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刈屋口の戦い-加藤氏の視点から- [合戦]

関ヶ原の合戦時に伊予で起こった刈屋口の戦いなど一連の合戦を今度は加藤氏側の記録から見てみます。 対象としたのは『松山市史料集』第二巻に収録されている「明公秘録 乾・坤」「加藤嘉明伝」で、いずれも水口図書館が所蔵しているとのことです[1]。 両書とも加藤氏に縁のある菊隠という人の手によるものと伝えられており、刈屋口の戦いだけを取り上げたものではなく加藤嘉明、あるいは加藤家の歴史をまとめあげたものとなっています。 「加藤嘉明伝」は延宝5(1677)年に書かれたと記されていることが史料集の解題で紹介されていますので、関ヶ原当時の事情については作者が実地で見聞した話とは考え難く、 元々下敷きとなるものが書かれていたのか、あるいは当時加藤家や家臣の家に残っていた記録類や言い伝えを集めて書いたということでしょう。

「明公秘録」

まず「明公秘録 乾」ですが、分限録的な内容や軍制の記述などが記される中に、毛利家討手として伊予に襲来した武将の人名が記載されています。

  • 宍戸善左衛門 士将備前弟
  • 村上掃部
  • 曽根兵庫
  • 東右近
  • 都築谷主水
  • 都築谷四郎五郎
  • 木梨平左衛門
  • 因島新蔵人
  • 桂三郎兵衛

上記の名前を挙げて、彼らが率いる都合二千余の軍勢が来たと記しています。 ここで挙げられている人名の中でまず宍戸、木梨、桂の3名は元来からの毛利氏家臣であり芸備出身者です。 加藤氏の側からはこの軍勢の大将が宍戸善左衛門であり、彼が宍戸備前守元続の弟と見做されています。 村上掃部は元吉であり、東右近は能島村上氏の家老、因島新蔵人と言えば村上吉充となるはずですががこの時参戦していたのは吉充弟の吉忠ともされます[2]。 他書に見られないのが2名の都築谷氏です。 これはかつての伊予国喜多郡の国人津々喜谷氏と考えられますが、同氏は平岡氏と関係が深かったことが知られています[3]。 同書では戦闘の経過についての詳細はなく、三津で村上掃部、曽根兵庫等を討ち取り、三津と如来寺で討ち死にした味方について簡潔に記されているのみです。

続いて「明公秘録 坤」ですがこちらには詳細な戦闘の経過が記されています。 その内容を簡単にまとめると以下のようになります。

9月10日に宍戸善左衛門を大将として二千余人が芸州から伊予へ襲来、 先ず石川惣左衛門預かりの来島城(或いは仏殿城とも)に取り掛かったが、堅固だったためこれを捨て置いて三津浜に陣取り、真崎城を明け渡すように申し入れた。 加藤勢はこれに対して17日の夜(16日とも)、佃治郎兵衛を大将、黒田九兵衛を殿として夜討ちを仕掛け、 野崎民部、曽根兵庫、村上掃部を討ち取り、荒川甚左衛門が宍戸善左衛門に傷を負わせたが逆にその家来に討たれ、傷を負った宍戸は芸州へ帰った。 死者は荒川等10名ほどで、戦功をあげたものは村上掃部を討った井上鹿之助、曽根兵庫を討った山田伝左衛門等である。 19日には黒田九兵衛、佃治郎兵衛を両大将として久米如来寺に篭もる敵を攻めたが、九兵衛が討死、佃も傷を負った。 23日に加藤左衛門佐が三津木の山で戦い、この夜関ヶ原の敗軍を聞き敵は芸州へ退いた。

「加藤嘉明伝」

最後に「加藤嘉明伝」ですが、こちらでは細かい描写も多くなっています。

伊予に来襲したとした挙げられている諸将の名前は先に示した「明公秘録 乾」にのものとほとんど変わりありませんが、因島新蔵人の他に野嶋民部丞という名が現れます[4]。 一説には、として、先ず石川宗左衛門隆次(嘉明家臣で姉婿、三千石)が守る来島城を攻めようとしたが守りが固いためこれを諦めたとしています。 また、三津浜上陸後に、都築谷が一隊を率いて宅原古城(荏原城のことと思われます)へ移ったことが記されているほか、 夜襲までの経過が綴られ、16日の朝に予定されていた曽根兵庫、東右近との会談を佃次郎兵衛が病と偽って欠席し代わりに3日以内に開城する旨を伝え、それを聞いた宍戸善左衛門が小躍りして喜び毛利軍が油断する様子が描かれています。

