SSブログ

刈屋口の戦い-毛利氏の記録に見る(2)- [合戦]

前回に引き続き『毛利三代実録』(以下『実録』)、『毛利三代実録考証』(以下『考証』)[1]、『関原陣輯録』[2]に取り上げられている内容を見ていきます。 また、同様に「村上小四郎蔵文書」[3]の内容も参照していきます。

伊予侵攻

実際の伊予侵攻の段階になると、『実録』では能島村上氏、曽根氏以外についての渡海については明言されていません[4]。 『考証』ではその理由として『萩藩譜録(村上図書)』あるいは「一斎留書」では宍戸景好、桂三郎兵衛もしくは善左衛門元将、木梨清右衛門景吉など挙げられている人名はあるものの、それぞれ各家の譜録などでは渡海をしたかどうかについて明確に示されていないため、「浦備前覚書」によって村上元吉、曽根景房の名前のみを挙げるとしています[5]。

夜襲に先立って加藤氏の留守居に対してなされた交渉については『萩藩譜録(村上図書)』では元景(景好の誤りでしょうか?)家来竹本七右衛門、元吉家来友田治兵衛直政(前 大野兵庫)を差し添え、曽根景房が秀頼御朱印に基づいて城を明け渡すよう伝えたとします[6]。

『考証』ではそれぞれの家の記録で元吉の死が16日、景房が17日とされることについても言及し、夜襲により戦闘が日を跨いだためではないかとも推測しています。 9月18日には広島にいた佐世元嘉から景房の子曽根四郎兵衛宛に父の活躍を賞して、その詳細を大坂に注進する旨を伝える書状が出されている[7]ことから、『常山紀談』など、主に加藤氏の視点でが伝わる夜襲を18日とすることには少なくとも無理があります。 また、同日付けで村上助右衛門景房に対しても同様に佐世元嘉から伊予での活躍を賞する書状が発給されています[8]が、他の記録類には名前が見えないものの同人も伊予へと渡海していたことがわかります。 そして、この書状の書き出しで「去十七日之夜於、御陣所敵及」としていることから夜襲がなされたのは17日の夜と理解するのがよいのではないでしょうか。

今回紹介している毛利氏関連の史料からは三津浜での夜襲の後、毛利軍がどのように動いたかを伝えるものはなく、また、河野氏旧臣についても具体的に触れる箇所はありません。 刈屋口の戦いで毛利家が送り込んだ村上元吉、曽根景房の2人が討ち死にしたことから、以後沿岸部から離れた荏原城、久米如来寺などで伝わる戦闘についてはその中心が河野氏旧臣の一揆勢に移ったのかもしれません。

その後

戦後を語る史料はあまりありませんが、10月1日に佐世元嘉から村上景房に銀子三枚を渡し今後については武吉とも相談するよう書かれた書状が残されており[9]、これに関連すると思われる翌2日付けでの同じく佐世から村上景房の活躍を伝える書状が堅田元慶に宛てて送られています[10]。

このように毛利氏によってなされた伊予攻めの一件について『考証』は『御密書』から

四国之儀ハ彼牢人等芸州海辺之番勢共ヲ相カタラヒ、私トシテ相働、大坂罷上候以後故、不存事御座候

などとする責任を出陣した当事者に押し付ける言葉を取り上げています。そして編者は

コノ理リノ語ハナハナツタナシ(〜中略〜)ソレヲ予州牢人ニカタラハレタルト云フトモタレカハ信セン、況ヤ内府ノ如キ英雄オヤ〜

と当時のこの言葉を厳しく批判し、伊予侵攻について佐世元嘉の関与も明確であるとしています[11]。

実際に、能島村上氏や曽根氏などは伊予渡海の責任を問われることなく萩藩士として続いていますし、むしろ平岡善兵衛は岡氏を名乗って新たに萩藩に仕えることとなりました。 河野氏旧臣がどの程度関わったのか、その他の毛利氏家臣の出陣状況など不明な点が多いのも事実ですが、『閥閲録(91 曽根三郎右衛門高充)』に残る文書や村上景房への発給文書からも輝元以下、毛利元康、堅田元慶、佐世元嘉ら毛利氏当主、重臣の指示の元になされた侵攻であるとするのが妥当と思われます。

なお曽根氏については、書籍や史料により異なる漢字が用いられていますがここでは「曽根」で統一しました。 また名前についても高房と景房双方が知られていますが景房で統一しています。 その曽根氏は景房の死、防長2国への減封の中でも毛利家に止まりました。余談ではありますが萩藩大組として幕末まで続き、子孫は維新後に男爵となっています。

注釈

  1. 『毛利三代実録』(『山口県史 史料編 近世1上』)、『毛利三代実録考証』(『山口県史 史料編 近世1下』)。この両書は、萩藩の手により文政6(1823)年に編集が始められ明治時代に完成しました。「萩藩閥閲録」「萩藩譜録」に収録されたものを初めとした文書類や古記録を検証した上でまとめられています。
  2. 『関原陣輯録』(三坂圭治 校注『戦国期毛利氏史料撰』マキノ書店)
  3. 『藩中古文書』所収「村上小四郎蔵文書」(愛媛県教育委員会『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編、2002年、以下『しまなみ報告書』)。村上景房は来島村上氏の重臣、村上河内守吉継の孫で小早川氏に仕えた後に毛利氏に仕えています。
  4. 『実録』慶長5年9月18日。『考証』同日より「浦備前覚書」。
  5. 『譜録(木梨二郎吉経)』では木梨喜左衛門元次について、兄景吉と伊予に渡り一番槍の手柄で100石の加増を受けたとしています(『関原陣輯録』より)。
  6. 『関原陣輯録』より「村上図書元敬書出」の内容。
  7. 『考証』慶長5年9月18日の記事より『萩藩閥閲録(91 曽根三郎右衛門高充)』から9月18日 佐世元嘉書状
  8. 「村上小四郎蔵文書」9月18日付佐世元嘉書状写(『しまなみ報告書』)
  9. 「村上小四郎蔵文書」10月1日付佐世元嘉書状写(『しまなみ報告書』)
  10. 「村上小四郎蔵文書」10月2日付佐世元嘉書状写(『しまなみ報告書』)
  11. 『考証』慶長5年9月18日 論断

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。