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宍戸景好の子供たち [人物]

第2版 2009/10/25

宍戸景好を大きく取り上げている西尾和美氏の「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」内で『宍戸家文書』に含まれる「宍戸系図」[1]が取り上げられており、そこでの景好についての記述は他の系図と変わりませんが、景好子については以前紹介した各種の宍戸系図よりも詳しいものとなっているようです。

この系図自体の詳細については「西尾論文」でも取り上げられていないため把握できていませんが、他の系図では景好の子について多いもので6男4女、少ないもので5男2女を掲載しています。 その中で、嫡子の善左衛門と次子の元頼については、同論文においても大きく取り上げられていますが、それ以外の景好の子について他家の系図や別の史料からも確認できる情報もありますので、ここで整理してみました。

良春

景好の三男として系図に現れますが、『続群書類従』の「宍戸系図」[2]に最も詳しく記されています。 それによれば出家し宥雄法印と号するとあります。 また、延宝4(1676)年11月12日没、74歳とあるため、これに従えば慶長8(1603)年の生まれと考えられますので、兄2人については概ね関ヶ原の合戦以前に生まれていたと考えてよいのではないかと思います。

最初長州の満願密寺におり、その後、洛西御室の密乗院に移り、地蔵院とも関わりがあったとされており、後に洛西を退去し亡くなったとされています。 なお、同系図で没年が記されている人物のうち最も最後に亡くなっていますが、これは系図の奥書にある貞享乙丑=貞享2(1685)年ともよく符合します。

元勝

『続群書類従』の「宍戸系図」では伊織、『系図纂要』掲載「宍戸系図」[3]では二郎右衛門としています。

寛永3(1626)年の給地帳では大津郡で340石ほどを給付されている宍戸二郎右衛門、佐波郡で460石ほどを給付されている宍戸次郎右衛門が見えます[4]。 宍戸元続の子、元高が次郎左衛門と名乗ったと系図にはありますので、こちらの人物である可能性もありますが、元高については『系図纂要』掲載「宍戸系図」では「食300石」と記されています。 元高兄の雅楽頭就尚も同じく佐波郡下徳地で500石を領しているので、大津郡の二郎右衛門を元勝、佐波郡の次郎右衛門を元高と考えることもできるでしょうか。

七郎左衛門

『系図纂要』掲載「宍戸系図」には存在が記されていません。

女子 乃美三郎兵衛就貞妻

全ての系図に現れており、またいずれの系図でも女子の中では最初に書かれていることに違いはありませんので景好の長女と考えられます。 兄弟との関係では『系図纂要』掲載のもののみ元勝の姉の位置に書かれています。

夫である就貞は乃美氏本家の生まれで、山三郎、三郎兵衛尉を名乗り、母は天野氏女。明暦3年正月20日に50歳で没しています[5]。 乃美氏と宍戸氏との縁としては就貞曾祖父にあたる景興の母が宍戸元源の娘であるほか、景好と隆景を通した乃美氏とのつながりも作用しているのでしょうか。

『続群書類従』の「宍戸系図」によれば寛文2(1662)年8月3日没とされます。 生年は不明ですが、没年から逆算すると夫の就貞が慶長13(1608)年の生まれとなりますので、彼女の兄良春の慶長8年生まれと併せて考えれば妻である景好娘もほぼ同年代と考えられそうです。

女子 古(吉)川七郎左衛門妻

『続群書類従』の「宍戸系図」では古川七郎左衛門の妻としていますが、『雑家系図』掲載「宍戸系図」[6]では夫を吉川七郎左衛門としています。 萩藩内では古川氏の名前が見られないため、吉川一族の誰かに嫁いだとした方が正しいのかもしれません。 一方、『系図纂要』掲載「宍戸系図」には存在が記されていません。

粂之助

某年3月11日没と『続群書類従』の「宍戸系図」にはあります。 また、『系図纂要』掲載「宍戸系図」によれば秀就に仕えたが死を賜るとあります。

また、『宍戸家文書』の「宍戸系図」において、景好の嫡子元真の項目に、「弟が江戸で阿曽沼因幡就春の同族隼人助と争論を起こし、死を命ぜられ、この件をきっかけに元真は毛利藩を離れて近江に移り、子の四郎左衛門が井伊掃部頭に仕えた」旨が書かれていること西尾氏によって紹介されています[7]。 さらにこの件に関すると見られる宍戸善左衛門ほか兄弟の連署書状が寛永14年に残されていることから[8]、粂之助の死も同年と西尾氏は推測されています。 善左衛門と連署している兄弟について西尾氏が触れていないのが残念です。 3月16日づけの文書であることから、3月11日没とされる粂之助の死の直後のものでありそうですので、連署しているのは武士であったと思われる元勝でしょうか。

この当時阿曽沼氏本家は石見守元理のころで関連の有無は不明ですが、寛永14年3月3日に就到が元理の所領の相続を許されています[9]。 また、因幡守就春はこの当時は江戸で当役を勤めていたようですがその振る舞いが財政にも影響を与えたことで、3年後の寛永17年には罷免され、給地の大津郡に帰るものの切腹を命ぜられたようです[10]。 就春の系譜がどのような位置づけにあるのかわかりませんが、元理の系譜と宍戸元続の娘や孫、真宗の有力寺院清光寺との関係が深いことがわかります[11]。

