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満願寺の宥雄法印 [人物]

以前、宍戸景好の子供たちについて取り上げたことがありましたが、それぞれの子らについて新たに確認したことを含め再度取り上げてみたいと思います。

まずは景好の男子で満願寺の住持を務めたと伝わる宥雄法印(良春あるいは良俊)を見ていきます。

満願寺

満願寺は元は安芸国吉田郡山の寺院であり、当初は天台宗の寺院だったものを毛利元就が中興開山覚秀僧都を招き真言宗と改めたそうです。 天正年中に仁和寺の末寺となり、毛利輝元の防長移封、萩築城に合わせてその二の丸外郭へと移転しています[1]。

末寺は81ケ寺に及び、萩藩領内の真言宗寺院としては筆頭の位置にありました。 寛文2年、十四世宥俊法印の時には円清寺との本末の争いから一時期白潟の地に退院するといったこともあったようですが、萩藩主毛利綱広の裁定で満願寺の地位が保証され、城内に戻っています[2]。

満願寺十三世良俊坊宥雄法印

『防長寺社由来』(以降『寺社由来』)の満願寺の項[3]によれば、この満願寺の住持十三世が宥雄法印です。 十二世宥英法印の嫡弟であり、その俗世での出自は宍戸但馬守景好の子であると記されています。 7歳から宥英法印の下で学び、14歳で剃髪、16歳で高野山に学び、元和8年4月に満願寺の住持となったようです。

『寺社由来』の添書として書かれている歴代住持の名前では良俊坊宥雄法印とありますが、元和8(1622)年に秀就、宗瑞から満願寺の住持就任を認められた際の証文では宛先が師の宥英法印と良春になっています[4]。 また、ここから満願寺が寺領として500石余りを与えられていたことがわかりますが、その力が伺えます。

肥後人吉願成寺

『寺社由来』の記述によれば宥雄法印は後に仁和寺宮の命で肥後の願成寺へ赴き、願成寺十六世堯辰のもとで「地蔵院方一流密法」を極めたとあります。 この願成寺は人吉にあり、代々の相良氏の菩提寺でもある古刹です。

宥雄は高雄山で恭畏から教えを受けたことも記されていますが、堯辰は願成寺へとその恭畏を招いています。 同寺には堯辰の肖像が所蔵されており、その賛文は宥雄が書いている[5]ことからも二人の深い関係が伺えます。

また、願成寺側の記録では宥雄法印が正保4(1647)年に願成寺を訪れたことが残されているようです[6]。 願成寺の法流でも重要人物であったということは、後に作成された法系図[7]にも宥雄の名前を確認できることからも言えそうです。 この図では以下のようなつながりが記されています。

堯辰―宥雄―覚任(願成寺十八世)

願成寺十九世照辰の肖像の賛文からも照辰が密乗院の宥雄のもとで教えを受けていることが確認できますが[8]、それによると照辰が20歳の頃から宥雄に学んだということのようです。

宥雄法印の肖像と賛文

この願成寺には明暦3(1657)年に描かれた宥雄法印の肖像も残されています[9]。 その賛文の内容には村上氏を母として周防吉敷郡に生まれことも記されていますので、少なくとも良春は景好の正室村上景親を母として生まれたことは間違い無さそうです。 寛永戊寅(寛永15(1638)年)に年36と書かれていることからは、宥雄法印の生まれは慶長8(1603)年となります。 その場合、萩城は完成前であり、賛文の内容と合わせて考えれば吉敷郡で生まれたとするのは山口での生まれとも、景好が小鯖村を所領としていたことで同所で生まれたとも考えられます。

宥雄法印の肖像とその賛文は江戸円福寺の名僧運敞[10]が書いたとのことですが、宥雄法印の存命中に書かれたものであるため、その信憑性も高い史料と言えそうです。 ただし賛文では「二十五遘英庵然逝而満願虚席故檀越毛君有敦請於是乎錦旋本邦住満願寺」とあり、25歳で満願寺を継いだとしているようです。 同文にある寛永15年に36歳という記述から宥雄法印の25歳は寛永4(1627)年となり、『寺社由来』の元和8年に住持を継ぎ、十二世宥英法印が翌元和9年に亡くなったとする記述とは一致しません。

京へ上る

『寺社由来』では秀就からの書状を肥後で受け取り、寛永15(1638)年、萩に戻ったとあります。 実弟である粂之助が阿曽沼隼人との争論で切腹に追い込まれたのが前年の寛永14年3月と考えられ[11]、この萩に戻った時期はすでに長兄善左衛門元真も萩藩を立ち退いていた可能性もありそうです。

この件が影響しているのかどうかは不明ですが、満願寺に戻って「不幾」とあることからさして時を置かずして御室密乗院へ移ったと読み取れます。 賛文でも「寛永戊寅」すなわち寛永15年に満願寺を離れ、京に上って仁和寺に密乗院という小院を建てたとしています。 その後について賛文には「寛永己卯歳(筆者注:寛永16(1639)年)辰諸徒之中披砂擢覚任闍梨独師受法厥后東来西帰困学者五棯亦究一流之蘊奥」と見えますので、満願寺を離れて以後は「闍梨独師」に選ばれ、密乗院に中心に精力的に活動したということではないでしょうか。

四国霊場49番札所西林山三蔵院浄土寺

また、宥雄法印の名前が伝わる寺院として伊予国久米郡(現在の松山市)にある四国霊場49番札所西林山三蔵院浄土寺があります。 江戸時代に中興第一世として宥雄法印の名前が伝わります[12]が、この浄土寺は、慶長5(1600)年の宍戸景好率いる毛利軍による伊予侵攻時に加藤軍との間での激しい戦闘の舞台となった近隣の如来院も末寺の一つとしていた寺院のようで[13]、浄土寺自身も何らかの戦闘の被害を受けたものと思われます。