久米如来寺の戦いについては、夜襲後の19日になって都築谷孫右衛門(河野浪人で芸陽にいた)が三津に到着し、東右近、因島新蔵人、木梨平左衛門等残兵を集め、宅原の兵と連携して濫妨行為を行ったところ、押し寄せた加藤軍と畠寺原で遭遇し、毛利軍が久米八幡下の如来寺に篭もったとしています。 結果、毛利軍は敗走したようですが、加藤軍も指揮官である黒田九兵衛が鉄砲で撃たれて亡くなり、佃次郎兵衛もまた傷を負ったとしています。 この戦いでの黒田を評して後に加藤嘉明は、勇敢ではあるが策が足りない行為であったと述べたとする逸話も記されています。

さらにこの後、22日夜に間者が松前城に戻り、翌日宅原の兵が芸州へ帰るために三津へ向かおうとしていることを告げますが、これを受けて加藤軍も23日黎明に兵を出して毛利軍を攻撃します。 東右近、都築谷孫右衛門等が率いる兵と道後周辺での戦いとなったようです。この時に木ノ山の地名が出てきます。 毛利軍は北に逃れますが、加藤軍も追撃を仕掛けるだけの余裕もないまま、、その夜互いに関ヶ原での西軍敗北を知り、翌早朝毛利軍が芸州に撤退したそうです。

一方で、最後、22日以降の戦いには佃次郎兵衛の名前は見えず、『常山紀談』のような特定の人間の功績を強く取り上げているわけでもありません。

都築谷氏について

先に述べたように、都築谷氏は津々喜谷氏であり、都築谷孫右衛門は平岡孫右衛門のことと考えられますが[5]、この両書には平岡氏の名前は一切現れません。 『常山紀談』や『築山本河野家譜』に登場する平岡善兵衛(あるいは善右衛門)を指しているのが都築谷主水、四郎五郎のいずれかではないかと思われます。 他の記録では唯一「久留島家文書」の「旧記集」に含まれる「田坂道閑覚書」[6]に、当時来島家に加勢を求める使者として来たのが「筒木屋氏」であるとされていることから、津々喜谷を自称するものが陣中にいたのは間違いないと言えそうです。

一方、同じく加藤氏側の記録でも『加藤嘉明公譜』では善兵衛とその兄孫右衛門が平岡氏として描かれています[7]。 同書が嘉明の孫加藤明友の手によるものであるとすれば先に挙げた2書とほぼ同時代のものと考えられますが、それぞれが平岡氏のみ、津々喜谷氏のみの記述であることや、『常山紀談』『築山本河野家譜』など後年編纂されたものでは平岡姓とされているものばかりであることは、当時の平岡氏と津々喜谷氏の同一性、あるいはその関係がどのように知られていたのかという点と合わせても興味深いところでもあります。

来島城の謎

毛利軍が当初来島城(或いは仏殿城)を攻略しようとした、とする記述があるは理解が難しいところです。 来島城に加藤氏の家臣が在城していたとする記録は各地誌類にもこれまで見たことがないようにも思いますが、加藤嘉明に与えられた朱印状からは野間郡の一部が与えられていることがわかりますので[8]、この時期に城番を置いていた可能性が皆無とは言えないのかもしれません。 守将とされる嘉明の姉婿石川宗左衛門隆次についての詳細が明らかになればわかることもあるかもしれませんが、嘉明の姉婿であり、後の分限帳に子の名前は見えるものの[9]、事績の不明な武将とも言えそうです。

まとめ

加藤氏の側で記録された刈屋口など一連の戦いは

  • 宍戸善左衛門が大将とした毛利軍が来襲
  • 三津浜の夜襲で村上掃部、曽根兵庫、野嶋民部を討ち取り、宍戸善左衛門に手傷を負わせた
  • 宍戸は芸州へ帰ったが、残りの将兵が篭もる久米如来寺などで戦いが続いた
  • 都築谷孫右衛門が救援に訪れた他、複数の都築谷氏が参加している

と理解されていたことが読み取れます。 また、毛利氏側とは異なり、刈屋口以降の如来寺、道後での戦いについても都築谷孫右衛門、東右近を中心とする毛利側の動きが記録されています。 ただし、村上武吉の動きが見えない点については毛利氏側の記録とも一致するところです。 少なくとも『築山本河野家譜』が記すような河野通軌の存在や河野氏旧臣の平岡氏の蜂起は描かれますが、河野氏の旧領回復といった視点は特に示されていませんし、『水里溯洄録』にあるような具体的な一揆鎮圧の記録も見えません。

もちろんこれらの記録には当時誤認されたままのものや関ヶ原後に得られた情報(正しいかどうかを問わず)も含まれていると考えられますが、戦後に能島村上氏家臣の村上四兵衛らが加藤氏に召し抱えられたとする逸話がありますし[10]、来島村上氏からも村上九左衛門が召し抱えられています[11]。 さらに、因島村上氏の当主だった村上吉充も加藤領となった野間郡佐方村に定着し余生を送ったとされます[12]。 このような状況から後年になって、当時の詳しい毛利側の内情を加藤氏側が知りうる余地はあったとも言えます。