女子 松平采女正妻、了照院

こちらの女子も3つの系図全てに松平采女正の妻として現れていますが景好の末子のようです。 嫁ぎ先である松平采女正とは久松松平家の松平忠良の庶長子であるとされる寄合旗本松平忠節(忠利)を指しています。

忠節は元和6(1620)年に忠良の正室から男子が産まれた(後の憲良)ため跡を継ぐことはありませんでした。 寛永元年に父が亡くなった後、跡を憲良が継ぎ信濃小諸へと転封となった際に5千石の分知を受けて寄合に列しています[12]。 そのため信濃祢津に所領を持ち、また当初は交代寄合だったのではないかともされています[13]。

景好娘がどのような経緯で久松松平氏へと嫁ぐことになったのかはわかりませんが、忠良の姉妹にあたる松平康元の娘が毛利秀元の継室となったことがひとつのきっかけかもしれません。 特に伝わるものはありませんが、憲良誕生までは藩主となったかもしれない相手との婚姻ですので例えば秀元の養女として嫁いだ可能性もあるのではないでしょうか。 婚姻の時期は慶長の末から元和年間に掛けてと推測できますが、いずれにしても、当時の景好の立場が一門宍戸氏の当主元続の弟、家老益田氏との縁戚関係などを背景に藩内でも有力なものであったとも考えられそうです。

忠節は『寛政重修諸家譜』[14]の記述では元禄元(1688)年、『小県郡史』[15]では貞享3(1686)年にいずれも84歳でなくなったとされていますので、慶長8(1603)年または慶長10年の生まれと考えられます。 兄良春が慶長8年の生まれとされることと合わせて考えると景好娘は忠節より数歳から10歳程度年少であったのではないでしょうか。

また、実際に祢津の所領に忠節が入ったことがあるかどうかについては諸説あるようですが、同地には妻である景好娘に関する伝承が残されており、通称御姫尊の岩井堂は忠節の室(法名了照院、貞享2年没)を葬った御堂であると紹介しています[16]。 「祢津の巨石」と呼ばれる巨石に了照院が夢に見た仏像を彫らせ、それが了照院の病に効いたことから婦人病に効くと言い伝えられているそうです[17][18][19]。 この巨石の下に葬られた[20]ともされているようですが、忠節は江戸の谷中威応寺の内にある了俒院に葬られた[18]と伝わることから、夫婦共に長寿を得て江戸で亡くなったとも考えられます。

関係略系図

   宍戸隆家
     |――元秀―景好―女子
毛利元就―女子       |
    ―元清       |
     |――秀元    |
村上通康―女子 |     |
        |     |
久松俊勝    |     |
 |―松平康元―女子    |
 女子    ―忠良――――忠節
 |        ――――憲良
 |―徳川家康
松平広忠

注釈

  1. 西尾和美「伊予河野氏文書の近江伝来をめぐる一考察」(『四国中世史研究』第10号)で熊毛町三丘『宍戸家文書』に含まれると紹介されています。
  2. 「宍戸系図」(塙保己一編『続群書類従』)
  3. 「宍戸系図」(『系図纂要』第六巻)
  4. 「寛永3年 給録御配郡別石高名付附立」(『山口県史 史料編近世3』、2001年)
  5. 「乃美系図」(田村哲夫編『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年)
  6. 「宍戸系図」(『雑家系図』、東京大学史料編纂所蔵、4175-110)
  7. (1)に同じ。
  8. 「毛利家文庫」 *5家臣86 寛永14年3月16日、毛利元倶等誓紙并宍戸善左衛門尉等書状(宍戸善左衛門兄弟の事)(山口県文書館所蔵)
  9. 寛永14年3月3日 阿曽沼就到宛 毛利秀就安堵状(『萩藩閥閲録』第1巻、35 阿曽沼次郎三郎)
  10. 兼重慎一『長州藩財政史談』(マツノ書店、1976年)
  11. 児玉識『近世真宗の展開過程』(吉川弘文館、1976年)によると元続の娘が元理に嫁ぎ、元続孫の就尚の妻は興正寺准尊の娘、清光寺の住持となった准尊子の准円の妻は元続の孫娘、准円子の良重の妻は元理の娘(やはり元続の孫娘)という深いつながりが見て取れます。一方「宍戸系図」からは元続の別の娘が阿曽沼氏庶流の源左衛門就貞に嫁いでいることもわかります。
  12. 清和源氏(義家流)松平氏(『寛政重修諸家譜』)
  13. 小川恭一『江戸幕府旗本人名事典』別巻(原書房、1990年)
  14. (12)に同じ。
  15. 『小県郡史』第7編 武家の代 其二 第2章 統治世系 第2節 領主の氏文 二 禰津領(日本郡誌史料集成 中部地方、明治文献、1973年)
  16. 『上田小県誌』第二巻、歴史編 第一章 政治とその仕組み 第六節 祢津旗本領(小県上田教育会、1960年)
  17. ハローねっとジャパン「長野発 東信濃」 ≪祢津お姫様巨石≫
  18. 定津院
  19. クリッ区とうみ71 - 西宮区 - 御姫尊境内の清掃
  20. 宝塔調査
  21. (15)に同じ。

更新履歴

  • 初版
  • 第2版(2009/10/25)
    • 『続群書類従』の「宍戸系図」が伝える粂之助の命日の誤記の修正と、関連する記述の修正
    • 粂之助に関連して阿曽沼氏について記述

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