浄土寺を再建した宥雄法印がいつ頃の人物かはっきりしませんが、寛永13年頃住持であったとする記録もあるようですので[14]、やはり景好の子である宥雄法印であると言えるのではないでしょうか。 浄土寺には文明14(1482)年、河野通宣が再建した伽藍が残りますが、この伽藍の大規模な改造(改築とも)が正保5年から慶安2年にかけてなされたようです[15]。 史料には見当たりませんが、中興第一世と称されるだけにこの伽藍の改造にも関わっていた可能性があるのではないでしょうか。

その死と系図に見る宥雄法印

その最期は『寺社由来』の記すところによれば山城国西岡の寂照院で延宝4(1676)年11月12日に亡くなり、墓は同院にあるとのことです。 西岡とは乙訓郡周辺を指すようで、現在の長岡京市に寂照院が現存することから、宥雄法印最期の場所もここを指すものと思われます[16]。

一方、宍戸氏の各種系図の中では『続群書類従』所収のものが、この人物については非常に詳しく、没日は『寺社由来』と同じく、さらに没時に74歳であったとするなど『寺社由来』以上の内容も含んでいます。 この没年齢からは慶長8年に生まれ、延宝4年に亡くなったこととなり、生年について賛文の記述とも一致します。

この他「宍戸家文書」など、今でも山口に残る多数の宍戸氏の系図が存在しますが、少なくとも宥雄法印についてこれに匹敵するだけの内容を含むものはありません。 元真の萩藩立退きや元頼の明照寺住持就任を伝える系図ですら宥雄と名乗り、満願寺の門主を勤め、隠居後京都で没したとしているのみです。

その後の満願寺

『寺社由来』によれば宥雄法印までの歴代住持については七世が毛利氏庶流の志道氏、八世が甲斐武田氏とあるのみで特に素性がはっきりしている人物はいないようです。

逆に宥雄法印以降の満願寺の住持は下記のようになっています。 藩主吉元が招いたという公家出身の久我氏を除けば宥雄法印以降、萩藩士の家系から出ることが通例化したのではないでしょうか。

  • 十四世 深良房宥俊法印 因島村上氏(祐康孫)
  • 十五世 堯政房宥与僧正 国司氏
  • 十六世 空円房宥秀法印 宍道氏
  • 十七世    寛詮僧正 久我氏(公家)
  • 十八世 堯言房頼真法印 相島氏

この満願寺も明治以降、一時期廃寺となったようですが、現在は防府市に移転し、防府天満宮に隣接して存在しているようです。

まとめ

景好の子の一人である宥雄法印は幼い頃から毛利氏が深く帰依した満願寺で学びその十三世となったようです。 名刹である肥後国人吉の願成寺との関係も見られ、同寺に肖像も残されています。

寛永15年に満願寺を離れたことに兄や弟の境遇が関係しているのかどうかは不明ですが、その後は京を中心に活躍したことが伺えます。 また、宍戸景好率いる毛利軍が侵攻し、戦場となった伊予国久米郡の浄土寺にも中興一世宥雄法印の名が伝わっており、これも満願寺住持を務めた宥雄法印と同一人物ではないかと考えられます。

注釈

  1. 「第1編 萩開府 6 郭内の寺社 満願寺」(『萩市史』第1巻、1983年)
  2. 「第2編 市域の整備 4 2代綱広の治世 5 社寺と信仰」((1)に同じ)
  3. 「萩内 満願寺」(山口県文書館『防長寺社由来』第6巻、1985年)
  4. 「萩内 満願寺」元和8年4月20日 良春、宥英法印宛 輝元、秀就証文((3)に同じ)
  5. 51「堯辰図」賛文(九州歴史資料館『肥後人吉願成寺』九州の寺社シリーズ15、1996年)
  6. 「歴史編(その6)近世―安土・桃山・江戸時代 第2章 第21代 相良頼寛 第5節 社寺の修造と宗教行事その他」(『人吉市史』第Ⅰ巻、1981年)。ただし、「堯辰に法流附法のため」とあるのは師弟関係から見ても誤りかと思われます。
  7. 69「願成寺法脈」((5)に同じ)
  8. 53「照辰図」賛文((5)に同じ)
  9. 47「宥雄図」賛文((5)に同じ)
  10. 円福寺は江戸で真言宗の蝕頭寺院の一つであり、また運敞は後に智積院第七世化主ともなっています。
  11. 西尾和美「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(『四国中世史研究』第10号、2009年)
  12. 「第6篇 教化 第3章 神社仏閣 8 浄土寺」(久米村誌刊行会『久米村誌』、1965年)
  13. 「7 神社仏閣関係 2 如来院関係記録」(久米村誌刊行会『久米村誌資料集』、1965年)の記述によれば慶長5年の戦いの後に現在地に移るとあります。
  14. 「7 神社仏閣関係 3 浄土寺関係記録」((13)に同じ)に「某年、大僧都法印宥雄三蔵院を中興す」「寛永13年5月13日、妙寿虚空蔵菩薩像を施入す。仏師源作、住宥雄代(像、銘文)」とあります。
  15. 「第7篇 観光 第1章 文化財 1 浄土寺本堂」((12)に同じ)
  16. 『長岡京市史 本文編1』(1996年)によれば、寂照院は海印寺の塔頭十院のうちのひとつで現在では寂照院のみが残っているようです。

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