注釈

  1. 「明公秘録 乾・坤」「加藤嘉明伝」(『松山市史料集』第2巻 考古編 2.古代・中世編.近世編 1.文化編、松山市、1987年)
  2. 「能島来島因島由来記」(『因島市史料集』第6集)収録の史料では村上義光弟村上内匠頭義政、あるいは能島内匠頭義久(吉政と始め云、義忠とも云う)などとして現れます。一方、萩藩に残った因島村上氏は吉充の弟隆吉、亮康の系統でこちらの示す系図には見られない名前です。
  3. 宮尾克彦「「鳥坂城合戦考」−永禄年間の伊予における戦国諸勢力の展開について」(『文化愛媛』35)では「洲城要輯」の含まれる「続谷系図」(「伊予史談会文庫」)で通行の妹が房実の妻となり、その通行の養子として房実子の孫右衛門通智が記されていることが指摘されています。また同系図では孫右衛門弟を善兵衛房智としています。房智の名は知られていませんが「平岡氏系図」(岡部忠夫編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1999年)でも善兵衛直房の兄孫右衛門については津々木屋を継ぐとなっていることから津々喜谷を孫右衛門が称した事実はあるようです。
  4. (2)を参照
  5. (3)を参照
  6. 福川一徳、甲斐素純「久留島家文書(6)」(『玖珠郡史談』24号、1990年)
  7. 「芸州勢伊予侵入一件」(『愛媛県史』資料編 近世上 85、『加藤嘉明公譜』より抜粋)
  8. 「豊臣秀吉朱印伊予国知行高目録」(『愛媛県史』資料編 近世上 55)で乃万郡1万3千石余りが加藤嘉明の所領として宛てがわれています。
  9. 『加藤嘉明公』(伊予史談会、1930年)に『会津鑑巻11』掲載の「加藤家士営図」の内容とされる分限帳が掲載されており、そこには2000石を領する新右衛門がおり惣左衛門の子、家老と書かれています。また、「加藤家分限帳」(『会津若松史』第8巻 史料編1、会津若松市、1967年)にも同じく新右衛門の名前が見えます。
  10. 「宮窪村上文書」の「能嶋家家頼分限帳」(『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』愛媛県今治市教育委員会)では防長2国へ減封後の能島村上氏から船などを持ち出し加藤嘉明の下に走ったとされています。
  11. 「家中諸士家譜五音寄」山脇伝内組頭 村上喜兵衛(倉地克直編『岡山藩 家中諸士家譜五音寄』岡山大学文学部、1993年)に、来島氏に仕えていた喜兵衛の父九左衛門が加藤氏に召し抱えられたことが書かれています。
  12. (2)と同じく「能島来島因島由来記」(『因島市史料集』第6集)によれば、関ヶ原後に長州矢田門で2800石を給付されるが後に官を辞して備後鞆津に帰る。予州松山加藤家と和睦して同家に属すが、寛永4年加藤家奥州国替えのときに村上家は任を辞退して浪人、野間郡賞多郷佐方保に移るなどとされます。

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呑舟

よくわかりませんが刈谷口の合戦は建前上は豊臣家の加藤家接収の沙汰により毛利家と能島村上、旧河野家臣団により城請取りが目的留守を預かる佃が恭順の意を表しながら逆襲に出たものとされてますので、咎め立てされる所以はないのではないでしょうか?
途中で関が原での西軍敗退の報に接し総引揚をしていますが、逆なら佃は曝し首でしょう。

平岡通軌は実在の人物で河野家と毛利家の間のメッセンジャーです。
子孫は屋代島に移住し現在も本家筋、分家筋とも健在です。


by 呑舟 (2010-06-05 09:27) 

takubo某

呑舟様

こちらへもコメントありがとうございます。

「平岡通軌」という名は始めて目にいたしました。
房実の子、平岡直房の系統であれば関が原の際の伊予での攻防の後に毛利氏に仕え、一時期は岡氏を名乗り、屋代島和佐村を領して舟手組にあったことは存じておりますが…。
通軌を名乗った人物が平岡氏にいたのであれば興味深いところです。
屋代島にということで兄孫右衛門ではないでしょうし、直房の別名でしょうか?あるいは別人であれば、その系譜上の位置をご教示いただければ幸いです。

by takubo某 (2010-06-07 01:42) 

matthew

父方の祖母が野嶋家の末裔の最後のようで、「野嶋家代々之系譜」と言う系譜が私の手元に伝わっております。6月に母が亡くなり、遺品を整理した中から出てきました。行書体ですので、最近になって書泉でくずし文字解読辞典を求め解読しようと試みておりますが科学者の私には難解です、汗。母の生前に聞いておけば良かったと後悔しております。
初代と二代目の最初の部分は大分判りました。初代は「野崎民部之丞」ではないようです。尤も系譜の最後は文化十年(1813年)ですから250年前のことを記載してあるわけで、どこまで正確かは判りません。
解読した部分は(○は解読できず。括弧内は西暦)以下の通りです。
尤も、もとは伊豫國の住人のようですが、伊豫國の歴史とは関係ないようで恐縮ですがご参考までに:


