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刈屋口の戦い-毛利氏の記録に見る(1)- [合戦]

刈屋口の戦いへと至った伊予攻略がどういった経緯で行われたのかを子細に辿れるだけの史料はないようです。 とはいえ、輝元や側近の佐世元嘉といった上層部が強く関与しており、戦後毛利家への処分にあたっても理由の一つにも各地へ兵を出したことが挙げられています。 毛利家中に残っていた史料については『萩藩閥閲録』『萩藩譜録』などに収録されたものがあり、それらを利用して元就以来の初期の治世をまとめた『毛利三代実録』(以下『実録』)とその根拠を示した『毛利三代実録考証』(以下『考証』)が萩藩で編纂されました[1]。 同様に関ヶ原合戦のみに絞った『関原陣輯録』も編纂されています[2]。 ここでは『実録』『考証』『関原陣輯録』に取り上げられている内容を中心に毛利氏の側でこの戦いがどのように見られていたのかをまとめてみます。 また、補強の意味を兼ねて、後に紀州藩に仕えたため萩藩に史料の残っていない村上景房関連の書状類を「村上小四郎蔵文書」から参照します[3]。

伊予攻略まで

まず、大坂城に入り西軍の総大将となった毛利輝元の下、伊予攻略が行われるまでの村上元吉の動きを追ってみます。 当初、村上元吉は弟の景親および佐波越後守(広忠)とともに7月の下旬に阿波へと派遣されていることがわかります[4]。 これは毛利軍が阿波の蜂須賀領を占領するためで、阿波に赴き蜂須賀家政から渭山城を特に戦闘もなく接収したものと思われます。 『関原陣輯録』が引用している『萩藩譜録(村上図書)』ではこの際に宍戸善左衛門景好も目付として阿波へ赴いていることが書かれていますが、実際には残されている書状などからは佐波越後守が中心であり、宍戸善左衛門の関与は確認できません。

その後、阿波にいる佐波越後守に村上兄弟を呼び戻し代わりに椋梨二郎左衛門(景良)、仁保民部少輔、三輪加賀守(元徳)等を阿波へ派遣する旨が伝えられています[5]。 三輪加賀守等が阿波に到着するまで村上氏は移動できないでしょうから能島村上氏は少なくとも8月の前半を阿波で過ごしたということになるでしょう。 呼び戻した目的は記されていませんが、時間的にはこの後、兄元吉のみが安芸へと戻り、父武吉とともに伊予へ侵攻する準備を始めたということになるのでしょうか。 また、兄弟が行動を共にしたわけではなく、景親は大津城攻めの陣中にいたことが知られています[6]。 一方、当初の動向は不明ですが、9月に入ってから尾張近海で行動している毛利水軍のうちの一隊を指揮していたのが村上八郎左衛門(景広)です[7]。 景広に属していた部隊は当初から伊予攻略には関与していないと言えそうです。

8月18日に久枝又左衛門、山田兵庫助といったかつての伊予国人とも思われる人物を相手に堅田兵部少輔元慶、毛利大蔵大輔元康の連名で書状が出されています[8]。 さらに、20日には同じくこの2名から長宗我部氏家臣の瀧本寺非遊老宛の書状も出されており、この中で伊予に派遣する軍勢は村上大和守父子を大将とすることが伝えられています[9]。 これらの書状から曽根孫左衛門が四国方面の工作に動いていることがわかりますが、河野氏とつながりが強い相手には村上武吉など別の人間が活動していたのではないでしょうか。

また、やはり8月20日付で堅田兵部少輔元慶、毛利大蔵大輔元康連署で、完掃部、村助右衛門尉(村上景房)、木梨平左衛門尉、村越前(村原隆盛)の4名(括弧内は翻刻者による注釈)に宛てて船や人数の準備を進めるよう命じた書状が残されています[10]。 その内容から伊予侵攻の準備が佐世元嘉、村上武吉父子、曽根景房等を中心に動いていることが読み取れます。 いずれにしてもこのように、広島の佐世元嘉が強く関与し、実戦部隊として能島村上氏、曽根氏を中心に準備が進んでいることが伺えます。

この後、27日に輝元から村 大和(村上武吉)、宍 善左(宍戸景好)、村 掃(村上元吉)、曽 孫佐(曽根景房)の4名に宛てて、伊予の加藤領を攻め取るよう命じる書状が送られています[11]が、実際に伊予へと渡海するまでには尚半月ほどを要することになります。

注釈

  1. 『毛利三代実録』(『山口県史 史料編 近世1上』)、『毛利三代実録考証』(『山口県史 史料編 近世1下』)。この両書は、萩藩の手により文政6(1823)年に編集が始められ明治時代に完成しました。「萩藩閥閲録」「萩藩譜録」に収録されたものを初めとした文書類や古記録を検証した上でまとめられています。
  2. 『関原陣輯録』(三坂圭治 校注『戦国期毛利氏史料撰』マキノ書店)
  3. 『藩中古文書』所収「村上小四郎蔵文書」(愛媛県教育委員会『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』古文書編、2002年、以下『しまなみ報告書』)。村上景房は来島村上氏の重臣、村上河内守吉継の孫で小早川氏に仕えた後に毛利氏に仕えています。
  4. 『実録』慶長5年7月29日。『考証』同日の記事より『萩藩閥閲録(71 佐波庄三郎)』から慶長5年7月29日 毛利輝元、前田玄以、増田長盛、長束正家連署下知状、7月29日 毛利輝元黒印定書、7月29日 毛利輝元定書。
  5. 『実録』慶長5年8月8日。『考証』同日の記事より『萩藩閥閲録(71 佐波庄三郎)』から8月8日 毛利輝元書状、8月9日 毛利氏加判衆連署書状。
  6. 「村上文書」9月13日堅田元慶書状(『村上家文書調査報告書』今治市教育委員会)
  7. 『実録』慶長5年9月9日および10日。『考証』同日の記事より「毛利家文書」382 9月12日 尾張国野間内海合戦頚注文。村上景広が指揮する一隊に下見太郎右衛門、村上次郎兵衛、村上仁三郎、村上新五郎、村上又三郎、吉田善右衛門が従っていたようです。また、「浦備前覚書」では来島村上氏の村上彦右衛門 も伊勢方面へと水軍を出していたとされます。
  8. 『実録』慶長5年8月18日。『考証』同日の記事より『萩藩閥閲録(91 曽根三郎右衛門高充)』から8月18日 毛利元康・堅田元慶連署書状
  9. 『実録』慶長5年8月20日。『考証』同日の記事より『萩藩閥閲録(91 曽根三郎右衛門高充)』から8月20日 毛利元康・堅田元慶連署書状
  10. 「村上小四郎蔵文書」8月20日付け堅田元慶・毛利元康連署書状写(『しまなみ報告書』)。ここで、注釈の入っていない完掃部については、各種宍戸氏の系図に掃部頭として現れることから宍戸景好のこととしてよいかと思います。注釈が入っている村越前を村原隆盛としていますが、この人物が時期的に符合するのか確認ができていません。
  11. 『萩藩閥閲録(91 曽根三郎右衛門高充)』8月27日 毛利輝元書状。『閥閲録』の現在刊行されているものでは宍 善左に対して(宍戸元真)と注釈が入っていますが、これは宍戸氏関連の系図で景好子の元真にしか善左衛門という名が見られないためと思われます。

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