています。 その画像と翻刻内容はウェブ上で 神原文庫 毛利氏関係文書 として公開されています。

竹釘之事、成龍寺

高遍寺を初として大小ニ

よらす、諸寺家へ相配可

調事ニ候、恐々謹言

           (小早川)
   十二月十六日    隆景(花押)

    「井五兵

     国春左      隆景

     常弥左        」

香川大学が公開している翻刻では書状の宛先が「井五兵、国春左、常弥左」の3名とされていますが、これは正しくは井五兵(井上五郎兵衛景貞)、国甚左(国貞甚左衛門景氏)、裳弥左(裳懸弥左衛門盛聡)の3名であると思われます。

この書状はその内容が竹釘を諸寺に配ることを命じたものであるため、三原城の建設に伴い、その城下への寺社の移転が行われた時期のものと考えられるのではないでしょうか。 文中にある「成龍寺」「高遍寺」のうち、「成龍寺」については正しくは三原に現存する成就寺のことと思われます。 この寺は隆景の妻(問田大方)の父であり、沼田小早川家当主であった正平の菩提寺で、天正19(1591)年に三原城下へ移転していることが棟札から確認できるようです[13]。

成就寺の移転時期からこの書状が天正18、あるいは19年のものである可能性が高いとは思われますが、「高遍寺」が指す寺院については今のところ確認できず[14]、隆景の指示の下による城下整備はその後も続いたであろうことから断定はできないようには思われます。

この時期の文書としては国貞氏が伝えた文書が『閥閲録 遺漏』[15]に多く収録されており、隆景晩年の三原付近での普請役などに関するものが多く見られます。 この神原文庫に伝わる文書は『閥閲録 遺漏』には見られないものであることから国貞氏が伝えた文書の一部が早くに流出していたのか、井上、裳懸両氏の受け取ったもののどちらかがなんらかの事情で残ったものではないでしょうか。

注釈

  1. 山内譲『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』(講談社、2005年)
  2. 大分市歴史資料館所蔵((1)の記述による)
  3. 「毛利家文書」403 毛利元就父子雄高山行向滞留日記(『大日本古文書 家わけ 毛利家文書』)、永禄4年3月26日からの元就、隆元父子の小早川氏訪問の記録。
  4. 『陰徳太平記』「巻79 太閤秀吉公御遊楽付黄門隆景卿逝去之事」(米原正義校注『陰徳太平記』正徳2年板本 第6巻、東洋書院、1984年)
  5. 『日本歴史地名大系 広島県の地名』「安芸郡瀬戸島村」(平凡社、1982年)の項によれば音戸大橋の西側橋脚付近の城山に兼久因幡守の居城があったことが『芸藩通史』に記されていることが紹介されています。
  6. 『音戸町誌』第3章 中世の音戸 (2005年)。また、同書を含む各資料からまとめられている以下のサイトも参考にさせていただいています。(戦国日本の津々浦々 瀬戸(隠渡)戦国日本の津々浦々 地方水軍呉衆の興亡 第3回 波多見島紛争史
  7. 「小早川家證文」401 10月2日 小早川弘景置文案(『大日本古文書 家わけ 小早川家』)
  8. 「乃美文書」24 12月19日 瀬戸兵部少輔宛 杉持長・陶隆重連署書状、36 卯月27日 瀬戸新四郎宛 岡就吉書状、72 8月3日 瀬戸少輔四郎宛 小早川弘平書状(いずれも『新熊本市史』史料編 第2巻 古代・中世 、1993年)
  9. 「萩藩譜録白井友之進」天正11年5月10日 白縫殿、内伊、南四兵宛 小早川隆景書状(『愛媛県史 資料編古代・中世』2382、1983年)
  10. 「譜録」村上喜兵衛勝之(山口県文書館所蔵)
  11. 「藩中略譜」包久氏(山口県文書館所蔵)
  12. 「神原文庫」12月16日 小早川隆景書状(香川大学神原文庫
  13. 三原市指定文化財 紙本著色小早川正平像 附 参考資料 天正十九年成就寺棟札
  14. 『三原志稿』(『三原市史 4』、1970年)は江戸時代の地誌ですが三原の寺院に該当すると思われるものは確認できません。
  15. 「閥閲録遺漏」巻2ノ2 国貞平左衛門(マツノ書店『閥閲録遺漏』、1995年)

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