『野嶋○部丞忠時
 孝霊天皇伊豫王子○三小子越智ナリ御子末裔 河野冠者三嶋三郎伊豫桂之助親清 九代河野八郎通忠ノ庶流(ソリウ)ナリ 伊豫國ノ住人ニテ太閤秀吉ニ属セシ時 秀吉来嶋ヲ久留嶋と書カヘ○嶋ヲ野嶋と書カユベシトノ事ニテ夫○野之字ヲ用 天文二十辛亥年陶(1551年)スヘ尾張守隆房入道全○謀反○ 弘治元乙卯年(1555年)十月晦日藝列佐伯郡○嶋○ヲイテ合戦ス ○○利ヲ失ヒ ○○○○ニオイテ自害ス時ニ○部丞勇戦ス


野嶋民部丞通豊
 毛利右馬○輝元ニ従ウ 慶長五庚子年(1600年)九月伊豫之國・・・・・』

この通豊の項目では関ヶ原の戦い(慶長5年)に毛利輝元に従って闘い戦死したそうです。戦いや経緯について3ページほどにわたって記述されております。
野嶋家は、江戸時代には板倉周防守の家臣となって15石3人扶持を拝領していたと書かれていますが未だそこまで解読できていません。

by matthew (2010-09-03 16:07) 

takubo某

matthew様

貴重なお話をありがとうございました。

matthew様からご紹介いただいたお話ですと野嶋民部丞は村上源氏を名乗る海賊村上氏ではなく通有の子、八郎通忠から分かれた河野氏の庶流であったようですね。
「明公秘録」の「野崎」は「野嶋」をどこかで誤ったものということかと思います。

通豊殿はこの伊予での一連の戦いで討死されたようですが、詳しく書かれているその経緯にこれまでの毛利、加藤、あるいは来島といった諸氏の記録には見られない何かがあるのではと気になります。
河野氏から別れて以降、野嶋に改めるまでは何を名乗られていたのかも興味深いところです。

また何かおわかりのことがあればご教示ください。
by takubo某 (2010-09-04 09:36) 

matthew

早速不完全な結果をご覧戴き有り難う御座いました。色々あげておられる古文書も拝見せずに家系図からの書き込みで申し訳ありません。
定紋は「九曜(ここのつぼし)」、家紋は「三つ追い葉沢瀉(みつおいば・おもだか)」とあります。手許の系譜で忠時は上記だけですので末裔とか庶流とかで残念ながらこれ以上はたどれないですね。

部分的にしか読めませんが、通豊のページでは、最初は毛利輝元に従った。
(中略)「我兵○野嶋民部村上○(忠時と同じ字ですが上の『民』とは明らかに違います、てへんに見えるのですが?)部助?数万騎ヲ引率シ○列ヲ○シ兵船数十艘○○部ニ屯シ」とありますから村上氏とも関連があったのでしょうか?船も使っていることですし。
(中略)秀吉の旧恩を忘れず?「輝元ニ叛?スベシ」とありますので最終的には輝元に謀叛したようです。その後は輝元の攻撃を受けたようで「船中ニ兵ヲ慰ント三ツ浦ニトドマリ甲ヲ解キ冑ヲ脱ギ酒宴開ナリ」と油断したようで、笑、(中略)「戦利ヲウシナヒ敗走ル」
(中略)「戦テ遂ニ死ス」
で終わって居ります。もう少し読めると興味深いのですが・・・・。
by matthew (2010-09-04 12:28) 

takubo某

matthew様

重ね重ねありがとうございます。

多くの史誌が伝える話の流れから推測すると…

> 村上○(忠時と同じ字ですが上の『民』とは明らかに違います、てへんに見えるのですが?)部助
恐らく「掃部」で、村上掃部頭元吉(当時の能島村上氏当主、この戦いで討死)のことかと思われます。

> 秀吉の旧恩を忘れず
と説いたのは毛利勢から城明け渡しを求めた加藤嘉明の留守部隊に対してでしょうか。

> 「船中ニ兵ヲ慰ント三ツ浦ニトドマリ甲ヲ解キ冑ヲ脱ギ酒宴開ナリ」と油断した
際に攻撃を仕掛けたのは加藤勢、油断して攻撃を受けたのが村上水軍を中心とする毛利勢となります。

もちろん、上記とmatthew様のご先祖が伝える話とは食い違いがあることは当然あるかとは思いますので参考までに。

=========================

また、手元のメモから関係があるかもしれないものが。

福川一徳氏の「関ヶ原の役と来島氏」(『伊予史談』262号)で「道閑覚書」という来島村上氏の家臣、田坂幸長(道閑)の覚書が翻刻史料として紹介されています。
その中でこの関が原の戦いに際しての伊予での戦闘で亡くなった人名として「野島通高」という人物の名前が残っているようです。
私のメモには通高の後に「?」を打っており、これの意味が今では自分でもわからなくなっていますので、折を見て再度同誌を図書館で確認してみたいと思います。
「道閑覚書」自体は関が原の戦いから60年以上経った寛文年間のものですので人名等に誤りがあってもおかしくはないでしょうし、仮に「通高」と記録されていても通豊殿と同じ人物を指している可能性はありそうです。
by takubo某 (2010-09-05 09:56) 

matthew

ご教示有り難う御座いました。その後多少解読が進捗しました。系譜冒頭の忠時の項目は

『野嶋掃?部丞忠時
 孝霊天皇伊豫王子○三小子越智ナリ御子末裔 河野冠者三嶋三郎?伊豫桂之助親清 九代河野八郎通忠ノ庶流(ソリウ)ナリ 伊豫國ノ住?人ニテ太閤秀吉ニ属セシ時 秀吉 来?嶋ヲ久留?嶋と書カヘ○嶋ヲ野嶋と書カユベシトノ事ニテ夫○野之字ヲ用 天文二十辛亥年(1551年)陶(スヘ、おくりがな)尾張守隆房入道全薑 謀反○ 弘治元乙卯年(1555年)十月晦日 藝州佐伯郡厳嶋ニヲイテ合戦ス 全薑利ヲ失ヒ ○浦芦?濱(ハマ、おくりがな)ニオイテ自害ス時ニ掃?部丞勇戦ス』

と読めるようで、「厳島の戦い」に触れているようですね。ネットで探しましたところ、陶尾張守隆房(晴賢)が自害した場所については「高安が原」(石碑が建っているようですね)と「大江浦」の両説があるようですが、野嶋家の系譜からすると「芦濱」または「若濱」(「若」ではないと思うのですが)とありますので、大江浦を指すかどうか自信ないですが「高安が原」と言う山中ではないと考えますが?

別スレッド「越智河野氏の出自」も拝見しましたが、野嶋家の系譜では孝霊天皇第三王子説にたっているようですね。この系譜をどこまで信用するか、の問題ですが、笑。

ご指摘のようにネット上で調べて児玉幸多氏のくずし字解読辞典で確認しましたが「村上掃部」ですね。とすると、初代も野嶋「掃」部丞忠時と読めます。次代の通豊は民部丞でまちがいありません。3代目も野嶋民部丞忠由です。系譜最後の文政9年(1827年)12月26日亡(?)の野嶋平右衛門忠誠(タダトモ)まで、通豊を除いて代々「忠」の1字を引き継いでいます。ちなみに、父方祖母は(野嶋)かめ、で明治4(1872年)年5月2日生まれですので1代ほど空いていると思われます。

通豊の項目は「三津浜の戦い」の裏話?のようで、固有名詞が結構出てくるのですが、自然科学者の私には行書解読は相当難しいです、汗。

以前の「伊豫之國」のあとは、ご指摘頂いた加藤嘉明と読めますので、

『○○之城主加藤?右馬助嘉明? 家康公ニ従ヒ 東国ニ○フ時 石田○○○○蜂起ス 毛利輝元大阪ニ地ヲ○ニ居レリ 石田ト天下之成敗ヲ月 故ニ○○(冒頭と同じです)之城ヲ攻補ントシテ毛利之軍兵・・・・我兵○野嶋民部村上掃部助?数万騎ヲ引率シ藝州(現代字の「列」」と同じですが、くずし字辞典では「列」は全く違っていますので「州」と読みました)ヲ○シ 兵船数十艘 ○○嶋ニ屯シ使ヲ○○(加藤氏の城の名前ですね)ニ○○○ 嘉明 家康公ニ随ント云得?○ 今更ニ志ヲ 秀頼公ニ通○○ヲ聞き 輝元ニ叛スベシ』

とあり、以下に人名が続くようですが読めません、汗。以下には

『・・・使ニタイオウシテ云 嘉明○○ハ秀吉ノ旧恩ヲ忘ルル事ナシ 秀頼公ニ随ント思 ・・・』

と言って欺いたようです。そこで野嶋民部と村上掃部の軍勢は安心して甲冑を脱いで酒宴を催した。
ついで

『偸人コレヲ告グ ○○○○軍兵ヲ引率シテ キウニ襲?来リ 矢ヲハナチ 炮ヲ○シ攻撃ツ 毛利ノ勢 周章大○(サハイ、おくりがな)テ 一戦利ヲウシナイヒ 敗走ル・・・・・○根村上野嶋○戦テ遂ニ死ス』


ウイキペデイアでは、加藤嘉明は家康の命で東国に出兵している、その間に豊臣の名で毛利輝元は四国に出兵したわけですね。毛利輝元に従っていた野嶋通豊は加藤嘉明に対して「秀吉の旧恩を忘れたか」と責める。加藤嘉明は「そんなことはない」と釈明したので安心して軍装を解いた。そこで加藤嘉明の留守部隊○○○○(読めません、涙、佃十成ではないですね)に密告されて攻撃されて周章狼狽し?毛利軍とともに野嶋通豊も滅ぼされた、と言うことが書かれているようですが、史実と比べて如何なものでしょうか。

古代エジプト、インカなど、日本では邪馬台国までは興味があったのですが、戦国時代は一向に不案内で、たびたび余分なコメントをしまして申し訳ありません。
by matthew (2010-09-05 14:20) 

takubo某

matthew様

史実、という点では油断した毛利勢が加藤軍の夜襲を受けて大きな損害を受けたことは確かかと思いますので、後は人名やディテールがどう描かれているかに興味があります。
人名についてはこちらでも紹介しております各種記録類と照合されるのがよいのかもしれません。
加藤氏系、毛利・村上氏系、あるいは来島氏のような外部勢力といったように関わり方によって視点も異なると思いますので、登場する人名によってその色が見えるのではないでしょうか。

また、前回書きました福川一徳氏の「関ヶ原の役と来島氏」に出てくる「野島通高」は覚書の中ではなく、福川氏が書かれている本文の中にこの戦いでの戦死者として村上元吉、曽根高房と共に挙げられていました。
福川氏が目にされたいずれかの記録の中に「野島通高」という名前が出てくるということなのかと思われますが、野嶋通豊殿との関係がやはり気になります。

by takubo某 (2010-09-07 23:53) 

matthew

「野島通高」についてお調べ頂き深謝です。また、私ども自然科学者にとっても、まずは過去の文献調査をするのは常道ですので、それを怠り書き込ませて頂き失礼しました。

「刈屋口の戦い」に関係する(と思われる)野嶋通豊の系譜記載項目では「城ヲ守ル臣嘉明ノ弟?加藤○○ 佃○○ 中嶋○○ 城ヲ?水・・・・ 使ニ(ト?)タイヲウシテ・・」と3名の姓は読めますが、takubou某様の上記人名の中では佃十成とも治郎兵衛とも一致しないようです。ネット上で調べた範囲では該当しそうな人名は見あたりませんでした。ちゃんとした史料に当たらないと駄目であろうと思っております。

尤も私の解読も不完全でして、最初の「孝霊天皇伊豫王子○三小子越智ナリ」も「○三小子」ではなく、注釈の「越智ナリ」をみれば、また掲示板「ゆづき」等で鈴姫様がご披露された河野家の系図などを見ても「小千」の誤りですね、汗。また当初読めなかった忠時の項で『秀吉 来嶋ヲ久留嶋と書カヘ ○嶋ヲ野嶋と書カユベシ トノ事ニテ 夫○野之字ヲ用』の○は「能」のようです。ですから、御下問のありました「野島の前の姓」は「能嶋」ではなかったかと推測します。

通豊の項では3ページ余を費やして、城(この時期の加藤嘉明の居城はどこでしょうか?ネットで調べましたが良く判りません)の明け渡し要求から、欺かれて討ち取られるまでを毛利や村上氏ではなく「野嶋」の目から見た主観的な記述ですね。

通豊の次代、野崎民部忠由の項目では、父が戦死したので武州八王子の邑へ移り病死したとあります。八王子には親戚の石川氏、萩原氏がいたから、との理由だそうです。で、それ以後は江戸で板倉周防守に仕えて嶋原の乱で活躍したとかの記載があり、藝州には戻っていないようです。尤も藝州から跡継ぎを呼んだという記載もあり、全く無関係ではないようですが野嶋家の墓は東京日暮里の善性寺にあります。徳川、松平家の墓もありますが野嶋家の墓は通路の傍らにぽつんと立っている大谷石の墓石だけです。

私事にわたって恐縮ですが、父方の祖父も母方の祖父母も東京市牛込区近辺生まれですので、我が家としては完全に藝州或いは伊豫地方と縁が切れてしまっております。私も現在東京都内に居住しており、takubo某様があげられた参考文献を参照するのは若干困難と思われます。野嶋家の血は祖母で途切れておりますので、もし資料的価値があるのでしたら(そうとも思えませんが)何らかの形で公開することに支障はありません。平成13年に母が表装し直し?ておりますのでしっかりした装丁になっております。

いつも長くなり申し訳ありません。
by matthew (2010-09-08 14:05) 

matthew

改めて、takubo某様が引用されている『常山紀談』(菊池真一編、和泉書院、1992年)と、その後我が家で見つかりました『陰徳太平記 河野祖先之事』の写本の原本等を調べて参りました。『常山紀談』は近くの区立図書館の蔵書『近古史談 全注釈』(若林力著、大修館、2001)にも書き下し文がありましてそちらも参照しました。

上の「城ヲ守ル臣」以下は「弟加藤内記」、また「佃」は2字と思いましたが「佃次郎兵衛」の4文字を詰めて書いたようです。ただ、若林力氏は「加藤内記の素性は未詳」と注記されています。加藤嘉明伝なども2冊ほど見ましたが、この「刈屋口の戦い」については記載されていませんでした!

takubo某様のこのHPに初めて書き込ませて頂きましたが、『陰徳太平記』の書き出しが、「河野は孝霊天皇の伊豫王子~」、とありましたので、今城様の「ゆづき」のHPの関係したスレッドに移らせて頂きたく、何卒ご容赦をお願い致します。出来ましたらあちらの方に野嶋家系譜の中の刈屋口の戦いに関係する部分の原本をJPEGであげたいと思っておりますので、ご参照頂ければ有り難く存じます。

長々と書き込ませて頂きましたが重ねてご容赦の程を願い上げます。


by matthew (2010-09-12 16:18) 

takubo某

matthew様

お返事が遅くなりすみません。
また、私自身も興味を持っている1個人であって専門家ではありませんのでお気楽にお願い致します。

関連資料については本項以外のものを含め、こちらで取り上げている史料は基本的にほぼ活字化されたものですし、出典も記載しておりますので、都内であれば国会図書館、都立図書館で閲覧可能かと思いますのでご興味があればそちらを。

忠時殿の項にあるという久留島、野島のお話は気になるところです。
現実には来島村上氏は秀吉の頃に村上から来島に改め、江戸時代に入ってから久留島と変えています。
能島村上氏の場合は、「能島」は通称としては用いられても、彼ら自身は村上氏を一貫して名乗っているようですし、「通」の字を用いる人物も見当たりません。
また、あくまで村上氏の話ですのでmatthew様のご先祖が河野氏を祖に持つのであれば関係の薄いものかもしれません。

何かありましたらいつでも書き込みお待ちしております。
by takubo某 (2010-09-12 22:01) 

matthew

takubo某様

お返事有り難うございます。今城様のHPに書き込みましたように、野嶋家3代目の武州へ移り住んだ忠由までは出自、生没年(通豊は戦死年が判りますが)の記載もありません。それ以後は大体家督相続の年と享年や墓所、室の出自と没年、墓所まで記載があるのですが。

今回の話題と関係ないのですが、4代目の野嶋与右衛門忠明は元和5年(1620)12月15日に54歳で亡くなっております。これから逆算しますと、生年は永禄9年(1566)あたりになりますので、刈屋口の戦いのあった慶長五年(1600年)頃には34歳くらいになっていた筈ですが、2代目の通豊との関係が記載されていません。代々野嶋家では「忠」の時を引き継いでいますので、2代目通豊だけ「忠」の字を使っていませんのでどこかから紛れ込んだのか、正確に後世まで伝承されなかったのかもしれません。通豊の話もどこまで信用して良いのやら、と不安になります。

20年ほど前になりましょうか、母が表装する前後の野嶋の系譜の原本をちらっと見ましたが、当時は孝霊天皇は実在しないと言われておりましたので、後年先祖を作り出して天皇家につなげた「でっちあげの」文書だろう、と位にしか考えませんでした。最近になってようやく野嶋の系譜と、写本の断片と言っていいでしょうか、30%以上失われている「陰徳太平記」写本を見つけ、そこから入門した次第です。「豫章記を見ずして河野を語るべからず」とおしかりを被りそうですが、まずは原典のある(印刷本のある)「陰徳太平記」を読み始めております次第です。

ご案内のように、印刷された本は原則全て国会図書館に入るはずですが、伊予史談会や松山市資料集などは見つかりませんでした。書籍と雑誌のカウンターが別々にありますので私の探し方が悪かったのかもしれません。参考文献1の「加藤嘉明伝」などは是非読みたかったのですが・・・。

来島から久留嶋への変更は江戸時代なのですか!野嶋家の1~3代目の系譜はここでも後世へのちゃんと伝わっていないかもしれませんね。貴重な情報を有り難うございました。

色々失礼の段お許し下さいませ。また今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
by matthew (2010-09-13 05:58) 

matthew

本日やっと野嶋系譜の「刈屋口の戦い」の画像を、今城様のHP中「越智河野の出自は如何に」のスレッドにアップさせて頂きました。11年前のデジカメが壊れ、風景など一期一会と殆ど写真を撮りませんので、昨今の携帯デジカメの性能に驚いておりますが、やはりピントは甘いようです。ご興味がおありでしたらご覧戴ければ幸いです。
by matthew (2010-09-17 14:48) 

takubo某

matthew 様

アップされた「野嶋家代々之系譜 全」、「ゆづき」での皆様とのお話も拝見いたしました。

前提知識で補完している面もありますのでご注意いただきたいのですが目についた点として2ヶ所ほど。
1.「毛利之軍兵完戸備前同ク善左衛門曽我兵庫野嶋民部村上掃部助」
2.「完戸ハ加藤の臣荒川□□衛門、野嶋ハ加藤之臣井上加之助ヲ討取リト云得タリ」
と読める気がいたしますがいかがでしょうか。

1の箇所にある宍戸備前(元続)は宍戸本家の当主で関ヶ原当時は伊勢から関ヶ原へと転戦しています。
この頁で取り上げている「明公秘録」「加藤嘉明伝」のように善左衛門の紹介として「備前の弟」と出てくるものがありますので、どこかで誤りが生じたのではないでしょうか(ちなみに余談ですが宍戸善左衛門については、ここ最近この方を取り上げる記事ばかり私は書いているという、そういう方です(笑))。
曽根兵庫(景房)も曽我とここでは間違われているようです。

2の箇所については、荒川、井上の名は両軍の記録に見える名前ですが若干その内容が異なります。
「河野家譜築山本」では荒川甚左衛門を田坂弥五助が討ち取り、井上加之助を村上元吉が討ち取ったとしています。
「加藤嘉明伝」では荒川甚左衛門は宍戸善左衛門に傷を与えたものの宍戸の家臣に首を取られたとし、井上鹿之助は傷を追ったものの戦功のあった者として名前が出てきます。

また、私は「忠」の字を用いる能嶋内匠義忠のことを失念しておりましたが、呑舟様の言われるようにこの方を通高とする記録があるのであれば、通豊殿は能嶋義忠とも同一人物であるのかもしれませんし、そうであれば忠の通字は一貫していることになりますが……。

国会図書館で松山市史料集が見つからなかったとのことですので、参考までに書誌情報を以下にお示ししておきます。
松山市史料集第2巻
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001882760/jpn

by takubo某 (2010-09-19 10:30) 

matthew

takubo某様

早速のご教示有り難う御座居ました。見にくい写真で申し訳ありません。

古文書に慣れておいでですね!羨ましく存じます!

「備前」に「同ク善左衛門」ですか!有り難う御座居ます。固有名詞はtakubo某様のように通暁していないと比定のしようがありません。これで「善」の字のくずし方を辞典から色々探して確定できます。こうやってボキャブラリーを増やしていきませんと私のように無知識者は、本になったような資料をあさりって字を比定、確定する事しか出来ませんで難渋しております。「曽我」もやっぱり「曽根」には読めませんですね。呑舟様が仰るように後世に写したときにあちこち誤字があったのではないでしょうか。

「井上加之助」もやはり「加」でしたか。前回見た「加藤嘉明伝」(著者出版社等わすれました、それほど厚くない本でした)では「刈屋口の戦い」は全く触れられておりませんで、「陰徳太平記」の方にしぼってしまいました。次回は「河野家譜築山本」や「加藤嘉明伝」等こちらで引用されている本をしっかり探して参ります。松山市資料集もopacでのデータ有り難く存じます、やはり探し方が悪かったようでお手数をおかけして申し訳ありませんでした。

そうですか、義忠というのも可能性があるようですね。尤も生没年、室の名前と出自、墓所など4代目以降はちゃんと書かれておりますのに初代から3代目までは全くありませんので、どうも資料的価値は如何かと疑いたくなります。

刈屋口の戦いについては、佃大成の伝記と全く違う内容ですし、ご教示頂いた誰が誰の首を取ったかも違うようで、如何なものでしょうか。

最後に、「曽根(ここは曽我でないですね!、で、最初は曽根村と読みそうになりました!)村上 野嶋 ○ク戦テ 遂ニ死ス」ですが、呑舟様は「殿」ではとお読みになりましたが、私は「勇」のくずし字に似ているような気がしました。ただ、現在なら善戦する、とか勇戦する、とか云いますがこの時代にそう言ったのか知識がありません。言い回しからして不案内で古文書を読み解けるまでにはまだまだ修行が足りませんので、今後とも宜しくご指導の程をお願い申し上げます。
by matthew (2010-09-19 12:22) 

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